2012.12  別 冊 城 北 会 誌  


城北会誌の復刊 (城北会誌第1号より)


新旧城北会誌 今年、新しい『城北会誌』を手に取られた会員の皆様は、ちょっと新鮮な感じでご覧になっていただけたのではないでしょうか。判がA5判からB5判と大きくなり、表紙も写真版になったからです。
『城北会誌』は、今号で60号となり、これを記念して変更することにしたのです。ねらいは、字を大きくして読みやすくすること、写真も拡大して見やすくすることにあります。要するに高齢化社会に対応しようということです。
 皆様はどんな感想をお持ちになったでしょうか。「会誌」でなく「抜粋版」が送られてきた方、どうか今年の会費を納入して下さい。早速、この60号をお送りいたします。

 『城北会誌』の記念すべき第1号は、1958年(昭和33年)3月に発刊されています。発行者名は平久保章。昭和2年卒、当時戸山高校教諭。平久保先生は19号まで発行者を務められています。
 巻頭言は城北会会長の石平俊コ先生が書かれています。石平先生はこのときの戸山高等学校長(第10代)。当時は学校長が城北会の会長をされていたのです。その巻頭言を紹介させていただきます。

会 誌 復 刊 に 当 り て

                                 城北会会長 石平俊コ

 城北会誌は長い歴史を持ちながら、戦争の影響によって今日まで中絶していたのであります。戦後十余念を経過し、しかも母校の創立七十周年を迎えるに当って、本誌の復刊が企図され、その実現をみるに至りましたことは、誠に御同慶にたえない次第であります。石平会長
 府立第四中学校は、戦後の学制改革によって都立第四高等学校、都立戸山高等学校とその校名を変更し、校地もまた、加賀町から現在の戸山町に移転され、年に男女四百名の卒業生を送り出しております。従って戦前の四中の姿と今日の戸山高校の姿とは相違しているのであります。しかしながら深井校長が四十八カ年間の久しきにわたって培われた四中の伝統は、戦前戦後の激動期にも変わることなく常に新しきをとり内容を豊富にすることに努めながら現在の戸山高等学校の生命力となっているのであります。
 城北会員は卒業の時と所を異にしていますが、同じ伝統のもとに育った先輩後輩であることは申すまでもありません。
 学校は同窓会という一翼と、PTAという一翼との両翼があってこそ、健全な発展を期し得るのであります。幸に母校は力強い両翼によって進展していることを喜ぶものであります。戦災復興途上にある母校が創立七十周年を迎えるに当って、その記念式典に多数の城北会員が列席されて盛儀を極めたこと、また、特にその記念事業のために会員各位から莫大な醵金がなされ、現在、高等学校の体育館としては、都下随一を誇る体育施設を完備されたことは、母校発展のため感謝にたえない次第であります。
 本会発展のための努力は会員各位の御熱意によって着々と進められていますが、本誌復刊によって、先ず母校並びに本会の状況報告や、会員各位の緊密化を図り得ることができ、城北会報本来の姿を復帰し得ると確信する次第です。

 編集後記を、編集委員の一人で理事の鈴木定夫氏(昭9)が書かれています。これは、その前半を掲載いたします。巻頭言は大きな活字なのですが、それ以外の記事は59号までのものよりもさらに小さく、読むのに苦労いたしました。さすがに、第2号からは59号とほぼ同じ大きさの活字になりましたが。
 とにかく復刊第一号が出来上りホッとしました。旧臘の評議員会で会報復活が決まり、私が新聞界のはしくれにいるところから、編集、復刊業務の担当者の一人に選ばれたわけですが・・・・。この3月に卒業する新城北会々員諸君に配布したいという時間的な大前提がおかれましたので、まず原稿が会員各位からこの短時日の間に頂戴出来るかどうかが内心心配でした。復刊第1号ですので卒業年次別に会員の消息を掲載することを主に致しましたので、一応評議員の皆さんに執筆依頼の形をとりましたものの、原稿をお願いして締切までが2週間の1月末日というわけでした。案の状、十余人からしか頂けない。2月初め、申訳ないが催促状を差上げたところこれは大成功。続々原稿が到着。一番心配しました消息原稿も、こうして三十余名の方々から入手。慾をいった全員という数字からはもち論欠けましたが、中断するまでの会報で名編集長だった岩野先輩が、「鈴木君、原稿入手には苦労しますよ」と御注意下さったときの覚悟と予想からみれば、大成功という結果ではないかと御執筆下さった各位に感謝の気持ちです。これも会員各位の城北会再建への関心と、会報復刊を御支持下さる空気の反映といえましょう。 (以下略)

 城北会誌第1号は全36頁という、現在の3分の1にも満たない薄いものですが、1961年(昭和36年)までは年2回発行されています。1962年は1回ですが翌年は2回に戻り、1964年からはずっと年1回となりました。頁数も年々増加し、1963年3月の第10号は80頁に達しています。

                                     掲載者:林 善紀(昭34)