2012.12  別 冊 城 北 会 誌  


城北会の再建と城北会誌復刊の経緯(城北会誌第9号より)

 戦前の城北会については、前項の平久保先生が第1号に書かれた「再建途上の城北会」という記事によれば、以下のようになります。
 城北会が正式に発足したのがいつか、発足当時の会則がどんなものであったか、などのことについては、資料が失われていて判明しないが、大正の末年、昭和の初めころには、年1回の総会(模擬店、余興つき)が開かれており、城北会会員名簿、城北会報も年々出されており、城北会費も在校中に10円を納めることになっていたという。
 この状況は1938年(昭和13年)7月に深井先生が会長を退かれ、西浦泰治先生(明27)が後任会長に就任されてから後も継続した。しかし、西浦先生が会長を退かれた1942年(昭和17年)の11月に会員名簿がつくられたのを最後に、太平洋戦争という非常事態のもとで、やむなくその活動を休止することになった。

平田先生 第2号から4号には、第9代校長平田巧先生の「回顧」が掲載されています。平田先生は敗戦の翌年、1946年(昭和21年)4月に都立第七高等女学校校長から四中校長として着任され、都立第四高校を経て、都立戸山高校初代校長として1955年9月に勇退されています。戦後の大転換の時代を校長として努められた先生の「回顧」は、若い城北会会員の方々にも、興味深いものがあると思います。
 10年前の会誌編集担当者も同じように考えられたのでしょうか。城北会誌の第50号記念誌に、藤村久雄先生の「一教師の見た四中から戸山高校まで」とともにこれを再掲載しました。興味のある方もない方もぜひ読んでみて下さい。

 戦後の、城北会の再建や城北会誌の復刊に至る経過は、第9号(1962年8月発行)に掲載された「座談会/会長・副会長を囲んで」からうかがい知ることができますので、これを、一部要約あるいは省略させていただいて、掲載させていただきます。

 座談会  会長・副会長を囲んで

       出席者  佐久間長吉郎会長(明44)
             横尾石夫副会長(明44)  高田寛副会長(大5)
             平久保章(昭2)  鈴木信之(昭4)
             花見一(昭5)  鈴木定夫(昭9)  三木公久(昭18)
                     <1962(昭和37)年4月11日実施>

深井先生の胸像再建と城北会の再興

 佐久間 城北会というのは私ども四中出身者からいうと、四中の同窓会ですが、これは元城北中学というのが四中に変わってきて、その名をとって城北会としたんです。と同時に深井校長さんが城北時代からの校長さんだったというようなことで、おそらく、深井先生が城北会という命名をされたんだと思いまが、大体、東京の中学というのは地方の中学に比べて母校に対する関心とか、あるいは友だち間の関係が非常に薄いので、四中の城北会も、今から考えてみると、戦前も非常に盛んであったとはいえないと思うんです。
 私どもはその時分はまだ城北会のお世話をするような立場になかったんで、あまり深いことを知りませんが、戦後、城北会というものが復活するときになって、きょうのこういう会合を催すようになった一番大きな原因は城北会というか、四中の同窓会、あるいは戸山高校となってそれの合同した城北会という同窓会が活動力がにぶい、こういうことからきょうの会合、あるいは今回の規約の改正というのが出たんです。
 戦後、私どもは私が元の四中の近所にいたことと、それから私の仕事が印刷業で、いくらか紙とか、そういうような関係がありましたので、学校とのつながりがありましたときに、ちょうど深井先生の胸像問題が起こったわけです。胸像問題というのは戦前に深井先生の胸像が四中の校庭にあったのを戦時中に供出をして、あと大理石の像ができていたんですが、それが戦後、学校が戦災で灰燼に帰していたというので、斉藤素巖先生が、この人はわれわれの先輩ですが、ご健在であったから、再び斉藤先生の手によって、元の銅像を作りたい、こういう運動がわれわれ卒業生の間に起こりまして、これが城北会と結びついて、胸像ができると同時に、深井先生を中心とした四中の同窓会というものが復活の曙光を見せた。
 ところが当時、学制の改革がありまして戸山高校になり、その間にいろいろあって、昔通りの関係にいきませんで、再び卒業生が結合するということに非常に困難を感じました。当時の戸山高校の校長さんは平田先生だった。それで先生にお願いし、胸像の設置場所を戸山高校にしていただくということなりましたので、われわれと学校の結びつきが深くなってきて、あたかもきょうおられる横尾さんが海軍の出身でお手がすいたんで、その仕事を中心になってやるということになって、私が横尾さんのお手伝いをしてやるというような形になって、胸像はでき上がったわけです。その前後からさらに結びついて、城北会と校友会が同窓会ということに進んできた関係については、その渉に一番あたっておられた横尾さんにバトンを引きつぎます。……
 横尾 あの胸像を再建したのが昭和28年の10月なんです。その話が27年からはじまりまして、そして、さっきは私が主になってといわれましたが、そうじゃなくて、佐久間さんが主になってやられた仕事を私が手伝ったという関係でありまして、その点はあべこべであります。
 それで一応、胸像の方は片付きましたが、そのときに初めて、終戦後城北会をとにかく発足させるということになったものですから、役員の選出から一切をそのときから平久保先生がもっぱら骨を折られて、そして戦後の城北会の再建の土台を作られたわけです。それに対して、私がさっきの話のように、終戦後たいした用事がなくて、相談相手になれる立場におったものですから、高田さんおよび会長さんから折にふれては相談があったんです。それで世話役みたいなかっこうになってきたわけです。それから70周年の記念で体育館が作られたときに、その体育館の中の設備を城北会で寄贈するということに決まって、その仕事を昭和32年にやりまして、それによって昭和初期の方々の努力がいよいよ表面に現れてきた、というわけであります。32年以後、滝口さんとか鈴木定夫さんという方が一緒になってやって下さって、ようやく城北会の形が整ってきたようなわけでございます。
 そして鈴木(定)さんが(3年間のロンドン特派員を終えて)帰ってこられてから、俄然、鈴木さんの目にはとにかくロンドンに行かれる前の状態から見て何らの進歩がないという様子を見られて、これじゃどうにもならぬということで、つまり別の問題が起き始めた。……会長問題なんかもいろいろ話がありましたが、なかなか踏み切れなかったんですが、今度、石平校長がおやめになったので、この機会をもって、そういう態勢を整えていこうということに、皆さんも方向が向いてまいりましたので、それで今日のようなありさまに相なったわけでありまして、専ら、これの推進は強化推進委員でしてね。昭和前期の強化推進委員の方々の非常な熱心と努力によって、こういう態勢に進むことができたというふうに考えられます。われわれは、ちょうど10年ばかりそんなことでお世話しておったような関係から、まあ、相談相手になりまして、そしてその推進部の方々の努力に対して、できるだけそれがいい結果をもたらすようにということで、今日にいたりました。

会長・副会長と城北会

 鈴木(定) それでは、大正期を代表する形で高田先輩に城北会との関連をお話し願ったらどうかと思います。
 高田 私はお互いが世間で活動するについても、一人で何をしようとしてもできるもんじゃない。いろいろ関係しているものがもちつもたれつで助け合って、その銘々の自分の仕事を何とかやっていく、そうしなくちゃならぬと考えているのです。私は大正5年に府立四中を卒業したんですが、私たちの卒業生は、戦前から戦中を通じて毎年1回か2回集まっておりました。これは自分のクラスの前後のものだけであって、もっと四中の卒業生、ひいては戸山高校の卒業生というものが最もよく連絡とって親睦を結び、またいろいろ自分の生活についても助け合ったり、仕事についても連絡をとったり、そういうふうにやっていきたいということをかねがね考えていたんですが、ちょうど、先ほど佐久間さんや横尾さんからお話しのような次第で、四中戸山高校の卒業生がだんだんと集まって、連絡をとるような機運が生まれてきたということは非常に喜ばしいことだと思っております。
 それで私たち四中の卒業生は深井校長というものが中心で、われわれの頭には四中の深井校長というか、深井校長の四中というか、全く、四中については深井校長というものが非常に大きな存在であったために、まあお互いが集まっての話も、よく深井校長の話になるんですが、しかしこれから四中卒業生はだんだん数も減ってくる、戸山高校の卒業生はますます数が増えてくる、こういうグループが一つになって活動していくのには、やはり深井校長、深井校長とわれわれの頭にはこびりついているけれども、これだけにいつまでもとらわれているんじゃなくて、新しい今後のいき方というものはどういうふうにあるべきか、というようなことをいつも考えているわけなんですが、ちょうど城北会の強化推進委員会でいろいろ計画されたような、城北会というものはお互いの親睦をはかり、また連絡をとり相携えて社会に活動していくというような理想は、全くわが意を得たものだと考えているわけでございます。卒業生から会長さんを出すというようなことになったこの機会に、はからずも副会長をやれといわれてお受けしたわけですが、まあ、これから及ばずながら、この城北会というものが四中ならびに戸山高校のための卒業生が従来以上にお互いに密接な連絡をとり、親睦を結び、また社会的の活動についても、助け合っていくというような一つの団体に伸ばしていきたいものだ、そんなことを私はただいま念願しておりますので、この面で私にお手伝いをすることがあったならば、微力ながらできるだけのお手伝いはいたしたい。こんな心境でおるわけであります。
 三木 いまの高田さんのお話、要は城北会というものをはやりの言葉でいうと、価値のある会にしなければいけないのではないか(笑)。いままでも価値はなかったとはいいませんけれども、まあ、あまり価値のある会ではなかった。
 そういうところから強化推進委員会が生まれまして、いわゆる城北会の若返りの気運が生まれてきたと思うのですが、そういうものが出てきた母胎といいますか、それを推進委員ご自身からお話しいただきまして、今後会が目ざす方向、理想、それを実現していくためには、どういうふうな具体的な方策を立て、それを実現していくかというようなことについてお伺いしたいと思います。

強化推進委員会誕生の母胎

 鈴木(定) では、私からちょっと発言させていただきますが、いま会長、副会長から戦後、城北会が一つの復活というかまとまりをご苦心の末、作っていただいて、それを基礎にして、さらにその間、お話しに出ました城北会の若返りというような新しい事態が発足しようとしているわけなのですが、こうした動きが戦後の城北会の集まりが復活した過程に、いろんな形ですでにお話しが出ておったわけですが、気運というものがなかなか形をなさなかったということであって、そういう意味では今回、会長、副会長にご就任くださったいろいろな方たちのご苦労のうえに、新しくスタートしようということで、そういう意味では事新しくということじゃないのかもしれませんが、そういう基盤の上にこの新しい動きが作られようとしているということだと思うのですが、主として昨年初冬からそういうお話しが役員グループの中から、かなり具体的に強まってきたわけです。その結果、よりよりそういう主張をなさる方たちが母胎になって強化推進委員会というものを結成したわけです。
 人数としては昭和2年から9年までの方、有志で総計21名おられますが、……その方たちが強化推進委員会を結成したわけですが、この集まりは決して排他的なものでもないし、さらに将来の発展のために尽してくださる方は、この会に加わっていただいて、なお強力な推進母胎になっていただこうというわけです。とりあえず、現在はいま申し上げたような会員の方たちによってできたわけですが、この集まりであれこれ城北会の前途を、現状改革を話し合ってきました。それを一応、城北会の強化推進試案という形にまとめまして、会の機関にかけたわけです。その結果、その大綱を承認を経て、そのいくつかを規約に基づく手続きに従って具体化をはかってきたわけですが、その一番大きなことは、形のうえでは会則の改正という形をとったわけです。……
 そのいくつかを申し上げると、従来、伝統的に深井校長以来、校長が会長になるという伝統ができたんでですが、先ほどから会長のお話しもありましたように、現在の石平校長が、この3月末でおやめになるという機会にもぶつかりましたので、会員から会長、副会長を選出してお世話願おう、これが従来にない一番大きい、また城北会の、いま私たち考えています気運を象徴するものではないかと思うのですが、その結果、佐久間会長、横尾、高田副会長を選出したわけです。これは同時に、先ほど三木さんのお話にも価値ある会という言葉がありましたが、それはいいかえれば会の現状は明治・大正・昭和の会員層から、さらに戦後は制度の改廃に従って戸山高校という名前に象徴する四中が、新しい姿を代表する会員が年々、現在、過半に近づいているという状況からみましても、戦後の若い会員も、この会の集約した、言葉をかえれば、魅力ある会にもっていかなくちゃいけないのではないかということだと思います。会員の年齢層から見まして、昭和の前期の会員の方たちが、ちょうどそうしたものの橋渡しの真ん中にいるように思いますので、まず昭和前期の十年代の会員の団結を図って、それを中心に戦後の会員層に広めていく。そういう形で、魅力ある会の基盤を作りたいということが、まず私たちの狙いになっているわけです。そうすることによって、将来、戸山出身の新しい会員に将来を託したい。この将来を託すにあたっては若い会員層にはいまの会の状況では結びつかないのではないかという心配を、私たちが懸念したわけです。従って会則の改正の目的の条項にも従来の微温的な、一般的な同窓会の定義をうたってあるのをこの際改めまして、母校を卒業して社会にそれぞれ活躍している会員の集まりであり、同窓という意味が会員どうしお互い助け合い、社会生活の過程に、この会につながりをもつことによって、お互いの現実的なプラスにもつながるというものを、将来の同窓会の実態に作っていきたいということでもあるわけです。具体的には、そうした趣旨に会の機関を通じてご了解を得て、決議の形をとるとか、いろいろしましたが、具体的には財政の問題であり、機関誌の充実でありということになるわけですが、とりあえず魅力ある会に同窓会を若返らせたいということにつきると思うのです。

戦後の城北会 (城北会誌の復刊)

 佐久間 平久保さんは、直接、渉にあたっておられ、いままで苦労されていらっしゃるのですが、いままでの同窓会で一番の欠点とか、あるいは苦労してもうまくいかぬとか、そういう点はどうですか。
 平久保 城北会というものが、ずっと終戦後、形だけは継がれておったわけですが、それを実際に運営する場合に人がおらなかったということなんですね。というのは実際に事務をとるものですね。初めの数年間は、私が一人でやっておったんですが、その手足になるものがおらなかったということと、それからまあ、お金がなかったということなんですね。私が終戦後、城北会関係の事務をすることを学校から委嘱されましたのが、昭和23年だったと思うのですが、その前は母校出身の岩野先生がやっておられた。それは名簿係という名称なんです。それを私が学校の校務分掌の一つとして受けもったんですが、その引き継いだときに、城北会にこれだけの金があるというんで渡されたのが9百5,60円だったんですね(笑)。それでもって戦後、たとえば名簿関係で見ますというと、こちらが名簿係という名称なもんですから、その立場で見ておりますと、終戦後、大移動してしまったわけですね。そいつをどうしてわからせるかというようなことでも、とにかくお金さえあれば、いろんな通知が発送できる、古い名簿を見て全部に一応、発送してみるというような手続きもとれたんですが、そういったようなこともできなかった。結局、何としてもお金がないということ、それに、手足になる者がいない。こういったような状態が27年まで続いてきたわけです。
 それでまず、戦後から取らなかった入会金というものを在校生からとらなければ、何の仕事もできないというようなことを校長先生に申し上げて、それを職員会議で承諾を得て、28年の4月からとり始めて、年間14万くらいはいることになって、それを元手にして名簿の作成にかかった。そんなわけでお金がどうもうまくいかない(笑)。それと人がおらないというようなこと、それが初めのうちは一番苦労したところですね。そのうちに花香さんを入れるというようなことで、私の手足になって働いてくれる人が出てきたものですから、その後、以前に比べてだいぶよくなりました。
 佐久間 城北会誌という雑誌を出したのは、最初の名簿ができた前ですか、それともあとですか。
 平久保 あとです。
 佐久間 名簿ができたので、それを土台にして校友会雑誌を出そうという話が出て、それから皆さん方のいろいろご苦心になったところへくるんですね、段階は。
 平久保 そうですね。
 佐久間 雑誌は内田さんがやっていたのですか。
 横尾 はじめ鈴木さんがやって……。
 佐久間 初め鈴木さんがやっていて、外国へ行っちゃうんだね。そのへんを一つ……。
 鈴木(定) 同窓会にすぎませんが、団体である以上、何か、まとまりのつく方法として、さっきお話しが出ました岩野先生が作ってくださった小型の城北会会誌があったわけですが、戦後、同窓会が復活して、やはりそういう場合に私が何も新聞社に関係しているということからではなく、当然、機関誌というものがあるべきではないかと私個人も考えまして、それが当然、会議のお話しに出て、鈴木が関係しているから第1回をやれというお話しで、一応お引き受けしたわけですが、もちろん、内田先輩その他のかたがたのご助力で第1号を作りましたが、あと、私、仕事の関係で海外出張の命令が(あり)、……それが印刷にかかる時期と一緒になってしまいまして、学校に現在もおられる月光先生からは、私の自宅へご足労願って、ちょうど停電などにぶつかりまして、ロウソクの灯の中で校正をやったりして、非常に忙しい思いをいたしましたが、……第1号をとにかく作り上げたわけです。そのあと内田先輩、三木さんが内容を充実したものを出して、今日、8号まで出ているわけです。第1号は7千部前後、とにかく印刷してお配りしたのですが、購読制度をとりましたために、現在は全会員9千の数が出てないんですが、これもぜひ、機関誌という性質上、全会員に、できれば無料ででもお配りするように発展させたいと思いますし、年2回の発行についてもいろいろとご意見もありますが、三木さんのご経験から、その間に新聞形式のものでも出して2回の間をつなぐというようなことはどうかというご意見が出ているのです。
 話がちょっと横にそれますが、関連があるので申し上げたいと思いますのは、城北会としまして、在校生が城北会をいったいどういうふうに考えているかというような点が、新しい会員の皆さんを城北会に結びつけるうえに必要だと思いまして、城北会に対する在校生のアンケートをやってみました。……その項目の一つに城北会誌というものを在校生諸君には年2回配っているわけですが、これを読んでいるかどうかという点について、86%の諸君が読んでいる。読んでいない方が14%という数字が出てまいりました。雑誌の内容についての意見を見ますと、在校生に魅力のある読ませるような記事を出してほしいというような点、それから深井校長の記事が多すぎるという意見、いろいろ率直な意見が出ました。とにかく大半の在校生諸君が機関誌というものに関心をもっていてくれることがわかりましたので、今後いっそう会誌の充実を会としては考えるべきではないかと考えております。三木さんが現在、この雑誌を中心になって平久保先生と一緒にご苦労をしてくださっているわけですが、近い将来、やはり、編集委員会というようなお手伝いをするグループを作るべきじゃないかと考えているわけです。
 花見 推進委員会がどうしてできたかということは、あれ、だいたい、やらざるをえないという感じが出たのは総会ですよ。一昨年でしたか、70周年記念のときには、割合に総会は、それ以前より調子よく集まったけれども、その次の年はばかに減っちゃって、昨年なんか、いったい、これはここでやっても成り立つかしらん、200人になるかどうかという心配が出てきた。こんなことじゃあ、しりつぼみになっちゃう。総会なんかあったって集まらなくなるんじゃないか、これはもう少し何とかしなければ、城北会がつぶれちゃうというような話が出た。それで、いまのようなあり方じゃ、こうなるのは当然だ、もっと魅力のあるもの、それはさっきいわれたように、これだけの同窓生がおるんだから、お互いに手をとって、お互いに助け合って、そしていろんな方面でお互いに伸びていこうじゃないか。そういうものにしていけば、必ず集まってくる。そういう意味でここで盛りあげなくちゃならぬというんで、よりより集まるようになったんじゃないかと思います。
 鈴木(定) そうなんです。理事会で総会の開き方が昨年問題になりまして、名案はないかということで、いかなる形で総会を開くかということでを考えるというご命令が理事会から出まして、それが最初の強化推進グループの集まりだったわけです。そして去年の5月の総会で、クラス会を開くという形で、一応、理事会に答申した。その集まりが強化推進委員会に発展したわけです。
 鈴木(信) そうですね。
 佐久間 そういう意味においては去年のプランは成功したわけね。それが一つのきっかけになってこういうことになったんだから……。

強化推進委員会の空気

 鈴木(信) いま、花見君、鈴木(定)君のお話のように、昨年2月の大手町ビルでの役員会のときに、いつも出て見える森井さんあたりから、もう横尾さんが会計報告をやっていたりしたんじゃ、という話が出て、横尾さんにはたいへん失礼なんですけれど、それで、もう少し若い連中にやらせろという森井健介さんのお話、あのへんが導入線になったんです。
 強化推進委員会の空気をお話しする前に、私どものクラスの方から申し上げると、たしか10年前ですね。みんなが40の年をぼつぼつ越えてきた頃、昔の仲間がだんだん恋しくなってきた頃ですが、最初10人位で集まったんですね。それでそういう集まりをしたことをみんなが聞くと、なぜおれに知らせない、おれにも知らせろということで、それで、やるたびに人数が40,50とふえて、それから地方からも出て来る連中なんかもあるから知らせておけということで、現在、僕のところのクラスでは160人連絡が取れるようになったわけです。林君、鈴木秀君が最初のうちは非常にめんどうをみてくれて、その結果、クラスのお互いがいろいろの意味で、助け合える道が開けて大いにプラスになっていると思います。自動車を買うんなら、日産に石原君太田君がおるから、頼めば便利だとか、病気したら医者はいっぱいおるから、安心して施療患者で頼めるし、私なんかは商売違いだからなんだけど、それぞれなかなかうまくやっているんですね。そういうことが、われわれのクラスだけじゃなくて、だんだん広がっていけば、僕はかねがね城北会の連中がある程度動くと、日本を動かす(笑)、みんなの力を集めたら日本を動かす原動力にもなるんじゃないか、というようなことをよく話していたんですよ。これは夢物語といえばそれまでですけれどね、よい意味においてがっちり組んでいけば、ほんとうにゆけるんじゃないか。
 もう一つ、日比谷の連中と四中の連中を比較すると、一中は文科系統が多いでしょう。四中は理科系統が多いからどうも、そのへんに違いもあると思うが、私の知っている日比谷の連中は、やはりお互いに引っぱり上げたり、いろいろ密ですね。四中よりかは少なくとも親密ですよ。それで、そういうことだけじゃなかったんですけれども、一方、城北会がだんだん尻つぼみになってゆくというんで、これをもう少し魅力のあるものにしていこうじゃないかということで、強化推進委員会の一員になってやってきたわけです。
 それで、いまの強化推進委員会は非常に愉快な会ですよ。私より兄貴分は、2年の平久保さん、高橋周一郎さんがヘッドで、3年ではよく見えるのは村田さんと松本さん。いいたいことを言って、談論風発、非常に教えられることも多く、良い楽しい話をして、それが建設的に積み重なって、進んでいる。だから愉快なんですね。これは良い傾向なんで、これをどんどん伸ばしてゆきたいと思います。

若い会員との結びつき  (同窓会館の建設を目ざす)

 鈴木(定) 今度の在校生のアンケートで見ても、先輩後輩の交流の必要を認めるかということに対して、やはり74%の諸君がぜひ必要だと答えているわけです。だから必ずしも四中がよその学校に比して、上下のつながりが薄いという過去のことが、現在の諸君には、そういう形で出ないようにも思えるんです。
 鈴木(信) 四中の先輩だって、お願いに行けば、けっこうやってくれますよ。僕の例でいうと、43年の大木さんや、飯沼さんなんかと一緒に出た人で、大槻晃平さんという人がいます。その大槻さんが戦争中、上海電業廠というのを上海の兵舎のあとを使って通信機なんかの仕事をやっていた。私は大槻さんが先輩ということを知らなかったが、ある人の紹介で帝国ホテルでお会いした。私が知ったのは、どういう話からか、おれ、四中出なんだという話が向こうから出てね、ぼくも四中ですといったら、そうしたらそれだけでそうか、そんなら君にみんな任せるよということで、戦争中、そのころの金で1千万くらい出してくれたから、その金庫番をやったんだけれども、それこそはじめて会っただけなんです。四中出たのには、そうでたらめなやつはいないと思うんです。そういう意味では、ある程度、めんどうの見がいがあるんじゃないかと思うんですね。この間も花見君と話したんだけれども、だんだん若い人がわれわれのところへ遊びに来てくれるのですが、後輩が遊びに来る、ということはうれしいですね。そういう面では、尋ねたりいろいろ交流があれば、何かプラスになると思うんですね。
 鈴木(定) ただ、戸山高校になりまして、女子がまじっているわけですよ。だから会員のなかに女子がいるわけです。この問題も、やはり私たちとしては考えなくちゃいけない一つの問題だと思いますね。
 鈴木(信) それじゃあ結婚媒介所でもやるかな(笑)。
 花見 お婿さん見つけるのは、やはり四中ですね。戸山の方がなんだか信頼度があるんですね(笑)。やはり自分が教育を受けてきた、ああいう教育を受けている子弟ならばそうでたらめはしないだろう。婿選ぶなら、なるべくなら戸山の後輩がほしいと思いますね(笑)。
 (中略)
 佐久間 日比谷との比較が出たけれども、元の一中とか付属ね、付属中学は非常に交流があるんですね。ロータリーにはいってもそうですよ。そういう感じがしますね。付属なんていうのは特に交流が多いですね。四中というのは一番少ないんですよ。
 鈴木(信) どうもそうらしいですね。
 佐久間 四中の卒業生に四中の教育に対する否定論者が相当ありますね。だけれども、そういう人もだんだん年をとってくると、そう思わなくなるんじゃないか。
 鈴木(信) それはやはり年で変わってきますね。
 佐久間 純情多感の少年から青年に移り変わる5年間受けた教育というものは、知らず知らずの間にわれわれの性格を作っているはずですよ。自覚しないけれども、やはり四中の卒業生には共通のところがある。戸山高校にもわれわれの育てられた四中の伝統というものは、やはりつぎ込んでいきたいもんですね。そのためにも今度の企ては意味が大きいと思うんですね。私なんか四中卒業といっても、ほんとにしない人が多いんだけれども(笑)、だんだんつき合ってるうちに、やはり四中というものがあるらしいね。自分ではわからないんだが……。
 鈴木(信) たしかにそうですね。
 佐久間 やはり戸山高校はいくらかまじめなんじゃないですか、生徒が。ほかの高校に比べて。
 平久保 われわれが、ただ、戸山高校の生徒だけをほかの学校の生徒と比較をしないで見ておりますと、もう少し何とかしたらいいんじゃないかと、思いますけれども、ほかの学校の生徒と比べますと、やはり違いますよ。それをどこで感じたかといいますと、数年前に関西旅行に一緒について行ったんですが、東京駅に集まったときです。そのときにいくつかの学校が旅行するので東京駅にずらっと並んだんですね。そうしますと、いままで感じなかった戸山高校の生徒の品のよさということを、そこではじめて感じたんです。他と比べると違いますが、うちだけみていたのではわからないんですね。
 花見 やはり大勢の中に出ると、自然に戸山という意識が、態度に出るのですね。
 高田 やはり伝統を受け継いだ校風というものがあるんですね。
 平久保 京都へ行きまして、旅館の方で、こちらが頼まないのに、特別に舞子さんを呼んでくれて、踊りを見せてくれたですよ。それだけ好感を持たれている。われわれ教師からみれば、いろいろ欠点が目につくんです。ところが第三者というか、ほかの学校の生徒と比べてみると、やはり違うんです。
 高田 それはたしかにそうでしょうな。
 佐久間 それから、われわれのときと生き方が違う。近ごろ、会社で雇う新人社員というのは、非常に勉強するのが多いんですね。昔よりは案外ね。どこの会社でもそういいますよ。戦争で負けて苦しんでいるし、われわれみたいな温室育ちじゃないから、ぼやぼやしていないんだね。ちゃっかりしたところは多くなったけれども、その代わり、自分の先のことを考えておるのです。戸山あたりでも、会誌を80数%の人が読んでいるというのは、やはりそういうことを考えている人が多いのかもしれない。ただ、興味本位じゃなくて。
 三木 編集の立場としては、どんな記事を扱っても、おもしろくしなければいけないということを考えていますから、題材は堅くても、内容はおもしろくするように努力しているつもりです。
 鈴木(定) いま編集の話が出ましたけれども、つまり三木さんは、ほんとうにそちらの方のベテランなんです。三木さんのいろいろなアイディアに従って、いろいろなプランを立てますが、そのプランが実際において、いままでのところはほとんど実現できなかったわけです。
 佐久間 先立つものは金か。
 鈴木(定) 金もですが、いまのところ、実際、働く者がいないんです。
 三木 情報網もないわけです。一般会員の協力も、ほとんど得られない。私の高等学校(旧制)の同窓会はよく情報が集まるようになっている。会員間の結びつきが密接で、締切りがくれば原稿はだいたい集まっている。城北会の場合はほとんど原稿なんて集まってきませんね。
 鈴木(定) いま、現在の戸山高校も、いわゆる伝統をもつ生徒として、いろいろお話しがありましたが、それを今後、新会員を迎えるには、われわれの立場からこの新人会員諸君に同窓会に魅力を感じてもらうように同窓会の基盤をいっそう育てたい。その一つのヤマは42年の80周年じゃないか。私たち、なんとなく42年、80周年を頭に描いておりますが、会の仕事をお手伝いして一番感じますのは、平久保先生なんかもその点ご苦労なさってきたのですが、会員の皆さんに通知をするという問題、その通知を受けた会員のみなさんがご返事をくださる、それから会合でお招きをした場合にはとにかく都合して出ていただきたい。こういう素朴な点から城北会というものを育てて、いっそう強化するうえに問題があるのが現状じゃないかと思っているんですが、これも年々、会員間の親密度が深まれば、そういう問題は当然、解決していく、その過程に、あるいはそれを早める手段として、やはり会誌の部数を増やしたいわけですが、なにしろ、購読制をとっているという点にいろいろ問題があります。80周年に、会長さん、どうですか、何か記念事業というものをやりたいと思いますが。
 佐久間 いろいろやりたいことはやりたいね。
 花見 そのことで、会長さんに申し上げたいのですが、どこでもいいから、われわれ同窓会が簡単に集まれる、行けばだれかがいてくれるというような、そういう集合場所を考えていただきたいのです。
 佐久間 やはり会館があれば一番いいんですね。
 鈴木(信) そうです。
 佐久間 建てるところはやはり戸山高校か……。こういうところへ建てればいいけれども、金ばっかりかかってだめだね。
 花見 場所はなるべく集まりいいところがいいんだけれども。
 佐久間 あの校門の脇の土地というのは借りられるの?
 平久保 あれは東京都にお願いすれば、なんとかできるかもしれませんね。
 花見 あの土地は悪くないと思いますね。
 佐久間 そう不便じゃないんですよ、戸山というところは。われわれはちょっと不便だと思いますけれども……。
 高田 われわれ、戸山ヶ原をすぐ頭に浮かべるけれども、いまはそうじゃない。
 佐久間 あそこのところでも建てさせてもらえれば……。やるとすれば、何も80年に出来上がってなくてもいいんだね、ある程度見通しがついていれば。
 花見 80周年には建てるという約束でもしていただければけっこうです。
 鈴木(信) 80周年は初代会長、副会長でやっていただくということでお願いしているんです。その点は横尾さんにはだいぶ前からお願いしておりますし……。
 平久保 とにかく犬馬の労はいといません。やはり重鎮はどっかとすわっていていただかないとね。

母校への働きかけ

 三木 いま、在校生が納めている会費はいくらですか。
 鈴木(定) 4月からはいる新入生諸君は毎月50円、従来は30円、入会のときに1800円になるわけです。
 横尾 年600円ですね。
 三木 在校生にとって、会費を取られているから、城北会があるということじゃ困るんで、在校生や若い会員と会との結びつきを強化するには、会としてやはり何かそのための策を施さなくちゃいけないと思うんですけれども、それには一番いいのは会館ですね。会館があればいつでも使えるし、会員もみんなが使えるし。何とか実現をしていただきたいと思うのです。
 平久保 それができればみんなが利用できますね。
 三木 結婚披露宴を安い費用であげられるとか……。
 鈴木(定) 城北会館を具体的に説明しないでアンケートしてみたら、ただ、城北会館というだけで在校生が一つの概念を描いて答えた数字が、66%はぜひほしいという回答が出てきておりますね。
 三木 今のままでは、会費を払っても、見返りが全然こない会員が非常に多いんですね。それじゃいけないんで、やはり見返りがなければ(笑)。
 鈴木(信) まあ、そういうことになるんで……。
 平久保 見返りがあるからこそ、会を組織する意味があるわけです。
 鈴木(信) とられっぱなしの会費じゃいけない。70周年のとき大阪の方にぼくが寄付を集めて歩いたときも、やはり見返りがないような状態にいる人は冷たかったものね。もう、おれのところは子供もお世話にならないからと。
 三木 地方から出てくる人のために宿舎設備なんかもあるというような……。
 平久保 何か仕事のことで出張する、そういうときには城北会の方で連絡をしてやるとか、とにかく会員にいろいろな面でプラスになることがないと、会の存続に意味がなくなってくる。
 三木 それから、会の今後の発展のためには、在校生に対する城北会からの積極的な働きかけが必要です。
 鈴木(定) 今度のアンケートもそういう点にふれてみたんですが、一番多いのはサークル活動を通じて城北会とのつながりを、という点が一つはっきりしてきました。
 また、アンケートの中にこういうのがありました。城北会館も必要だけれども、現在の校舎をもっと立派にすることが先決である(笑)という回答です。
 鈴木(信) それは、42年までに全校舎が鉄筋になるの。
 平久保 それはまず間違いないでしょうね。いつ建てかえるのかということは確約はないですが。
 佐久間 入口の方は木造でしょう。
 鈴木(信) ええ。何か暖房のはいる部屋とはいらない部屋があるんですね。
 平久保 夜間の授業をやっているところだけはいるんです。昼間は絶対に使わないんです。
 鈴木(信) それから深井奨学財団でわずかばかりの金をくれるより、あれでもって運動場なんかもう少し木を植えてほしい。若い連中が集まると、そういうことを言う。ほこりがたってすごいそうですね。
 平久保 あそこはひどい。
 鈴木(信) 奨学財団が木をずっと植えてくれたとか、ほこりをいくらかでも防止できるようなことをしてくれたという方が生きるんじゃないか。
 平久保 奨学財団の奨学という意味のとり方ですよ。つまり奨学資金的のものと、奨学というのはただ個人の奨学という意味じゃなくて、全体の奨学というようなことですね。
 横尾 むしろ、その方に重点をおいてやってもらいたいんですよ。
 佐久間 奨学財団というのは奨学金を出すということしか考えない。
 横尾 いや、あべこべだよ。少なくも、ぼくは、そんなことは考えないでいきたいと思う。ただ仕事をやるうえについて事業計画を出さなくちゃならんので、それで事業計画を作るときに奨学資金を年に何人にかやる、それについてはこれだけ金がいるというようなプランが出てきたわけだ。それもその一つになっているけれども、それはぼくらの考えじゃ、事務的なもので、むしろあの校庭に木を植えるとか、手入れをいろいろするとか学校の手で生徒のために役立つようなものに使ってもらいたい。それから先生の研究を助けるとか、そういう方面に主として金を使ってもらいたい。
 花見 木はいいですね。
 高田 特定の何人かに金をやるということより意味がある。
 平久保 いまは奨学金制度が整っておりますからね。
 横尾 そうなんです。あっちの方面は初めから私はそういっているんです。
 鈴木(信) われわれ、ずっと窓辺に青桐があって、そこで授業を受けた。ああいう状態が、いまの戸山にはない。
 高田 こんなのは早速やったらいいと思いますね。
 平久保 植樹計画は学校では立っておるんです。どこにどういう木を植えるということは、ちゃんと決まっているんです。その金は卒業するときに各人百円ずつ納めているんですが、年間4万か5万、それだけの範囲で、ぼつぼつやっておるんですけれどもね。
 花見 いまの学校の鉄筋の件ですね、そういうのを校長は、もちろん一生懸命運動をすすめるんでしょうけれども、会長さんもそういう方面でなるべく同窓の中に、関係者を見つけていただいて……。
 佐久間 都に働きかけるんだな。
 花見 そういうふうにしていただくと、やはり学校に同窓会というものがあって、それがいろいろ骨をおってくれるということで……。
 佐久間 いままでの同窓会員は骨を折らなかったよ(笑)。
 高田 こういうことがある。前に校舎が焼けたですね。焼ける前に一部鉄筋でしたね、たしか。
 佐久間 そうでしたね。馬小屋が焼けて鉄筋ができたんだね。
 高田 いや、その当時、前の平田校長のときでしたね、私の家へ平田校長先生がわざわざ見えたことがあるんです。そんなことで副知事に会ったわけですが、当時、副知事が四中の先輩の大木操さん、それでだいぶ予算をとることを先輩にいろいろ心配をしてもらったことがありますよ。
 佐久間 あのときは大木がいたり、そのあとだれかいたよ−−萩原さんだ。ぼくはロータリークラブでよく会った。
 平久保 そういったことがいまの在校生にはわからない。機会あるごとに、今後は先輩のなされた功績は吹き込んでおかないと。
 高田 城北会が母校に関心もっているということを、在校生に知らせることが必要なんですね。それでまた、こういうときにはだれか関係ある先輩に頼んで奔走をしてもらうということも、それもけっこうです。まあいろんな消息を会誌によってもっと知らせるということ。
 佐久間 いままで一人一人考えてはいるけれども、団結する力、実行力が少なかった。
 花見 やはり数が集まらないと、一人だけいくら力んでみたところが、どうも……。

会長・副会長の抱負

 三木 それではそろそろ速記を止めたいと思いますが、会長・副会長さんから締めくくりに今後のご抱負を……。
 佐久間 きょうは城北会誌の編集部の主催で座談会を行い、この座談会を機会にみんなの考えていたことが、だいぶまとまって発表になったんで、私どもは推進委員会に出ていませんものですから、きょう推進委員会の意気込みの一端を伺って、大いに快くしているわけです。
 最初に申したとおり、私どもは名まえだけ出して、動くのは推進委員会にお願いしているんで、きょう、推進委員会のご意見を聞いて大いに安心し、かつ、その上に乗っかって、今後、老躯にむち打って動き回ろうと思っておりますが、私や横尾さんは老躯ですが、高田さんの方はまだ老躯でありませんので、壮年の意気込みをもって一つやってもらいましょう(笑)。
 横尾 私は戦前から城北会に関係をもって、初めから佐久間君の女房役ということを自認してやっておったんでありまして、佐久間君が、たまたまいろいろと忙しいものだから、なかなか常任理事会なんかにも顔が出せないというので、私がその代わりに、皆さんのお手伝いをするというような立場でやってまいりました。これからも引き続きその形をとって、いくらかでもお役に立ちたいと思っておりますので、抱負とか何とかいうものは、要するに会長佐久間氏の抱負を私がやる、こういうつもりであります(笑)。何分、よろしくお願いいたします。
 高田 佐久間会長の老躯なんてとんでもない話で(笑)、まだ会長さんは精神年齢は30代で、昨年の国際ロータリー大会なんてあのやっかいな仕事をほんとうに中心になって、みんなを駆使して、成功に導いた原動力は、この佐久間会長であって、私はロータリーマンの一人としてよく知っております。まあ一つ、佐久間会長を中心にして城北会員が仲良く手を握って、これから社会にますます活動をしていきたい、そんなことをしみじみ感じている次第でございます。
 三木 それでは、長時間どうもありがとうございました。

 この座談会の中ででてきた同窓会館は、戸山高校創立80周年の記念会館として完成しました。これについての詳細は、次回の別冊城北会誌に掲載いたします。
                                     掲載者:林 善紀(昭34)