2013.2  別 冊 城 北 会 誌


高等学校の教材として「クリトン」を使った指導記録

                      (昭和34・7 「道徳と教育」)


  著者の中村義之先生は、1949年から1964年まで戸山高校に在籍されました。社会科の教鞭をとられ、クリトンの愛称で生徒に慕われました。
 先生の担当は「一般社会」のち社会科「社会」(現在は公民科「政治経済」・「倫理」)で、この科目は1年生で学習することになっていましたから、新制戸山高校へ入学したての1年生は、4月から社会科の授業を中村先生から受けるわけです。その教材がソクラテスの弟子のプラトンが著した『ソクラテスの弁明・クリトン』でしたから、岩波文庫版(久保勉訳)の『ソクラテス…』を購入しなければなりませんでした。当初、先生は「クリトン」の方を教材とされましたが(もちろんこれが愛称の由来です)、途中から「ソクラテスの弁明」(原題・アポロギア)を読んでいくようになりました。
 『城北会誌』は今特集として「座談会/私たちの戸山時代」を組み、今度の61号で4回目になりますが、3回目の冒頭の挨拶で、加来要機関誌編集長(昭34)は次のように述べました。「私が昭和31年に戸山高校にはいってびっくりしたことは…、中村先生の社会科の授業で『ソクラテスの弁明…』が我々の先輩から15年間くらい教科書だった。高校とはすごいところだなあ、非常に難しくて訳が解らなかったという記憶がある。」
 私も、高校とはかくも中学とは違うのだ、と思ったものです。ほとんどは、哲学とか思想書とかには今まで触れたことのない生徒だった(私も含めて)と思います。6カ月後には、拙いレポートを出して、このテキストによる受業は終わりましたが、クリトンの名前だけは、当時の戸山生は忘れていないと思います。
 知識、経験の乏しい新入生徒にたいして、中村先生が『ソクラテスの弁明・クリトン』をなぜ教えるかということや、いかに教えるか、そのことにいかに情熱を注いでおられたかのご苦労の様子が、本文を一読いただければ見えてくると思います。
 本文は、1959(昭和34)年7月刊の教育雑誌『道徳と教育』に掲載されたものを、中村先生が1976年3月に自費出版された『残恥断章』に収録されました。それを、ここに掲載させていただきました。
                                     掲載者:林 善紀(昭34)


 プラトンの対話編「クリトン」を教材として使用してから、十年ちかくなる。その間使わなかった年や「アポロギヤ」を使った年もあって、実際使ったのは六回ほどであるが、以下その体験をお伝えして、参考に供したいと思う。

1、どうして教材とするの至ったか

 「クリトン」を最初に使用したのは昭和二十五年のことであった。
 当時六・三制の教育制度は発足したばかりであったが、すでに欠点が指摘されていた。「いろいろのことを知っているが、何かしんが抜けている。思考力がなくなった」といった悪評が起こっていた。ある人は当時連続事故を起こした電車にちなんで「六・三制でなく六・三型の教育制度だ」などと言っていたものだ。
 これらの責任を、すべて新しい教育制度や戦後新設された社会科に負わせることは、もちろん出来ない。特に終戦後のような混乱期にあっては、混乱そのものが最大の原因であって、「時代の子」と言われる児童や生徒に、それがそのまま反映した結果が、前述のようなことになったのであろう。
 また通常の場合ならば、児童や生徒が直接社会と接触するのを防ぎ、彼らを社会悪から保護してやるべき大人特に教師が、同じく社会の混乱の影響を受けて、生活の安定確保のために精力を裂かねばならず、その任務を十分に果たせなかったことも原因の一つであろう。
 しかしそれだけでなく、新教育についての理解の不足や、昔の修身を否定することに急であったため、生徒指導について誤りを犯していたのにもよるのである。
 これらのことについては深く触れる暇はないが、自由が十分な意味で理解されず、放任と混同されて、知識は多量に教えはするものの肝心かなめの人間自身の指導が、自由の名の下に放任され等閑視された事実は、否定できないのである。しかし人間の尊重を中心とする新教育は、この点につき無関心であったのであろうか。
 ある時私は、新しい教育がいかなる人間の社会を理想としているかを検討するため、小学校から高等学校までの社会科の教科書を通覧したことがあった。そのとき驚いたことは、あまりにも明確な人間像や社会像が全面に押し出されていることであった。新教育は児童や生徒をつくりかえようとしていたのである。つくり変えるためには、新しい知識を教えるだけでなく、新しい考え方をさせ、それに従って行為し生活しうるようにさせねばならない。自由をモットーとするからと言って、放任したままでは、自由を身につけて行為できるところまでは行かないのである。そこには強力な指導がなされねばならない。
 さて、その指導を何と言おうと勝手である。が、教育の中心はこの人間の生き方の指導であろう。私はこれこそ道徳教育だと思う。とすれば、道徳教育は教育につきもの、教育そのものだと言ってもよい位で、道徳教育を否定することなど、およそ出来ない相談である。新教育もこの例外はでなく、中心に道徳教育がある。だだ内容と方法とが戦前と異なるだけで、前後は人間の尊重が中心となり、自発性を重んじながら指導する。近代社会の一員としてふさわしい、自ら正しく判断し正しく行為できる自律的な人間、つまり理性的な人間、これこそ新しい教育の望む人間の姿であろう。こうした人間が指導されれば、前述のような悪評が起るはずがない。
 このように考えてきた時に、自由を教えて放任せず、自由を正しく身につけさせる、つまり理性をもって正しく判断し正しく行為しうる人間を養成しなければと考え、また高等学校時代はこうした教育をするのに適した時代でもあることを思い合わせ、それにふさわしい教材がないかと考えた時に、思い当たったのが、「アポロギア」と「クリトン」であった。そして同僚先生の諒解もえて、まず「クリトン」を取り上げてみたのである。

2、教材としての価値

 次に「クリトン」 が教材としていかなる価値を持つかを考えてみよう。先ず内容の点から。
 第一にあげなければならないのは、理性を基本とするということである。
 近代民主主義がいかなる人間を考えているかは、人によって多少の差はあるかもしれないが、要するに人間は本来自由平等であって、自ら正しく判断し正しく行為できる自律的な人間であること、そうしたことのできる根底には理性がある。つまり人間とは理性人のことであろう。
 この理性を持つ人間、自律できる人間も、資本主義社会においては、その自律性を奪われていると言うこともできようが、だからと言って自律的な人間を目標として教育しないわけには行かない。もしほんとうに社会の構造が自律性をさまたげているのであるなら、それを改めるべきであっても、自律性、いいかえれば自由を放棄してもよいというわけにいかないのである。
 この自律性の基本をなす理性が、「クリトン」においては正しく考える場合最も重要なものとして取り上げられている。この点二千年以上も前の著書でありながら、現代における価値を失っていない。
 第二に、理性を基本として考えながら、個人的な誤りに陥ることを避けるため、他人との対話が尊重されていることである。
 理性といっても現実の人間の理性は、他の能力と未分化に結合していて、正しく普遍妥当なものを求めうるとは限らない。しかし人間が普遍妥当なものを求めることができ、しかも誤りにも陥るとすれば、誤りを少なくするためには、一つには自己吟味がなされると共に、他方他人の考えるところを通して吟味がなされる必要があろう。理性が普遍妥当なものを求めうるものなら、他人と自分の考えは一致するはずであるから。
 ソクラテスは、「熟考の結果最善と思われる理性の原則以外には内心のどんな声にも従わないことにしている」(岩波文庫「ソクラテスの弁明」69頁。以下引用文は頁数のみを記す)
と言いながら、だからといって自分の考えに固執するわけではなく、他人を通しての吟味を怠らない。
  「一緒にそれを考えてみようではないか、善き友よ。それから僕の言うところにたいして何か反対説が立つなら、反対したまえ。(そしてそれが妥当なら)そうすれば僕は君に従おう」(75頁)
と言い、老友クリトンから「さあ次を話をしてくれたまえ」と言われた時に、ソクラテスは
  「では話を続けよう、いやむしろたずねよう」78頁
と、答えるように、対話通して真理が求められている。このソクラテスの方法が弟子プラトンに受け継がれて、その著書は唯一の例外をのぞき、対話を持って書き進められ、結論が導き出される。つまり「対話篇」と言われる所以である。

 第三に、理性により求められ吟味された結論に従っての積極的な実践である。
 この点については「アポロギア」に、格調高く随所にふれられているのであるが、「クリトン」においては全篇がとりもなおさず、ソクラテスの実践を示すものとも言える。つまり脱獄のすすめを押しのけて、正しい理性の結論を忠実に実践し、その結果は当然死につながることを知りながら恐れない。そのソクラテスの生き方は何人をも粛然たらしめるものがある。
 ソクラテスにとって、正しい知識は単なる知識に終わるのでなく、実践すべき原則であった。それゆえに狭き道であり、
  「この信念をいだく者又はいだくであろう者が、きわめて少数にすぎない」(77頁)
ことを、ソクラテス自身知っていたのである。
  「もしそんな行為は不正あるとわかれば、われわれは、ここにじっとしていれば、殺されるか又は他のうき目に遇わねばならないということは、不正を犯すよりははるかにましなのだから、考慮しないことにしなければならない」(75頁)
と言い、一篇の終りにはソクラテスの言葉として次のようにしるされている。
  「クリトン、じゃあよろしい。では僕達は僕のいったように行動しよう。神はそちらに導いて下さるのだから」(88頁)

 第四に、国家秩序の尊重という点である。
 アテナイは民主主義の国であった。しかし、その民主主義は衆愚政治に堕し、自由の名において国家秩序はふみにじられていた。ソクラテスの言葉をもってすれば、アテナイは「今や没落に瀕していた」のである。(79頁)かかる時法を破り、それを弁護することは容易である。即ち
  「国家こそ不正を行い、正当な判決を下さなかったのだ」(79頁)
と。
 現代の日本がどうであるか、それは知らない。また、個人の自由と国家権力との関係や限界についても、いろいろ議論のあるところであろうし、戦時中の国家統制を知らないわけではないが、世界的に見て現代は国家の時代である。いまだ世界国家がのぞめないとすれば、われわれの運命は最も深く国家と関係をもっているので、国家秩序をみとめ、国家的統一を保っていく以外に道はないであろう。そしてその統一が最低限のものであり、その秩序が正しい秩序でなければならないことはもちろんのこととして、しかし正しくないからと言って暴力的に破壊するのでは困る。その場合には、
  「これを説いて真の法の要求に関するその考えを改めさせること」(81頁)
が必要なのである。
 以上内容からみての価値について述べてきた。最後にソクラテスと民主主義について述べておきたいと思う。
 ソクラテスが訴えられた一つの原因は、民主主義を否定する考えを持っていたためだといわれる。たしかにソクラテスの考えの中には、それらしい箇所を見出すことができる。(たとえば66頁や70頁より74頁にかけての議論を参照されたい) それがプラトンの哲人支配論に発展するもんだと考えることもできようが、ソクラテスは「無知の知」を主張するように、固定した知識を持っていたのではない。ただ現実のアテナイの堕落を見て、ポリスの市民としてまずいかにあるべきかを考えたときに、一人々々の市民が正しく理性に従って行うことが必要だと悟り、その上にのみ民主主義の社会が成立することを考えて、一人対一人の説得をはじめ、それで一生を終わったと考えるべきではなかろうか。
 次に内容以外の点で一言。
 教材として教壇から考えるとなると、内容が冗漫でなく簡潔であることが望ましい。その点「クリトン」は申し分ない。全篇十七節、一節は文庫本で一頁から二頁位。内容も節毎に大体まとまっている。時間も一節一時間として十五時間位で十分である。
 さらに、教材が容易に安く手に入らねば困るが、この点でも申し分ない。岩波文庫には久保勉先生訳のものが「アポロギア」と共に収録されて四十円。角川文庫には山本光雄先生訳のものが収められ四十円である。
 福翁自伝を読ませることもよいと思う。それを考えてみたのであるが、家庭で各自読ませるならいざ知らず、教材として使用するには困難であろう。 

3、クリトンの内容

 紀元前三九九年の晩春「ソクラテスは青年を腐敗せしめ、かつ国家の信ずる神々を信ぜずして他の新しき神霊を信ずる」(26頁)という理由で訴えられ裁判にかけられた。裁判の結果は、彼の予期したように死刑であった。
 アテナイにおいては、死刑の執行は判決の翌日に行われるのが習慣であったが、たまたま裁判が行われた前日、デロス島のアポロンの神に供物を献ずるアテナイの聖船が、出帆のせまった合図に祝の桂冠をもって飾られた。この船が帰って来るまでは、不浄の故をもって死刑の執行は許されなかったので、ソクラテスは三十日ばかり余命を保つことができた。
 しかるに、いよいよこの船が今日中にも帰って来るだろうとの情報を手に入れたクリトン……同じ町に生まれ七十年の永きにわたって親交を結んで来た彼は、脱獄するなら今晩以外にはないと、その説得に朝早くから獄舎を訪れる。
 そこからこの対話篇ははじまっている。
 クリトンはいろいろの理由をあげて脱獄をすすめる。「君が脱獄してくれないと、二度と見出すことのできない親友を失ってします」と言い、「多くの人達からは、金を使う気さえあれば友人を救い出せたのにと言って、友人たちが非難されるだろう」と言い、「ソクラテスよ、君が脱獄した場合友人たちにふりかかる不幸を心配しているかもしれないが、そんな必要はない」と言い、「脱獄して他国に行った場合、君を歓迎し保護してくれる人達が多勢いる。決して心配はない」とも言い、さらに脱獄しなかった場合「子供たちを孤児の境遇に陥れることになりはしないか、それが一生を徳にささげてきた人のすることであろうか」と非難するのである。「それに脱獄しないで死ぬ時は、敵の思うつぼに陥ることになるのではないか。」と、口を極めて説得する。
 これに対するソクラテスの言葉は次のようである。
  「親愛なるクリトンよ、君の熱心は大いに尊重に値する、ただそれがある程度正しい道にかなっているなら。だがもしそうでなかったら、それが大きければおおきい程、ますます堪え難くなる。だから僕達はそういう行動をすべきであるかないか、考えて見なければならない」(69頁)
と言って、考えの基礎に理性をおくこと、その上に幾つかの原則を導き出し、それらに照らして脱獄の正不正を判断し、正しければ脱獄しようし、正しくなければ一切の他の考慮を排しても脱獄はしないというのである。
 「クリトン」においては、四つの原則が対話を通して導き出され、再確認される。それは、
 1、多衆の意見はあまり気にせずに、専門家の、真理そのものの言うことを顧慮しなければならない。
 2、一番大切なのは、単に生きることではなく、よく生きることである。
 3、よく生きることと美しく生きることと正しく生きることは同じである。
 4、いかなる場合でも不正なことをしてはならない。
 この四原則に照らして脱獄することは正しいであろうか。ソクラテスは国家や国法を擬人化して、彼等が脱獄しようとするソクラテスのところにやって来て、語りかけたとして話を進める。
 国家や国法はいう
  「ソクラテスよ、お前がしようとしている行動によってわれわれ法律と国家組織の全体とを、お前の力の及ぶかぎり、破壊しようとしているのではないか。しかしわれわれはお前に多くの恩恵を与えこそすれ、何の禍害を与えたことがあろう。しかももしお前にわれわれが気に入らなければ、どこでも好きな外国に移住することを許しているのに、それもしないのは、われわれの命ずるところの一切を履行することを、行為によって約束したのではないか。」
と。国家や国法はさらに語を継いで
  「ソクラテスよ、お前の従うことを約束した国法を破って脱獄し他国に逃れた場合、どんなことが起ると思うのか。お前の友人や子供はもちろんお前自身についてもよいことは起こりはすまい。だから脱獄しないがよい。そして子供をも生命をもその他のものをも、正義以上に重んずることをするな。このまま世を去るなら、不正をしたものとしてではなく、不正をわれわれ国法からというよりは、人間から加えられたものとして、この世を去るのだから、クリトンに説得されぬようにして、むしろわれわれに従え」
 ソクラテスはこの言葉の正しさを認めて脱獄しないというのが、全篇のあらましである。

4、その効果

 最初の年は成功したように思う。
 私自身にとっても最初のことではあり、熱の入れようもその後とは違っていた。いろいろ参考書も読み研究もした。その上社会科に新風を吹きこまうと野心に燃えてもいた。
 その当時教えた生徒が昨春学校にやってきて、「今度先生になるが、”クリトン”を読んだ結果です」と語っていたとか。それを伝えて下さった同僚の先生は「先生冥加につきますね。うれしいでしょう」と言われた。その当時の生徒に会うときまって「クリトン」のことを持ち出す。そしていろいろの意味を含めて「まだやってますか」と言う。
 しかしその後は期待するような効果は上らないようだ。生徒の意見も賛否半ばすると言ったところ。その原因の一つは、毎年同じことを教えてマンネリズムに陥り、それが生徒に反映していることも見のがせない。それにつけても、考えさせられることは、いかによい教材でも教える者の態度いかんによって、効果が全然変って来るということである。
 とはいえ、効果がないわけではない。学校新聞で読書調査をしたときがあったが、感銘を受けた書物の中で二位を占めたのでもわかるし、読み終わった後で感想を書かせる年などもあるが、何かプラスになったという者が多いのである。卒業生や上級生で時々感謝の便りを寄せてくれる者もいる。
 「クリトン」そのものにも問題がないわけではない。内容そのものが現代を去ること遠く、その当時の社会関係や社会情勢を知ることができにくい点や、国家に対するソクラテスの考えが国家主義的であって、民主主義的でない点や、その他ソクラテスの宗教的な点などが生徒の理解をさまたげる。
 生徒の側にも問題がある。「クリトン」は一年で教えるのであるが、中学から来た早々では思想的な素養が全然と言ってよい程なく、それ程難しいとも思われないのに理解ができなかったり、そうかと思うと、奴隷制度を是認していたソクラテスなど、とるに足りないと、頭から否定する生徒がいたりする。同様に妻子を捨てた点や脱獄しないで死んだ点が、生徒のつまずきになる。生徒はソクラテスの考えの全体が理解できないのである。
 知識もまだ十分でなく、人生経験も少ない生徒たちに向かって、正しいソクラテスの理解を望むことは、無理というものであろう。しかし「クリトン」を読むことを契機として、正しく深く思索して、強く行為できるよう、将来に期待しつつ、本年もまた読ませようと思うのである。

(写真説明) 磐梯山(横向温泉より) 中村先生画(昭和44年6月)
磐梯山 中村先生画

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