2013.8  別 冊 城 北 会 誌


学生公論創刊号より


  新しい『城北会誌』(第61号)を会員の皆さまにお届けして、3カ月がたちました。もう十分にお読みいただけたかと思いますが、出来栄えはいかがだったでしょうか。
 この会誌の母校だよりの項の中に「第67回戸山祭点描」という記事があって、そこに、一つの教室を使った学生公論編集委員会の展示について、以下の様な記述があるのをお気づきでしょうか。  

「学生公論編集委員会の出展にちょっと異様な感じを受けた。展示の部屋は閑散としているが来訪者数人が何か雑誌を熱心に読みふけっていた。静寂でおし ゃべりはまったくなし。その雑誌はなにかとそばに行くと学生公論のバックナ ンバーだった。
  机上に創刊号から最新号までのうち約30冊を並べ、是非ゆっくり読んでいっ てくださいというのである。椅子まで多数置いてあり来訪者歓迎の最高の接待 であった。(中略)学生公論編集委員会がこのような展示をして生徒だけでな く、父母、先生、卒業生に読んでもらって生徒会の積み重ねられた伝統・歴史に触れてもらおうと企画したことは斬新ですばらしいものと思った。」

 学生公論創刊号表紙
創刊号表紙
 そこで別冊城北会誌は、今回、この学生公論創刊号にどんなことが書かれているか、ごく一部ですが、紹介しようと思います。
 学生公論創刊号は、城北会誌創刊に先立つ6年半前の昭和26(1951)年11月30日に発行されています。全64ページの薄いものですが、力作が並んでいます。奥書によれば、編集は「編集委員会 保坂直志」、発行は「都立戸山高等学校 生徒会」となっています。
 表紙や目次カットを書いた渡邊恂三君(昭27)はのち画家になりました。
 学生公論はこのあと第2号が昭和28年2月、第3号は29年2月、第4号は31年3月に発行され、以後毎年3月に発行されて、現在、第61号に至っています。


 ではまず「巻頭言」から紹介いたします。

巻 頭 言

 高校の目的は真理と正義とをのぞむ人間の育成を期するとともに、普遍的にして、しかも個性ゆたかな文化の創造を目指すことにある。学生はかかる目的のために、学習し、習得した知識と教養をもって、社会の大多数の利益と幸福の為に貢献することを使命とする。
 われらはかかる理想のもとに、自治活動を積極的に展開して、われらの協同生活上の諸問題を解決し、校内の秩序を保つと共に、社会人としての知識と批判力をたかめ、以て名実ともに恥なき学園を築き上げたいと思う。
 われらは生徒会の権限を守り、之に対する外部圧迫とはあくまでたたかい如何なる専横と盲従とをも排除すると共に、放縦と軽挙とを慎んで戸山高生総意の上に立つわが生徒会を民主的に運営し、全力をあげてこの理想と目的を達成することを誓う。
                                      (生徒会々則前文より)
 
 巻頭言は、なんと、生徒会会則の前文でした。そして、この前文はその後まったく手が加えられず、今も、現役の戸山生がもっている生徒手帳に掲載されています。もっとも条文のほうは幾度も改正されましたが。
 なお、前文のある生徒会会則を持っている高校は、おそらく戸山高校くらいではないかと思います。
 つづいて、当時の校長(第9代)の平田巧先生の以下の様な“祝辞”が載っています。
 

創刊によせて

                                       学校長 平 田 巧

 “真理もとめていざや励まん”これこそ人間共通の理想であり、吾々が校歌の一節に入れて、高く標榜する理由でもある。
 ところがこの真理というのは、吾々の手のとどかぬところにあるものであろうか、自分は決してそうでないと思う。道徳にも政治にも、科学にも芸術にも、日常生活の中に個々の真理はたくさんあって、それを学んだり、知ったりしている。そして四六時中、吾々はその恩恵に浴したり、行動を律して文化的な生活をしたり、研究にもこれを利用したり或いは指導されたりしているのである。それで一日として、これらの真理から離れた生活をするということはできない。
 併しながら、今日吾々が真理と考えている事柄が、永遠に不変なものであろうか。これも必ずしもそうとは断言できない。このような点では数学や自然科学が探求している真理が最も不変なもののような気がするが、それでさえ太古から今日まで不変であったのではない。ガリレオの苦労もそこにありニュートンの力学さえも近似的に正しいのだということになってやはりくつがえされている。数学にもそのような例がある。平行線公理を自明の真理であると考えていたのは、相当に長い間であった。これが若い青年学徒によって別の公理で置きかえられた幾何学が作り上げられてしまったことは諸君もよく承知している通りである。この外にもこんな例がある、このように考えると、真理は普遍性をもち永遠に不変なもののような気がするが、必ずしもそうではない。真理も時によって捉えることが大切なことになる。
 諸君は現在も亦将来も真理を追求しようとし、それによって人類の福祉を増進し、世界の平和に貢献しようと考えていると思うし、そのような人物がたくさん出ることを期待している。現在諸君は将来にそなえて広い高い土台を築くべき時代である。そして大きい人格として理想の実現に一生をささげるべきで、本誌が諸君のこのような努力の一面を表すものになることを念願してやまない。
 ここで、この創刊号のメインの作品である「衆愚」と題する評論を読んでいただくわけですが、その前に創刊号の目次をご覧いただき、編集後記を読んでいただきたいと思います。学生公論創刊の意図や意気込みが、よく伝わってくると思うからです。

創刊号目次

編 集 後 記

  一応綜合誌としての形は整ったものの、しかし大部固いものができてしまったようです。編集子が丸い眼を三角にしてやったからというわけでもないでしょうが、少しでも読みやすくしようとして苦心しました。
 他校の友人から聞いたのですが、そこで雑誌を出したところ、大部削除の箇所として×印がつけられたそうです。現在こんな話は私達は「云いたいことが、云えなくなってしまった」と戦前又戦時中の頃と同様の不安を感じています。しかし私達の学校では一部の原稿をのぞいてはそんな不愉快な×印をつけずに発行できることは全く先生方の深い御理解のお蔭であると編集者一同感謝いたしております。
 云いたいことも云えなくなってしまい、その結果起こった前大戦の悲劇、ある者は反抗して捕らえられ、ある者は麻痺された感覚で讃美しました。あの後悔は二度とくり返したくないものです。
 裸の王様に向って最も率直な批判を与えたのは道ばたの小さな子供でした。私達は学生です。束縛を持たない耳、眼かくしのない眼をもっています。私達の物事に対する率直な真剣な態度が私達を正しく進ませてくれるのです。
 では、最後に実際の発行に関して種々とお骨折り下さった廣瀬先生に深くお礼を申し上げます。
                                   生徒会雑誌編集委員会
 それでは、メインの作品をお読み下さい。当時の一高校生の思索のあとをたどり、昭和26年という時代の空気を感じとっていただければ幸いです。

衆 愚

                                          酒 井 忠 昭

 現代は、商業の世界に於てばかりでなく、観念の世界に於ても、本当の見切売を行っている。最後には、もう商品に値をつけるものが居なくなりはしないかと疑われる程の捨て値で何でも手に入れることが出来る。(ヨハンネス)

 歴史書を読んでもはっきりした史観を執えることの出来ない私も、ギリシアの昔の衆愚という言葉ならいくらか知っているし、またそれがどの様に密やかな形で人々の裡にやって来たかということも想像出来る様に思っている。というのは民主政治が衆愚政治になり、やがて崩潰せねばならなかったという事実を、今日のわれわれの環境にひっかけて、理解出来得る様に思うからで、そのことはこの文章の主題として断片的に述べられる。

 試みに先ず或日の新聞の三面をながめてみる。トップに大きなスペースを割いているのは元佐官級予備隊員補強の入校記事で、なにがし元陸軍少佐、中佐は次の様に談っている。
「六年間の実社会の生活を通じて痛感したことは職階や身分を越えて協力一致するという民主的な協同精神をもたねばならないということであった。」
「私たちは民主日本の”愛国者第一号”になるために入って来た。」
「国のため、世界のためになるようになりたいと思います。」
それに対し私の雑な神経は、六年間もかかって最も感じたことは、そんなことであったのか。協同精神をもってどうしようというのか。――民主日本とは、民主主義とはどういうものであるか元中佐殿は御存知なのか。愛国者とはお国のために命を捨てて治安を維持することなのか。今まで入隊した一兵卒になるべき予備隊員は、愛国者何号なのか。――戦争中、中学校の入学試験に必ずいわなければならなかった「はいお国のために。」という言葉に、「世界のため」が加わっては居るが、本質的にどれだけの反省があるだろうか。――などと数限りない疑問を排出し始め、止まる処を知らない。第二次大戦が終って先ず日本国民になげかけられた言葉は、国民が目覚めていなかったがゆえに軍閥は台頭し、軍閥によって戦いはおこされたというのであった。そしてその反省は、繰り返し繰り返し説かれる言葉の一つとなった。もうわれわれは騙されまい。目をあけていよう――
皆そのように決意した様に思われた。今日の新聞にもある。「一度苦杯をなめた国民は、追随主義、機会主義に対しては全体主義と同様敏感な不安を嗅ぎつける。」(投書欄)だがそれを嗅ぎつけるのは誰、現在嗅ぎつけていないのは誰であろうか。「新聞が健全である限り、日本の未来は大丈夫だ」(同上)、併し新聞が健全である限りという仮定は今日成立し得るであろうか。数限りない疑問。そして無批判であり、嗅ぎつけることもせず簡単に「信じ」てしまうわれわれへの危懼。
 君もそうであったごとく今もなお衆愚が大量生産されつつあるというのがこの文章の主眼である。そして如何様にということの説明に私は時代の影響と、直接的には六三制の教育を取り上げたいと思う。

 一口に新制高校生といっても、一期一期によりそれぞれ際立った環境の差違をもっている。つまり昨年の卒業生は、昭和19年に旧制中学に試験を受けて入学し、教練学徒動員を終戦まで一年半続け、22年に旧制高専の最後の試験を受けて落ち、新制高校の2年となり25年卒業。今年の卒業生は、都市だと小学校6年の初秋ごろから大部分集団疎開し、翌年無試験で旧制中学に入学し、教練武道を少し受けて終戦となり、23年の切り換えを経て26年卒業、現在高三の生徒は小学校5年から集団疎開に行って旧制中学に入ったのは終戦の翌年。高二、高一も共に集団疎開を経験しているが、新制中学、新制高校というコースを通って来ている。平穏な時代には想像もつかぬような環境の特殊さである。そこでこの中から現れた色々の現象を何らかの名の許に統合してしまうのは危険であるし亦愚でもある。今年卒業した生徒、及び現在高三の中の幾らかの生徒は確かにアプレゲールという分類に入るに違いない。しかしその様な或程度抽象的な分類でない限り規定することは出来ない。アプレゲールという名称と同じ様な意味で、その中に入れることの出来ない、つまりそれと背反する性質をもった型、現在の高二以下に現れているものを私は便宜上「六三型」といっている。その特性は所謂六三制教育によって培われたものでないにしても、大きな影響を受けて来た。培ったのは時代であり、本来六三制とは無関係な混乱した教育である。しかもその様に時代に依って誕生しつつある六三型人間像が、衆愚と無関係でないこと、そのことが重要なのである。

 アプレゲールと六三型という型とを対比してみる。アプレゲールとは、戦争中及び戦後の混乱期に青年期を持ったもので、今日では非常に悪意に使われている言葉であるが、長所と思われるものもある。その最も大きなものに積極性が、そして行動性と偶像破壊がある。アプレゲールは青年期にあるからその特性の中には、従来迄の心理学の尺度で割り切れるものも数多くあったろう。反抗期の変形としてのものも多くあったに違いない。しかしそれら割り切ってしまったあとに残ったものが即ちアプレゲールであった。ところが終戦以来幾年か経て、アプレゲールを計る尺度も完成してみるとそこにまた、アバンゲールの尺度でもアプレゲールの尺度でも計ることの出来ない、即ち割っても余りのある型、六三型が出現したのである。その特性を軽々しく断定は出来ないが、寧ろアバンゲールに近いもので、アプレゲールの積極性に対して消極性、行動性に対して非行動性、偶像破壊に対して唯唯諾諾性という背反性があることが認められる。現象だけでなくアプレゲールの根底にはアナキズム、ニヒリズムがあるが、六三型にはイデオロギーやイズムを受け入れる礎地の片影もなく、ただ無批判的であり、ただ無邪気である。羨ましい程無欲であり、あきれる程求める必要を知っていない。現在得なければ一生得ることの出来ないものを等閑にして「勉強」し「遊んで」いる。今は「勉強」をしてやがて高校、大学に入ったならば、そこで教養としての本を読み、教養としての思考もしようと引き延ばしているかの様に、恐ろしく淡泊である。アプレゲールは、アバンゲールの様な思考態度ではなかったにしろ思想と無関係に生きている者ではなく寧ろ体でもって思想を生かして居た。しかし六三型は思考というものとの間に絶縁体を作って「無関心」である。(しかも底に何かある無関心ではなく、絶対なる無関心である。)そして絶対とは即ち「求めない心」である。

 日本人全般の傾向――とかいうと独善的に響いてくるが――としてその潜在的な心の動きの中に、従、隷属的な要素があり、それが我々を本性的にオポチュニストたらしめているという事実がある。一般にそれは日本人が今だかって一度の“自由”をも体験したことがないという
ことによって説明されている。自己が現在ある状態になお自己を保存して置きたいという要求、ジイドにいわせれば「自己に似ようとする気持から一度発見した自分のままに人は何時迄も残る筈」ということは、案外我々に根強いものである。私は初めそれを「女性的要求」と名づけてもいいと思って居たが、少しく考えてみるとそれは何も「女」性的なものでなくとも「女」に結びつき、「女」によって代表されている我々の封建制の残滓であるということが判った。オポチュニティということは日和見と訳されているが、日和見ということはこの封建制から出発している。即ち日本におけるオポチュニティである。ところが私が今述べている六三型人間にオポチュニティが大きな陰影として現れているのはどうしたことであろうか。アプレゲールは一時このオポチュニティを斥けてしまった様にみえた。日本の積極性は晴々とした姿をみせるかの様であった。衆愚の付和雷同性がこの日和見に関係のあることは、今更述べるまでもなかろう。

 この夏休み、茅ヶ崎にいる叔母の処に行っているとき、この文章に関連して二つの小さな経験をした。第一は来年アチーブを受けるとかいう従弟の、社会科理科の教科書を積み上げてみて、余りにも大形な山を見て驚いたことである。「文化遺産」「宗教と芸術」「社会生活」といった様な小冊子、よく聞いてみると、新制中学では皆これと同じものと量を使っているというから、きっと高二の私のクラスメート達も用いて来たのだろう。多いということは知らぬではなかったが、積み上げられてみて自らの認識不足を今更乍ら知ったわけだが、同時に一つの或る得心をした。(その得心とは)私の入っている宗教班などで、班外の生徒に活動する場合に、或種の偏見、抵抗のあるのは当然の話だが、行う前には予想もしなかった一つの空気、「ああキリスト教か、あれなら知っている。」といった様な顔の竝びが感じられることで、その原因の大部分(と思われるもの)が、この一寸一二分ぱらぱらとめくれば内容がわかってしまう「宗教と芸術」とかいうダイジェストにあることを、そのとき得心したのである。この様な空気は、私が他に入っているクラブや委員会活動などでも感じられることだが、あれこれ綜合して考えてみると、共種の教科書の教育を受けて来た人たちの一部には、明らかに「ダイジェスト的傲慢」とでもいうべきものがあることがわかり、何も知らないものが、或全く手にとどきそうもない高いものを見上げて、少しでも理解しようと必死に取り組むといった姿が、見られないのを淋しく思った。そしてそのすべてが困難である様な世界を知らないならば、情熱とは何であるかがわかりようがないと一人で言ってもみるのだった。知識は安易に求められるべきではないといったら、何か非合理的な言の様だが、無駄な努力を続けて来た人間には、廻り道をして得た知識は、例えそれがそのために歪んでいたとしても、本質的に高い価値があることがわかっているというのは、知識は、受け取る者によって真の知識となるからで、「馬の耳に念仏」という諺もある位。さて経験の第二番目は、やはりその従弟の中高等部のPTAに出席したときのことである。多数の父兄が集って、やれ学校の教育方針だの、家庭に於ける教育だの、生徒の動向だの、大学入試だのといういろいろなことを話し合って居たが、その内に一貫して感じられることは、父兄が生徒に要求しているものは大したものではない。目にみえる行儀だとか上位の成績だとか大学合格だとかであり、大学卒業或は高校卒業後には、そういう模範的な子供、模範的な臣民になってくれればといった要求しか持っていないということであった。それをもって世間の要求などというのは短見であろうが、兎も角その一縮図であるとして私は父兄席の片隅から、成程成程と得心してきいて居たのである。

 半年程前のこと、貞明皇太后の御葬儀の行列が、本校の前をも通ることになった。生徒は校門付近に竝んでお見送りすることになったが生徒委員会は、「行く行かないかは生徒の自由」にしてほしいと決議して学校に了解を得たが、HRTを通して伝達されたことは大体に於て「行かないのは生徒の自由」ということであったらしい。つまり主義主張や身体的理由によって行かないのは自由だが、全校生徒の参加を前提とするという建前は変らなかった様だ。しかしそれは兎も角として、それに依ってどれだけの人間が参加するかということ、天皇に対する感情が如何なるものであるかについて実際的に知ることは私にとって興味があったので、行った生徒、残った生徒について出来得る限り観察すると次の様に考えてもよい様に思われた。残った生徒は50人にも満たぬ人数であり、主義によって行かなかった者はその中の30%位、身体的理由は10%位で、あとの60%は自己の特異性を主張するもの、単なる反抗、単なる感情或はなまけたものであった。参加した生徒は千人から千百人であるが、その中ではっきりした自覚、基礎的な自覚はなくとも一応考えて出たものは僅少数であって、あとの、つまり千人もの人間は単純に「当然」と考えたり、好奇心や付和雷同や惰性や別に不参加する理由もないというところから参加したものであった。私は大まか乍らその様な数字を頭の中に組立ててみて一つの危懼、このまま大学に入学し、大学で教わることは違っても人間の批判力形成には何の示唆をも与えない大同小異の教育を受けて卒業し、日本の中堅層を作ってゆく大勢をみて、顔をこわばらす様な疑懼を覚え始めた。よくいわれることであるが今日の不幸が、一人々々の人間が自分の問題を問題として自分で取り上げ自分で解決しようとする意志の欠除から生まれたものであり、又これから将来起らむとしている不幸にもその意志の欠除が大きな地歩を占めるだろうと私には思えてならないからである。今日の世論がジャーナリズムのかもし出す雰囲気に依って作られてゆく世論であるということは、その様なジャーナリズムに依ってしかものを考えられない人間が多ければ多いほど正にとんでもない危険をかもし出すということと直結されて、私の雑な神経をもふるわせる。そして当為の自覚を持たない衆愚は、作り得る世論を作る者としての役割を無邪気にそして平気で果し、しかもその結果、不幸であろうともその結果を黙って受けなければならないのである。しかも重要なことはその様になった責任はその大勢の一人々々にあるということ、そしてそれを防ぐ道は目覚めているより他はないということである。そして姑息的な雰囲気主義に反抗するということである。

 なになにせねばならないという言葉は、余りにも強く独善的に響きすぎる所為かこの頃の論文などではよく「なになにせねばならないのではなかろうか」といった表現が使われている。この「ならない」という言葉は「べき」などと同じく当然を表し義務を要求する。人が行動するのはこの義務観念に従わねばならないというのが、当為を意識している世界観をもった人の主張である。けれどもその様な背景を持った言葉も使い方によって問題がぼかされ確信性がゆらいでしまう。公式的に言えば、行動の本質は意志であり、人は総ての行動を意識的に、正確には当為に従ってなすべき義務を有して居る。少々ややっこしくいえば当為とは、現に斯くあることと当に斯くあるべきこととの間の緊張であり、その当為を知ることが意識と呼ばれ、そう意識することが又当為として意識されねばならないのである。人が最も強く行動出来るのはこの当為を知ったときであり、その人は総ての人が自らの当為を自覚することを要求して止まない。而もそのことは叡智としての理性の積極性を要求しているのである。懐疑ということが一つのイズムとなったとき、その言葉は所謂「懐疑」ではなくなり、所謂懐疑癖の人の側のものではなくなった。そして懐疑癖は自らの単なる気分のほかより処を失い、今迄懐疑という言葉のあった処には、当為という言葉が置き換えられたのである。一つの世界観を持つということは、実際には自らの希望的観測を排し合理的に進んでゆくということに外ならない。当為は大きな確信性を生むけれど、この確信性は普通「信念」などという言葉が有して居る意味を含まない。つまり「信念」は別に根拠を規定しているものではなく、何の上に立っているかわからなくてもよい確信性だからである。

 大戦後日本は米国から戦争放棄の憲法をもらった。その当時は現在の様に殊更に戦争はいやだ軍備は反対だと口に出していう必要はなく、むしろ軍備をしなくてはなどといったら三二五号違反で捕ったかも知れぬ有様であった。またそれから幾年かたったとき芦田均が再軍備論をとなえ出した時分ですら世人は白眼視したものだった。しかし今日はどうであろうか。一つの偶話をお伝えしよう。ある都立の高校では雑誌「世界」を持っていると、先生にいいつけられ、呼びつけられるという話、「世界」とは多分あの講和特集号のことであろうが、何とか言葉が出てくる前に憤りがこみあげてくる様な話である。その「世界」について「あれは東大仏文学のかもし出すヒステリーである。」という聖人ぶった言葉や、二三の批評など読んだが、幾十人かの主張者の根本に流れている根強い戦争呪詛に謙虚に耳をかたむけることをおこたり重箱の隅をつつき出しているに過ぎないものであった。現在大戦後つい最近までは軍とも戦ともいわなかった人間がとなえる再軍備論の根拠は、世界状勢による日本国防衛のためである。しかしその様な人々は戦後平和国家などと口まねをしていた時分に今日の如き「世界状勢」を予知し得なかったであろうか。当時からみても、今日の斯くあるは必然で、そうなれば日本がどの様な地位に置かれるか位を感知し得なかったであろうか。そして戦争をしないということはその様な将来に対する言葉ではなかったろうか。戦争の準備には国民の感情の中に不安と反感をたたき込む必要があり、どうしても……という意見にまでもってゆくことが必要である。そして今日の世論はその様な宣伝にたえうる程強靱ではない。そこに大きな危険があるので、当初予知し得なかった様な特殊な事態が起ったのであったかどうか、言葉がどこかですり換えられては居まいかという様なことを我々は疑ってみる必要がある。今日再軍備賛成の声は反対者に、今更俺達が反対しても……と思わせる程な数になりつつある。それが作られた世論、自律などとは程遠い大勢の世論なのである。今日戦争反対を表明すれば「赤だ!」「三二五号だ!」ということになってしまうがそれもきっと日本人のオポチュニティに訴えて、仕方がないといわせる一因をなすことだろう。私は戦争放棄の憲法を楯にとって反対しようとは思わない。しかしあの寧ろ寝耳に水の憲法が与えられた後の騒ぎ、平和々々というお祭りの最中に、口まねの戦争放棄という言葉が一人々々の裡に、少しの自覚でも残していてくれたならばと口惜い感じがするものである。戦争の反省と嫌悪と、一般的な戦争の本質に関する考察とそして出来得れば否定と、そういうものが足りなかったがために再び同じ苦しみを嘗めねばならないかも知れない、それほど日本人は苦しみ足りなかったのであろうかという疑問を抑えることが出来ない。だが併し私の“無自覚への懼れ”は今日に於て寧ろ強い。つまり今日の戦争反対者の相当の割合を占める思潮が「私は戦争がいやだ。」という言葉で表される厭戦論であり、非戦論者はこの厭戦論をもともすると同じ範疇に入れて考えようとしている。しかしこれも亦危険なことの様に思われる。即ち「いやだ」というのはいくらそれが根強くとも一つの希求であり気分であり、もしいやでない様な状態、例えば軍需工場に高給で迎えられたり、兵隊にとられる心配が全くなくなった場合が来たときには「いやでない……賛成だ。」ということになってしまわないとは誰も断言出来ないからである。そしてそれは単なる取越し苦労ではなくて、私が今迄述べて来たことのどれからも導き出し得る推察である様に思われてならない。だがしかし戦争――人を殺すこと――というものはその様な安易な決意によって為されてよいものだろうか。戦争賛成者、反対者のどれだけがその自らの決意のためにねむられない夜を過したことだろうか。そこに厭戦という感情が、非戦という心情にまで高められねばならない理由があるので、非戦即ち好戦論となる可能性を自己の裸から追放して「戦争はいけない。」という意志に依拠が置かれねばならないとする所以がある。即ち戦争反対とは一つの風潮ではなく、ましてや政治ではなく、イズムでなければならないからである。

 少々脇道に逸れるが、一つ述べて置かねばならないことがある。それはこの「なければならない」という言葉をめぐってであるが、我々が「嫌だ」ということは、それが一つの単純な心情の上にのった気分である場合には、持続を保証出来るものではなく、それが最も普遍的な性格を持ち得るためには「人を殺してはならない」という当為が措定されねばならなく、そのためには世界観があらねばならない。しかし乍ら他方、その様に世界観を奉ずることの可能な人間は結構かも知れないが「ねばならない」ということの非人間性、欺瞞性を知ってしまった人間は……という疑問も当然起ってくる。ルネッサンスに於て殊更に発見された人間性、人間はその様なイズムによって動き得るものではないとする見方、リアルな凝視により人間であってそれ以外ではあり得ない人間という主張、異質的なるものを、概念的公式的にイズムによって統一せんとすることへの反対など、そういうものは、根本はイズムであってはならないと行動の規範を説明するだろう。そしてその後者を近代的な考え方というらしいが、その様な意見は前者を否定し得るであろうか。その二つの論議について私は私なりに解決し、前者の立場を取って居り亦最近も他に書いても居るので(「表象」五号「試論有島武郎」「読書研究」三号「常識としての読書とその限界」)今更ふれるのをさけるが、私の当為を覚える世界観は基督教的世界観であり、先刻の如き戦争については、ききかじりのバルトの論議をも加味して絶対非戦平和主義(基督教平和運動の二つの流れの一つ)が規範であるということは一応弁明としてつけ加えて置く。だがもう一言ことわって置くことがある。それは、平和擁護とか、再軍備、安保、平和条約反対とかを表明しても、私は寧ろ、「保守反動」であるかも知れない、それ以外のものではあり得ないかも知れないということである。そしてしかもその「保守反動」ですらも、つらいかも知れないが平和は守らねばならないということを知っているということである。――私は身分不相応な言は弄したくない。そして私の偉敬するものへの劣等感は大切に保持しておきたい、距は越えたくない、と思っている。さて私の無自覚であってはならないという話は以上の様な基盤をもっているのだが、それは我々にどの様に関係してくるだろうか。結論をいってしまえば、無自覚な賛成、反対者は間違って居り、同時に自らが危険である。無自覚者、即ち衆愚にならないためには目を覚していなければならない、真意での積極性、進取性を持たねばならぬ。しかしこうだというには根拠が必要なのだが、その根拠なしに大声で叫んでいる人がいる。そして衆愚は案外その様な人の意見に共鳴してしまいやすい。そして幾度もいうように残念なことには六三型人間には衆愚への可能性が多くみえるということである。現在の様な時代を見、時代を形成する大勢を見、そして六三型人間に目を転ずるとき、私の疑懼は最高頂に達する。つまり以上くどくどと述べたぼやきの如く、その二者の結合によって作られる新しい時代が、自らの裡に梁を認めざるを得ない私にも、全く抗し得ない力となって現れてくる様にみえるからである。

 私は、その様な六三型人間であることは罪悪であるとまで極言したいと思う。そしてもしそうであるなら我々に救いはあり得ないのかということを問題としたいと思う。最近私はその問題について、新制度を通って来た友達と話し合った。その友達は指摘された新型の盲点を認めるに吝かでなく、そのことに就いては中学時代から十分気づいては居たが、どうにもならなかったといった。そこで私は、それに気づいている君は最早その分類には入らない、盲点に気づいているということは、それをぬけ出ているということになるんですといった。まずいと気づいている人間は、ただ気づいているということだけで、気づかぬ人間とは全く異った部類に入るので、それは次の様に説明出来る。「自覚心」という言葉はききなれないかも知れないが、文字通り自覚する心である。自己の無用、余計、無価値而して間違いを知ること、それがここでの自覚心である。自らの無価値を知るということは価値を知るということと等号で結ばれるが、それと同じく六三制というより時代の風潮により漂白された我々が、現在の状態のまずさを意識するということは、本来如何にあるべきかについて自覚するきっかけになる。(劣等感というものはそういう型に働いて始めて我々を向上させるので、止って居るということは、如何なる場合にも無意味である。)

 もう少し具体的に我々の問題をいえば、現在の我々は余りにも「遊ぶ」余裕をもっていないということである。いつか朝礼で校長先生も指摘された様に、旧制の高校に於ては帝大に入れないのが不思議であったのに、新制では入れるのが不思議なのである。それゆえ高校一年生は入って来た当初から大学入試を考え、「遊ぶ」ことをさけ、交友の機会をちじめ、だんだん鋳型にはまった人間にならざるを得なくなる。六三制のことをよくこま切れ的教育というが、これにより意欲をかいた人間が形成され、しかも将来に於てこの欠陥をつぐなうことの出来ないということ、そこに於て我々が知らねばならないことは、その様な制度にあっても、自己形成上及び社会上の責任はすべて我々個々人にあるということである。そしてその様な認識を為すことに依ってのみ、何らかの打開策が与えられるのではないかと思う。私の敬愛する一人の友達に「二三流」どこの私立高校から唯一人東大に入ったのが居る。学校では全く受験用の教育をしてくれなかったので彼はそれこそ血を吐く様な勉強をしたらしい。三年の秋には胸をやられて事実血などを出していた。見兼ねて幾度も私は止めろと強硬に持ち出したが彼は遂に受入れず押し通してしまった。その身体の一事には今だに私は感心しないのだが、その他の彼の受験勉強には私は尊敬の念をすら抱いている。或意味に於て、受験勉強は二つの結果を我々に齎らすと思う。第一はそれをすることに依って人間的に萎縮してしまうこと、近視眼的ないやな人間になってしまうことである。私はこの様な型を実に多く見知っている。(つまり本校にも多いのである。)受験に押し潰され、入るまでと思ったものを生涯身に纏わせてゆく、受験がマイナスになる型である。第二はその友の如きが好い例なのだが、同じ受験勉強を、意識的或いは無意識的に人間成長の好機、つまり苦労をすることに於て?え、入らねばならないという目的に向って、意志的、積極的に進むということである。そこに於て受験勉強はその人間にとって全くのプラスとなってくる。それゆえ私がいいたいのは、がっつくなということではなく、がっつくことに依って総ての精力を浪費してしまうなということで、がっつくことに依って骨抜きになってしまう位なら寧ろがっつくなということである。即ち其處に於て「遊ぶ」ということは、動的な勉強をすることに外ならなくなる。――そして以上の様な総ての意味で、あなたは間違っている、あなたの生活を大本から変えねばならないと叫ぶ声を我々は必要としてくるのである。
                                                <了>

   掲載者:林 善紀(昭34)

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