2014.7  別 冊 城 北 会 誌


最近の戸山高校新聞と四高時鐘創刊号


 別冊城北会誌では、いままで城北会誌の創刊号や、学生公論の創刊号を紹介してきました。そこで今回は、最近の母校の学校新聞と、その創刊号を紹介したいと思います。
 なお、四高時鐘から戸山高校新聞に名称変更された時の第1号(通算第6号)も追加紹介いたします。

戸山高校新聞第333号より

 2014年6月3日、『戸山高校新聞』第333号が、また、その6日後には『新宿戦速報』という号外(見出しは「接戦の末の惜敗」です)が発行されました。パソコンで編集された最新号です。第333号はA3判で1面のみですが、内容は決して薄っぺらではありません。そのトップ記事を紹介しましょう。

 5月9日に運動会が行われた。青空の下、開会式が行われ、順調に進むかと思われた。
 午前の競技は時間が押していたものの、予定通りに行われた。しかし、午後からは一転、天候が危ぶまれ、学年競技を優先させるために100メートル走決勝を後回しにするという決断が下された。3年全員リレーの途中で雨が降り出し、競技が終わったところで運動会が一時中断。雨が止んだところで再開したが、男子騎馬戦の入場が完了したところで再び天候が悪化し、運動会は中止された。
 100メートル走決勝、男子騎馬戦、級団対抗リレーは実施されず、閉会式は体育館で行われた。
 今回の運動会を振り返ってみて、天候の急転による運動会の中止という結果に生徒たちが口々に悔しさを滲ませている場面が多く見られた。さらに新クラスの追加によるルール変更などに対する生徒からの意見としては、各競技の得点を開示して欲しいという意見がでた。運動会実行委員長の富山尚恵さんは「最後の2種目が出来ず悔しいですが、沢山の人に支えられ成功させることができて良かったです」と語った。また、優勝した緑級団長の前勇大君は「正直、3年生はあまり点数をとれなかったのに1,2年生のお陰で勝つことができました。1,2年生ありがとう」と語った。
 天候に振り回された今年の運動会。来年は天候に恵まれることを祈る。

 もう一つ、記事を紹介します。それは再下段にある「スペクトル」で、朝日新聞の「天声人語」に当たるものですが、創刊号から連綿としてつづいている欄なのです。

別冊城北会誌 戸山高校新聞 スペクトル 2014年6月12日、皆さんはこの日付に心当たりがあるだろか?某ハンバーガー店の特別メニューで気づいた方も多いかもしれない。そうFIFAワールドカップである。▼1930年、ウルグアイでの第1回大会から数えて、今回で節目となる20回目である。開催国は64年ぶりとなるブラジルだ。本大会の開催に当たっては、既に12会場の新設が決まっている。▼しかし、それらの新会場建設の裏では、悲劇もまた起こっている。新しいスタジアムの建設には膨大な土地が必要だ。しかも世界中から来る観客を支えられるぐらいにインフラストラクチャーの整った土地が。▼だが、そんな公有地がそんなにあるわけがない。ならばどうなるか。結果は、大量のホームレスの誕生であった。2008年には、FIFA開催賛成派は79パーセントだったが、今年の4月には48パーセントに落ち込んでおり、政権の支持率低下や略奪、反対デモも発生しているそうだ。▼スポーツの祭典、高らかにうたわれるそれが、こうした悲劇ももたらしていることを忘れてはならない。    (ツナ)

戸山高校新聞第332号と331号より

  最新号の1カ月余り前の4月30日にA3判2面の第332号が発行されています。
 トップ記事が「クラブ加入率、今年も100%超」という見出しで、「4月18日に、平成26年度前期クラブ登録が行われ、延合計で1147人分のクラブ登録が完了した。今年のクラブ加入率は、1年生167パーセント、2年生126パーセント、3年生99パーセント。全体では114パーセントで、今年も100パーセントを上回る結果になった」とあります。1年生のかなりの生徒が複数のクラブに参加したわけで、相変わらずクラブ活動が盛んなことがわかります。

 この2カ月ちょっと前の2月21日には、第331号が発行されました。A3判1面だけですが、興味深い内容の記事がありますので紹介します。トップ記事の見出しは「26年度1年生 I組が加わる/〜クラスが増えるまで〜」となっていて、今年度の1年生が9クラスになることが報じられています。記事の後半は以下の通りです。
   「(都教委は)平成7年に、都立高校の生徒数が減少していく見込みであるとし、それ に基づいて高校の規模、配置の適正化をしてきた。しかし今年度、都立高校の不合格者 数は大幅に増加してしまった。高校進学率は昭和23年の新教育制度発足以来伸び続けて おり、さらに東京都の人口も、日本の人口減少に反比例して増加している。それに加え て、景気の低迷、授業料無償化による都立志向の高まりがあると、都教委は見ている。  今後、平成28年からは減少傾向になり、さらに平成33年から再び増加するとも見ている。
  よって、戸山高校を含む27校で1学級の増加、学校施設の状況から、9校で1学級の 減少が行われる。」

 なお、母校が9学級あるいは10学級だったのは1964年から93年の間ですから、9学級になるのは、9年ぶりということになります。
 また、東京都知事選模擬投票の結果が載っています。2月9日に行われた都知事選に先立つ4日と5日に戸山で模擬選挙があり、1年生93.1%、2年生23.7%が投票に参加したのですが、その上位5人の得票率を報じていて、それは以下の通りです(カッコ内は実際の選挙の得票率)。
   舛添要一  30.32% (43.40%)
   宇都宮健児 19.68% (20.16%)
   細川護煕  14.10% (19.64%)
   田母神俊雄 13.03% (12.55%)
   家入一真   4.52% ( 1.83%)
 なお、模擬投票は前回、2012年12月の都知事と衆議院総選挙の同時選挙の時も行われています(第326号にその記事が載っています)ので、今回は2回目になります。

四高時鐘創刊号より

別冊城北会誌 四高時鍾創刊号 この333号を数える戸山高校新聞の創刊号は、何時発行され、どんな内容をもったものだったのでしょうか。
 その発行日は昭和24年(1949)5月15日。学生公論創刊に先立つこと2年、城北会誌第1号の9年前です。当時は戸山高校ではなく、まだ都立第四高等学校でしたから、新聞の名称も『四高時鐘』でした。タブロイド版(A3判)4ページですが、活字印刷の堂々たるものです。その中からいくつかの記事を紹介いたします。
 まず1面トップは新聞部が依頼して、羽仁五郎氏(1901−83、大正7年卒)に書いていただいています。羽仁氏は一貫して日本軍国主義に抵抗し、1945年に北京で逮捕され、敗戦を獄中で迎えました。1949年当時は参議院議員、1946年に岩波新書の一冊として刊行された『明治維新−現代日本の起源−』が評判になっていました。
 また、当時校長の平田巧先生が一文を寄せられています。

新聞の創刊を祝い/四高生諸君に望む

                                    参議院議員 羽仁 五郎

 東京都立第四高等学校の新聞創刊に対し、ぼくはよろこびにたえない。
 学生というものはたのもしいものだ。こういう感じをあたえてくれた現在の四高生諸君にぼくはふかく感謝する。というのは、ぼくは不幸にして母校に対し最善の思い出をもっていなかったので、卒業以来三十年間、一度もふたたびそこを訪れたこともなかったのだが、それが、最近、四高生諸君は美しい友情をもってぼくを招待され、また、いま諸君はこの新聞創刊といういさましい勇気をしめし、ぼくをして母校に対する感情を一変せしめ、最善の期待をもたしめるに至ったからである。自分の母校について最善の思い出をもつことができなかったことは、ぼくにとっても悲しいことであった。しかるに、最近、ぼくは現在の四高生諸君を知るにつれ、ぼくは母校を誇ることができるのではないかと感じ、よろこびにたえないのである。
 ぼくの母校に対する従来の感想については、ぼくは最近、実に卒業以来30年にしてはじめて学生諸君の愛情に動かされて、再び母校を訪れたとき、その一端をのべた。
 ぼくは1913年母校入学後まもなく母校に対するぼくの真実の感想をのべて、かえって悲しいおもいをした。その後30年、日本が犯罪的戦争にやぶれたのち、1946年、アメリカ教育使節団が日本の従来の教育を根本的に批判したとき、ぼくは30年以来のぼくの日本教育に対する批判をもっと徹底的に主張する勇気にかけていたことを、内心ふかく恥じざるをえなかった。
 かっての母校は、日本の代表的の存在であることを誇っていたが、それはまさに日本の過去の教育の根本的欠陥を代表していたのであった。
 他人をおしのけ、自分ばかりがえらいものになる。そのために学問をその道具にする。そういう教育に何の愛情があり、いかなる高い知性がありえたろうか。教育は、人の上に立って人を治める道を学ぶのではない。人の下に立って人に治められる道を学ぶのでもない、正に平等の人間として幸福の社会をつくる道を学ぶのだ、と言った福沢諭吉が、日本に、いな、東洋に、最初の学生の新聞をつくった。いま、諸君が新聞を創刊することの意義もここにある。最高の学問は、人民の幸福にある。学問を残酷の道具にするがごときは、治世をけがすものである。
 真理を書物のなかにのみ求むるなかれ。社会の幸福を求める愛情こそ、新しい真理の発見の力であり、そのためにのみ書物もやくに立つのである。机の前や、教室においてよりも、校庭における友情こそが、諸君の学問の進歩の力である。
 諸君の学生生活の真実の幸福をいのる。

学校新聞の発刊に際して

                                    校長  平 田  巧

 新聞は吾々の生活のなくてはならぬものの一つになっている。一日休刊の日があると何となく淋しく物足りなく感ずるのもそのためである。各新聞はそれぞれ社説又は論説という記事をかかげて、自分の社の主張や所見を明にして、読者を指導したり或は批判を求めたりする。その外政治経済文化等の記事から社会、運動娯楽或は世界の出来事等について、正確なニュースを提供することを使命としている。併しながらそれらの記事の取扱は、発行する社の考えが入ってくるので、そこに個性が生まれてくる。この個性に読者が結びつくのである。
 学校新聞は、この日刊新聞とは性質の異なったものであるが、やはり個性は出て来ると思うし、又でなければならぬ筈のものである。本校の新聞は個性豊かであって、且つ香り高い気品を備えたものに育て上げねばならぬ。その上も一つ重要な点は一党一派に偏したり、或は宣伝の機関になったり、利用されたりしてはならぬし、又極めて少数の者の娯楽の対象となったりしてはならぬことである。即ち公器の性質を失わぬ様にして、その背後にある学校と十分連絡して、編集する様にすることが大切である。
 扱う材料も一般の新聞とちがうと思うし、発行の回数は比較にならぬ程少ない。又学校のニュースも、一応皆知っていることであるかも知れない。併し例えば運動の記事の如き、多くは耳で受取るのであるが、これを掲示板で見ると違った趣があるし、さらに活字にして見ると又ちがった持味が出て来るものである。諸君の創作や研究の発表等も記事にして見るとノートに書いたものと余程変って来る。こんなところに学校新聞の使命がある。 編集にたずさわる諸君は、種々苦労もあろうし時間をさかれることもなかなか少くあるまい。無理をしないで、しかも健全な発達をする様努力して貰いたい。希望を述べてお祝の言葉とする。
 新聞部員の書いたものも読んでいただきたいと思います。1949年という時代を思い浮かべながら読んでください。

論 説

創 刊 に 際 し て


 プールサイドに咲き誇って殺風景な校庭に、春の香を漂わせていた桜花も散り果てて、六十有余年の伝統に輝く本校が、新制高等学校として再出発して以来、既に1年の歳月が流れた訳である。又教育予算の削減、大学法案等、未だ解決されぬ幾多の問題を残しているとは言え、新制大学の発足と共に、新学制は、形だけは一応完成した様に思われる。
 先にも述べたように、昨春新制高等学校が発足して以来、既に1年以上経過したのであるが、その意義及び目的が一般社会は勿論の事、吾々新制高校生にさえ、明確に理解されていない様に思われるのは真に残念な事である。新制高校の第一の目的は良き社会人としてのより高い一般的教養を修得するにあると言う。
 教養とはこれを一言にして言えば、知性を以って人間の個性を開発することである。完全な個性を獲得するために各自が自己の畑ー広大な社会の一角に於ける自己の畑ーを耕さねばならない。吾々にとって畑とは吾々の学校生活である。吾々は学校生活を耕す事によって、吾々の個性を創造して行くのである。満目?々たる荒野が掘り返され、邪魔な石は取り除けられ、肥料が施されてやがて慈愛の陽光によって、作物が豊かにみのる様に、吾々の現在の無味乾燥と認めざるを得ない学校生活に、うるおいを持たせ、向上させるためには、或は活発に意見を交換し、或は社会人としての先輩たる、教師或は先輩の御意見をうかがう事も必要であろう。滔々と流れる言論の世に在って、残念ながら本校には言論機関、及びそれに類似したものすら持ち合わせていなかった。今や新聞は社会の耳目となり、日常生活に必要缺くべからざるものの一つとなり、学校社会においても規模こそ異るとは言え、必要性においては変りはない。本四高時鐘は、これらの切実なる四高生の要望に応じて生れた。今後本紙は四高の生活を反映する曇りなき鏡ともなるであろう。そして、吾々はその上に映し出された、吾々の社会である四高生活の現実の姿を見つめようではないか。そこには、或る時は四高生のかくれた美点も見出されるであろうし、又反面、時としては、改むべき沢山の事柄がうつるかも知れない。しかし吾々は若者の純真さを以ってその欠点を認め、且つそれが改善に努めなければならない。吾々はあるがままを認識する事によって満足してはならぬ。それによって、あるべき道を開く事を忘れてはならない。この新聞が四高生のよき言論機関であると共に、更に吾々の生活に幾分なりともうるおいを与える事が出来れば幸いである。一人でも多く上級学校へ入ればよいという予備校的教授法に関聯した因襲的欠かん、即ち吾一人良かれといういやしむ可き根性は、この学制改革の新機軸にあたり、完全に追放し、正しい人間の大道を闊歩しようではないか。
 五月の訪れと共に新緑におおわれた山野は夏の訪れの近い事を告げている。或は文化活動に、或は熱砂渦巻くグランド上に、熱と意気によりうちたてられた我々のすばらしい成果、或は我々の真面目な心からの叫びは、次々とこの紙上を飾って行くであろう事を期待するものである。統合・男女共学・自治会より生徒会への転換・校地移転等々、今後吾々の周囲はめまぐるしく変わって行く事が予想されるが、しかし吾々はこの転換期の中に在って、自主性を失う事なく、種々の事象を常に正しく批判し、理解する事により、吾々自身の行動を決定して行こうではないか。
 この第1号に、早くも「先生列伝」が掲載されています。最初に登場したのは、もちろんブルこと 藤村久雄先生でした。これは城北会ホームページ(「復刻 先生列伝」)からアクセスして読むことができます。「先生列伝」は今も続いて掲載されています。そして、もちろん1面の最下段には、コラム「スペクトル」があり ます。
 また、3面には「憲法大会連勝ならず/だが充実した四高運動部/各班ともにAクラス」という見出しの記事があります。1年前の昭和23年から始まった憲法大会というスポーツ大会で、四高は1位 となり都知事杯を授与されたが、今年は連勝できなかった。しかし、各班ともに健闘したということ がわかります。すでにこのころからクラブ活動(運動班)は活発だったのです。
 もう一つ、記事を紹介します。戦争が終わって間もないころの苦労がしのばれます。

全校生七月中に移転可能か/新校舎の工事着々進む

 昭和20年3月10日に戦災で校舎を失って以来、不自由な同居生活を送って来た吾々にも、新校舎の工事進行と共に、漸く新校舎移転実現の希望が見えて来た様である。即ち、新宿区戸山町の女子学習院の隣に新築しつつある校舎は三期間に分けて完成のはこびとなる訳であるが、第一期工事の改造の分8室が5月中に完成し、更に7月中に新築2階建の方が竣工し、第一期18室をもって全工程の3分の1が出来る事になる。これによると5月末か6月早々にいずれかの学年が移転し、7月中に全校生徒の移転が可能となる訳であるが、この間約2ヶ月、生徒が2ヶ所に分れて授業する様になるので、教師の往復等が問題となり、どの学年が最初移るかは目下職員会議で研究中であるが、先の短い3年生になるべく長く使わせたいとの教師の親心から3年生が始め移転すると云う考えが強い様である。
 尚、第一期工事によって正規の18教室の外に若干の小部屋が出来るはずであるが、学友会の各班に使わせるには余りにも少く、第一期ではむずかしいが、第二期第三期と工事の進むに従って学友会諸班の部屋をもらう事も漸次可能になるとの事。

戸山高校新聞第6号より

 『四高時鐘』は昭和24年12月22日付の第5号で終わり、第6号から『戸山高校新聞』(昭和25年3月18日付)となります。この戸山高校新聞としての第1号の1面から、記事を二つ紹介して、今回の終わりとしたいと思います。
 一つ目は写真版にいたしました。
別冊城北会誌 戸山高校新聞第6号

初の高校入学/本校は男女400名

 新学制への過渡期にあって、5年間行われなかった都立新制高校の新入学は、2月12日都内一斉に行われた。アチーブメント・テストの結果を添えた内申書が各志望校へ来て、3月11、12の両日願書のせん衡が行われ、3月18日、本校においては午前10時半より合格者の発表が行われた。
 この日、おりからの晴天の下に、8時半ころからつめかけて発表を待っていた受験生や両親達の間に、相も変らぬ悲喜こもごもの合格発表風景を展開し、その間にもセーラー服の女学生の姿が華やかさを添え、高校男女共学軌道にのるの感を抱かせていた。
 なお本校採用者数は男子300名、女子100名でった。
 合格した人々は、4月3日の入学式を前に合格の喜びを各々次のように語った。
A君(目黒中) 東大への進学率が良く環境も良いので四高を選んだ。試験らしい入学試験がないので、なんだかアッケないような気がするが、兎に角うれしい。
Bさん(奥沢中) 充分勉強したいので四高を受けました。大学は文一(政経)が希望です。入学したらお茶やお花よりも、勉強をしっかりしたいと思います。
C君(落合二中) 四中以来の立派な伝統にあこがれて入った。今はうれしいだけで何もいえない。
Dさん(目黒二中)のお母さん 家は第二学区ではなかったのですがどうしても四高にいれたいので、孟母三遷の教えに従って住所を近くに移しました。
                                           掲載者:林善紀(昭34)
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