2015.5  別 冊 城 北 会 誌


1950(昭和25)年の“校舎全焼”をめぐって


 

#1 翌日の朝日新聞の記事から

 1950(昭和25)年5月10日、母校・戸山高校の校舎がほぼ全焼しました。翌日、5月11日付けの『朝日新聞』は次のように報じています。

 「10日夜10時10分ころ新宿区戸山41都立戸山高等学校(校長平田巧)南側木造1階建
校舎中央付近から出火、消防庁では第4出動を行い70台の消防車が出動、消火につと
めたが同校2むね800坪を全焼、11時40分ころ鎮火した。…(以下は次の『朝日新聞』
の写真をお読みください。)」
別冊城北会2015年5月写真A
                <5月11日付けの朝日新聞の写真>

   この校舎は、別冊城北会誌で2014年7月に紹介した「四高時鐘創刊号」の記事「全校生七月中に移転可能か/新校舎の工事着々進む」の、まさにその校舎で、中校舎8教室分の新築と南校舎の改修が予定通り7月に完成しましたから、わずか10カ月足らずの“いのち”だったのです(朝日新聞の「10月完成」は誤り)。

#2 現場に駆けつけた当時の在校生へのインタビュ−から

 筆者は、同夜この火事現場に駆けつけた在校生から、直接お話を伺えないかと考えました。そこで、深井奨学財団の庄内正文事務局長(昭29)に紹介されて、当時2年生だった昭和27年卒の伊藤成一理事に相談したところ、同期の高井良昌さんと梶屋庄佑さんが現場に駆けつけられたことがわかりました。そうして、伊藤さんを交えたお三方に、庄内さんと私とでインダビューすることになりました。昨年(2014年)8月25日、場所はパイラスクラブでした。

  伊藤さん−−私は火事を知らなかったんだ。下井草は遠いから、翌日の新聞で知っ
た。旧近衛連隊の馬小屋を改造して造った校舎でね。レンガ造りの方は女子学習院、
馬小屋とその前のグランドを戸山高校でいただいて、2年の始まったばかりの時だっ
たね。

 高井さん−−私は昔の四中のそばに住んでいた。市谷甲良町という町で。戦争中は
集団疎開していて、四中の市谷加賀町の校舎は5月25日の空襲ですっかり焼けちゃっ
て、運よく私の家は焼け残ったから、戻ってきて市谷小に戻り、そこに同居していた
四中を受験した。翌年から「四中」は「四高」に昇格し、中学は都立第四高校併設中学といったけどね。であの日、小学校の友達で四中生ではないのが私の家へ飛んできて、よっちゃん大変だよ、あんたの学校が火事だよ。それで自転車で駆けつけていった。そのときはまだ燃えていて、中には入れたから入ってみると、先生たちが一生懸命教室のドアをはずしている。それで中の大切な物を持ち出そうというわけ。ぼくは顕微鏡の箱を二つ持ち出した記憶がある。それがその後どこへ行ったかわかんないけどね。

 梶屋さん−−私か行った時はもう入れなかった。先生方も何人かいらしてた。藤村
先生のお嬢さんをお見かけしたから、ブルさんも来ていたに違いない。お近くに住ん
でいたからね。印象に残っているのは、藤塚先生が直立不動で、すごい責任感じてい
るという姿でね、あんなに人間が変わるのかなあ、一晩でね、夜が明けたら髪の毛が
真っ白で、振り乱しちゃってね、それまでは確か黒かったよなあ。ほんとにすごかったのかなと思うんですよ。

 また、昭和26年卒で当時3年生の山本千里理事にも、庄内さんと一緒にお願いしたところ、山本さんはいろいろとあたって下さり、宮川宗雄さん(昭26)が駆けつけたことがわかり、連絡をとって下さいました。そこで、庄内さんと私は、昨年11月26日、城北会事務局で、山本さん・宮川さんからお話を伺うことができました。

 宮川さん−−私は、駆けつけた一番最初の口だ。火事だ、という声で飛び出して、
戸山の方だったから、こりゃ大変だということで駆けつけた。そのときは馬小屋校舎
が燃えてるだけで、新校舎の方は燃えてなかった。で、事務室へ飛び込んだら、藤塚
先生がそれこそ必死になって物品を運び出していて、それからブルさんが来て平瀬さ
んが来て、卒業生が何人か来てましたね。藤塚さんから「出せる物はみんな出してく
れ」といわれて、いろんな物をけっこう運び出したよ。火のまわりは早かったね。消
防を見た記憶はありませんね。ホースは見たけど。鮮烈に覚えているのは、たしか野
球部のOBだと思うんだけれど、卒業生の一人がバットをもって、藤塚さんの話をしつ
こく聞こうとしていた新聞記者を追いかけ回していたことだね。
 戦災で焼け出されて、転々として、火事の時は早稲田の野球部の安倍寮の隣に住ん
でいたから、早く駆けつけられたんだ。
 11月に新校舎の一部が完成して、私ら3年だけがそこに入った。私は都立四高に入っ
て、都立戸山で卒業。卒業式は女子学習院の講堂を借りてやった。そこでやったのは
われわれだけだろうね。

#3 『くずの記録』と「放送週報」から

 城北会事務局に『くずの記録』という本があります。先の山本さんたち昭和26年卒業の同期生による「卒業50周年記念誌」です(註)。それには「戸山高校全焼」と題して15ページにわたる特集が組まれているのですが、そこに、5月12日に放送部が発行した「放送週報」第6号が以下の文とともに紹介されています。
 「放送週報は4月10日に第1号を発刊したばかりであったが、校舎全焼で放送が不可能になったため、5月12日の第6号をもって廃刊と決めた。それにしても僅か1日ながら大変な取材をしている。おかげで校舎炎上の様子をいろいろな角度から想像することができる。」  「放送週報」の記事は次のとおりです。長いですが、全文を紹介いたします。

 5月10日夜半、本校全焼す/原因は早稲田署で調査中
 5月10日午後10時すぎ、南校舎東端理科実験室付近から出火し、折からの東南の風にあおられ、又高台で水利が悪かった為、南校舎1棟18教室と、北側中校舎2階建8教室と校長・職員室・宿直小使室など1棟、計延べ1200坪を全焼した。鎮火は11時40分。br />  同日、本校夜間過程の授業は午後9時5分前に終り、大部分の生徒は直ちに帰宅し、掃除当番にあたっていた生徒が掃除終了して帰途についたのは9時半ころであった。
 又、宿直は藤塚先生と小使河津さんであり、9時半と同40分に全校を見まわり、便
所、宿直室、小使室を残して電灯のスイッチを全部切っている。
 発火発見は女子学習院の事務員中原さんで、最後の映画を観てからの帰途、同院鐘
つき堂付近で本校東側便所の異常な物あかりに気付き、一旦帰宅(同院内にある)した
後、はっきりと火の手を見て直ちに同院の鐘を乱打し、宿直室の同院小使い室へ馳せ
消防署へ連絡したものである。
 消防自動車の到着と共に直ちに消火が開始されたがすでに遅く、第二期工事現場・
玄関口・音楽室・西側便所を残して焼けたものである。
 めざましい活躍/在校生、先輩等
 火事を見付けると同時に付近の在校生・先輩は駆けつけ、職員の指導により、まだ
火の手の移らなかった中校舎の重要書類、放送器具等を運び出し、徹夜で警戒にあた
った。
 直ちに復興に着手す
 翌朝、6時のニュース、又は朝刊などを観、聴きしない生徒達は通常の登校姿で出
てきたが、一日にして激変した母校の姿を観て、ただ唖然とするばかりであった。
 復興に関しては職員会議を直ちに開き、当面の大まかな処置をして、復興本部を置
き、なるべく早く通常授業の体制に復するよう努力することになった。
 当分は区内各校に分散の大綱を決め、10時全校生徒を運動場に集め、校長から「ま
ことに申し訳ない。学校としては出来るだけのことをして諸君に不便はさせない」
との話があり、11、12日を休業し、13日全員登校を通知した。この間に善後策を協議
する模様である。
 なお生徒会側は職員会議と一致協力して行く為、真杉君を委員長とする“生徒復興
対策委員会”を設置し、受付、警備等にあたることになった。11日は3年A・B組
12日は3年C・D組が登校し担当する。

 放送週報は、3年生による夜間警備のルポとか、駆けつけた在校生やご近所の方々の談話も記事にしていて、『くずの記録』はこれらも収録していることを報告しておきたいと思います。
別冊城北会2015年5月写真B
              <『くずの記録』と「放送週報」の写真>
註 『くずの記録』という表題について、編集を担当された横山啓三さんが前書きの部分に次のように書かれています。
  「我々は終戦間近、空襲が激しくなってきたドサクサに紛れて無試験で都立四中に入った。その頃の記録によると、四中は250人の募集で230人ほどしか集まらず、再募集をやって定員にしたが、六中は300人の募集に対して350人も集まっていた。これは「四中は難しい」という先入観があって敬遠されたからであるが、結局その年の都立の中学校は全部無試験となった。後にいう「ポツダム入学」である。
 このような事情での、四中史上空前絶後の“無試験入学”であったが、これは我々にとって大変迷惑な話であった。「お前らは四中始まって以来のくずだ」と言われたからだ。<中略>しかし「四中始まって以来の・・・」とまで言われれば、そこまで俺達の質は悪いのか、という気になる。それならば四中始まって以来の“くず”とはどういう人間たちなのか、を明らかにしようというのが、この記念誌の編集意図である。」

#4 『府立四中・都立戸山高校百年史』から

 四中・戸山百年史も、もちろん校舎全焼について言及しています。すでに紹介した朝日新聞や放送週報と重複しない部分を引用します。

 (前略)損害総額は約2000万円であった。本校にとっては20年3月10日と4月13日の戦
に続く、三度目の災害であった。
 火災の翌11日、学校は直ちに都立戸山高校復興本部を設け、復興に向けての努力が始まった。13日には分散授業を行うことを決め、1年生8学級は四谷第四小学校、2
年生8学級中4学級が牛込原町小学校、4学級が牛込仲之小学校をそれぞれ借用し
た。また3年生6学級は牛込原町にある成城高等学校の教室を、放課後午後3時半より7時半まで、定時制は四谷第七小学校をそれぞれ借用し、6月になって3年生は、富久小学校の戦災を受けた教室の応急修理が終わるのを待ってそこに移転した。新築校舎での授業が始まったのも束の間、戦災のときのように再び他校の教室を借りての授業で、しかも学年ごとに別れ別れの学校生活となり、そのため教員は分散個所を巡回して授業をしなければならず、時間割の編成が一苦労であった。

 百年史には次のような焼失後の写真が掲載されていますが、『新校舎落成記念 戸山高校118年の歩み』にも同じ写真が載っていて、写真説明が違っています。百年史は「焼け残った校舎」ですが、118年の歩みの方は「焼失した校舎の無惨な姿」となっています。
別冊城北会2015年5月写真C
                  <焼失した校舎の写真>

#5 『戸山高校新聞』第7〜12号と『城北会誌』第46号から

 5月13日、『戸山高校新聞第7号』が発刊されました。生徒の全員登校に合わせたようです。それは1面トップに「本校校舎全焼/復興途上の災害/2時間の内に一握の灰/全てをあげて再建え」という4段の大きな見出しで「5月10日午後10時ごろ南校舎東側から出火、同12時ごろまでに南、中両校舎ともわずかの部分を残して全焼した。」という書き出しの記事があり、平田巧校長の次のような談話が掲載されています。

 不慮の災害に際して  平田校長先生談
 こんな思いもよらぬ災害にあって、全く生徒の皆さんにも父兄の方々にも、また都
民の皆さんにも申し訳ない。徹夜で働いて下さった方には深く謝意を表する。
 対策としては、13日土曜までに付近各学校にお願いして何とか分散授業を行なえる
ようにしたい。このような一生の中にも数少ない災難にあって、ただ悲しみ意気消沈
してしまうのではいけないと思う。古人も「憂きことのなおこの上に積れかし、限り
ある身の力ためさん」と言っている。諸君とともに艱難をのり切って、この災難を
反って鍛錬の資とするように、立ち上がろうではないか。復興については全校あげて
積極的に協力されんことを望んでやまない。

別冊城北会2015年5月写真D
<戸山高校新聞第7号の写真>
 この紙面を見ると、急遽割付の変更を行ったことが窺われます。当時の新聞部員は11日に取材を行い、記事を書き、その日の夜か12日の早朝に印刷所に持ち込み、割付をし直したに違いありません。
  このことは『城北会誌』第46号(1998年12月刊)に掲載された、当時生徒会執行委員長だった真杉章さん(昭26)の文から知ることができると思います。第46号は生徒会発足50周年特集を組んでいて、そこに「往年の生徒会執行委員長は語る」という項があって、11人の元委員長が書いているのですが、その中の一つです。

 多事多難、しかし
      奇妙に牧歌的な時代
  昭和25年前期 眞杉 章(昭26)
 (前略・戸山高校新聞の)創刊号から第5号までの名称は「四高時鐘」である。戦後
の新学制によって、都立四中は都立第四新制高校となっていたからだ。
 「時鐘」−−時の鐘と名付けたところに、私を含めてこの新聞を創刊した仲間たち
の思いが込められている。
 第6号から「戸山高校新聞となった。同号第1面に「四の字とお別れ/戸山高校と
決まる」の記事。
 私が新聞部長を務めたのは創刊号からこの号までで、第7号では、生徒会委員長と
しての抱負と呼びかけの文が載った。
 ところが、この文は最後の章が断ち切れていて、「突然不慮の災害が発生したため、
この項以後を更めます」となっている。
 校舎が火災で全焼したのだ。
 当時の古い日記を引張り出して見ると、「5月13日(土)多忙を極めている。生徒会
の委員長になって予算の配分会議も終わらぬうち、5月10日に学校が全焼してしまっ
た。ひどいショックだった。しかしここでくじけてはならない。戸塚、柿木、野吾の
諸君をはじめ皆と一緒に頑張っている。当分の間、分散授業はまぬかれまい。」
 「5月15日(月)3年生は成城高校にお世話になることになってので、生徒会として
も渉外部長の戸塚君と共にご挨拶に行った。その後、1年生がお世話になることにな
った四谷第四小学校へ廻って、校長先生にご挨拶。
 再び成城高校へ戻って、3時半から今後の授業について3年全員、平田校長先生の
話を聞く。6時より戸山高の焼け跡で生徒復興対策委員会を開き、午後8時半下校」
とある。 (中略)
 内外共に多事多難な時であったにもかかわらず、奇妙に牧歌的なものがそこにはあ
ったことを懐かしく思い出す。

 戸山高校新聞部は15日(月)に「号外」を発行しています。B4判表裏のガリ版刷りで、ガリ切りはその字面から自分たちでやったようです。トップ記事の見出しは「5月15日(月)より/直ちに分散授業/3年生は3時半から7時半」です。また「5百名参集して/臨時父兄大会開く/戸山高校災害復興職員父兄生徒合同委員会設立へ」という見出しの記事があり、「14日(日)朝8時半より本校保護者会に於いては、理事会を開き、続いて10時半より玄関前広場に於いて“臨時父兄大会”を持ち、東京都立戸山高校災害復興職員父兄生徒合同委員会等を設置することになり、11時過ぎ散会した」とあります。
 戸山高校新聞は5月26日に第8号、6月6日に第9号、第10号は6月26日と矢継ぎ早に発行されています。いずれもタブロイド判2面のガリ版刷りで、ガリ切りは業者に頼んでいます。第8号のトップの見出しは「放火説有力か/失火と両面で捜査中/早稲田署で連日の聞き込み」で、その下に、生徒会の眞杉委員長をはじめ復興対策委員が「分散授業の早期解消と復興は鉄筋コンクリートで」という請願書をもって、東京都教育委員会と都議会に陳情した記事が載っています。
 ついで第9号に「1950年度生徒会予算決る/復興費約10万円計上/クラブ活動活発化へ」という記事があって、授業だけでなく、生徒会活動やクラブ活動も盛り上げていこうという雰囲気のあることが伝わってきます。
 そして、第10号のトップの見出しは「復興予算1500万円/いよいよ都議会上程へ」で「全校生が待ちに待った本校の校舎復校予算が、都議会にいよいよ上程される。すなわち、去る15日に開かれた東京都教育委員会では、都教育庁で計上した本年度校舎教室建設費9億8045万円で、1333教室を増新築することを決定したが、この中には、本校再建費として、1500万円(木造2階建て・20教室分)が含まれており、この予算案は来る6月27日の都議会へ、その他の追加予算と一括して上程されることになった。詳しい内容に関しては後日発表される筈」とあります。
 もう一つ、「早稲田署捜査係長談」として「まだ判らぬ火災原因/捜査は行き悩みの状態/発火点は東偶化学室?」という記事があります。結局、火災の原因は判らず仕舞いで、後日、漏電の可能性が高いということで、落着したようです。

別冊城北会2015年5月写真E
<戸山高校新聞の号外と8〜10号の写真>

 7月25日付けの第11号から、戸山高校新聞はもとの活字版に戻ります。この号はタブロイド判6ページの大部のもので、1面トップの記事はなんと「バレー班、全国大会に出場/7月下旬富山市で」というものです。その右下に、次のような火災からの復興関連の記事が掲載されています。
 両立せぬ現実と将来/鉄筋・木造案の行方
 校舎が焼失して2ヶ月、復興問題も漸く本腰と成り、去る7月1日都議会に於いて
上程された復興予算は1500万円の支出決定を見た。これと相前後して俄然白熱化して
きた鉄筋か、木造建築家の論議は、A、B、C三案をめぐって生徒職員保護者間に展
開されている。即ち生徒間に於ては従来の絶対鉄筋案から、一刻も早く分散授業を解
消する為の木造案も一部に唱えられて来た。亦7月14日学習院講堂で開かれた保護者大会には約60名の父兄が参加、6時間に亘って協議を重ねた。この席上に於ても分散授業の問題が相当厳しく取り上げられ、委任状による採決とは別に三案の採決を行って、両者を別の立場で都教育庁へ希望として提出する事になった。
 結局、時期を犠牲にしても永続性のある鉄筋にするか、現実的な木造建築にするか
に問題が残されている。同関係者の談として、「これらの決議はあく迄当局への希望
であって、最終決定は都で行うものである」と述べている。
 A案 (鉄筋、木造の提案)都の設計になる木造に、110坪209万円の鉄筋部分を加えたもの。
   この負担は保護者会。
 B案 (全部木造)当局の設計通りで26教室となる。但し、外壁はモルタル、内部は漆喰壁の
   防火仕上げで防火壁を作る。
 C案 (全部鉄筋)都の予算額により、鉄筋9教室を作り工事中の6教室と別に3教室を加え
   て18教室として、1ヶ学年は当分分散授業を余儀なくされる。工事は7ヶ月以内にでき
   る見込み。
 次の12号(9月23日付)に「来年3月の完成か/校舎復興は鉄筋・木造折ちう案で/新校舎設計成る」という見出しの記事が載りました。そのリード部分を引用します。
 「5月10日校舎焼失以来数えて4ヶ月半、分散授業をつづけ乍ら一重に待ち焦がれていた後者復興問題も、去る9月7日工事入札が決定。漸くにして軌道に乗り出してきた。鉄筋案、木造案を巡る激しい論争は幾度かくり返されてきたが、1500万円の復興予算が落ちついた所は両者折衷案であった。
 この工事は先に焼失した校舎の際と同じく大日本土木の手により成される事に成ったが(第二札戸田組)、一先ず明年3月には完成する予定である。尚学校当局側としても、明春の卒業式は是非新校舎でやれる様にと計画中である。」
 しかし、残念ながら卒業式は新校舎では挙行できませんでした。冒頭部分の宮川さんのインタビューにあるとおりです。新校舎の完成は新年度にずれ込み、1951(昭和26)年4月23日に引っ越しが行われて、ここにようやく全学年が本校地にそろいました。

#6 『城北会誌』第45号から

 最後に一つの“思い出話し”を紹介して、この「校舎全焼をめぐって」を終わりにしたいと思います。
 城北会誌第45号(1997年12月刊)は戸山高校創立110周年記念号で、「恩師座談会 四中から戸山高校への移り変わりを語る」という藤塚武雄、和田典子、武藤徹、平瀬志富、梅田嵩の5人の先生方による座談会が組まれています。その中の校舎全焼の部分です。
 ●校舎全焼あれこれ
藤塚 男女共学からすぐに校舎が焼けて分散授業。大変でしたね。
和田 あの時、藤塚さんが宿直だった。翌朝、真っ青になっていたでしょう。(責任
  をとらされて)クビになるんじゃないかって、心配した(笑い)。
藤塚 後からも授業中に警察に呼び出されたりしてね。
武藤 あれはまだ、定時制の授業中でね。しかもあっという間に火がまわったという
  から、漏電ですよね。老朽校舎だったし…。
平瀬 再建の時には激論があってね。遅くてもいいから鉄筋にしろというのと、早く
  木造で建てろというのとね。結局、木造になったけれど、何とか理科室だけは鉄
  筋にしたかった。それを戸山会が作ってくれてね。階段教室もあって、当時は大
  学級だなんて言われた。
別冊城北会2015年5月写真F
<5人の先生方の写真>
        (原文のまま。武藤先生の「定時制の授業中でね」という発言は記憶違いです。)
                                         掲載者:林善紀(昭34)      
                   
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