2016.12  別 冊 城 北 会 誌

 今年(2016年)の『城北会誌』(第64号)は、すでにお手に取っておられると思いますが、その「特集II・戸山高校周辺の今昔」はお読みいただけたでしょうか。この特集の末尾には「昭和32年卒E組の稲葉和也さんが『卒業50周年記念誌』に「戸山高校・戸山学校・戸山荘」という一文を寄せておられる。これも読み応えのあるものである」と記してあります。
 編集部ではこれを『別冊城北会誌』に掲載し、同窓生の皆様に特集IIと合わせて読んでいただけたらと考え、筆者の稲葉さんにお願いしたところ、快諾していただいただけでなく、画像を鮮明なものに差し替えてくださいましたので、ここに掲載いたします。

                              掲載者:林 善紀(昭34)


     戸山の歴史:江戸から昭和まで

      戸山高校・戸山学校・戸山荘

          3E 稲葉和也

                      (昭和32年卒 卒業50周年記念誌より)


 同期の方で、高校の付近に住まわれていた人は多かったことと思いますが、私は昭和24年から地元諏訪町に住むようになりました。当時このあたりは未だ焼け跡だらけで、諏訪町から大久保、戸山町にかけては、防空壕の住まいやバラックが建ち、家からは伊勢丹や三越が見通せました。小学校は二部授業でしたので、午後になるとクラスの悪童たちと焼け跡から鉄管や銅線を探し出しては屑屋に売りに行き、コッペパンにかじりついていました。
 戸山高校の前にはコンクリートで覆われた射撃場があって、朝鮮戦争のために米軍が機関銃の訓練をしており、禁止されていましたが高い塀を乗り越えて薬莢を取りに入った記憶があります。また山手線沿いの三角山は絶好の遊び場でした。高校の南側の戸山ハイツには箱根山と呼ばれる小高い丘があり、雪の日にはソリをしに行ったものです。そのそばには軍隊の訓練用のコンクリートの高い壁もあり、度胸試しにロック・クライミングの真似をしました。中学校に通った落合でも同じで、神田川の崖線沿いにあった徳川家や相馬家など旧華族の邸宅も瓦礫の山で、唯一残された池が悪ガキたちの遊び場となりました。神田川、そして学習院の池、さらに新宿御苑の池と、魚取りの遊び場は次第に遠くになり、当時流行ったイタリア映画のシーンを地で行ったようなものでした。
 戸山に入ってから気が付いたことでしたが、私たちが遊んでいた所は戸山ヶ原と呼ばれる旧戸山学校の敷地内で、明治以降から終戦まであった陸軍の幼年学校や騎兵学校、陸軍病院などの跡地でした。そしてその敷地の大半は江戸時代には尾張藩の下屋敷、戸山荘があった所だったのです。このたび卒業50周年記念誌を刊行するとの呼びかけがあった時、長年気に掛かっていたこの《戸山》の歴史をまとめてみたいとお引き受けした次第です。

昭和15年ころの地形図

 昭和15年の一万分の一地図
 左丸印は現戸山高校所在地で、騎兵連隊も移転し、跡地となっている。明治通りの西側は戸山ヶ原で、射撃場が見える。
 右丸印は旧府立四中所在地。その南に陸軍士官学校跡地(昭和16年朝霞に移転)がある。

 戸山学校というのは、江戸時代尾張藩が所有していた戸山屋敷(戸山荘)に、明治7年(1874)陸軍の兵学寮が移され、陸軍戸山学校となります。そしてその西隣の西大久保村、諏訪村、戸塚村などから広大な土地を射撃演習地などの名目で買い上げて作られました。この地は後に戸山ヶ原と呼ばれるようになりますが、明治12年(1879)洋式競馬場ができました。安政6年(1859)横浜が開港されると、慶応2年(1866)にはいち早く外国人のために根岸に競馬場が作られました。東京でも明治3年(1870)九段の東京招魂社(現靖国神社)で兵部省主催の洋式競馬が行われ、明治30年まで例大祭で競馬が開催されました。

競馬場

 大正7年の一万分の一地図
 明治中期頃、戸山ヶ原に射撃演習地(後の三角山)と共に、競馬場が作られた。

 戸山ヶ原の競馬はたまたま来日していた前米国大統領グラント将軍の歓待のために行われましたが、華族の共同競馬会社が明治17年〜25年には上野の不忍池で開催、明治40年(1907)に目黒で、そして昭和8年(1933)におなじみの府中競馬場に移されました。
 戸山の競馬場は日清戦争後の明治27,8年に射撃場となりますが、関東大震災後の昭和2,3年には鉄筋コンクリート造りの半円筒の屋根が付き、長さ300メートルの射撃場が7列並ぶ、世界に誇る演習場ができました。戦後は駐留軍が接収して朝鮮戦争の訓練に使用され、昭和33年に接収解除され、取り壊されて早稲田の理工学部のキャンパスとなります。
 戸山ヶ原は山手線の西側(現百人町3丁目)まで及んでおり、その西南隅の一帯には震災後、陸軍の技術本部・科学研究所が置かれ、化学兵器や細菌戦などの研究がされたようです。現在は社会保険中央病院や国立科学博物館分館などになっています。
 さて、陸軍戸山学校は箱根山の東南側一帯にあり、戦術や射撃、体操剣術などの教育や研究がされていましたが、有名な戸山軍楽学校も併設されていました。しかし昭和になってから、学校の状況が変わってきます。まず昭和4年陸軍軍医学校が麹町から移ってきて、やがて細菌戦の研究・開発をしていた731部隊の中枢機関、防疫研究室が置かれました。20年ほど前、この場所から大量の人骨が発見され、生体人体実験をしていたことが明らかになりました。
 現在、戸山高校や学習院がある場所は戸山荘と呼ばれた旧尾張藩下屋敷の西北隅にあたる所で、ここに明治44年、近衛騎兵連隊が皇居前から移ってきました。大正7年の地形図には長い建物が何棟も並んでいます。学習院女子大学には明治45年に建てられたレンガ造りの連隊の旧兵舎と炊事場が未だに残されています。私たちが高校に入学した頃、運動場の南側に平屋の木造の建物があって、クラブの部室になっていましたが、騎兵連隊の馬小屋だったと言われていました。昭和15年の地図には大きな建物はすでに無く、連隊も他所に移り、空家同然の状態であったようです。
 戸山荘 尾張藩は徳川御三家の一で、市谷に7.5万坪の上屋敷、その東南の麹町に1万坪の中屋敷、そして西北の戸山村に13.6万坪の下屋敷戸山荘がありました。この戸山荘は大名屋敷としては江戸で最大の広さでした。これらの屋敷は全て江戸城の西側にあって、城を守る役割で配置されていたと思われます。

尾張藩

 尾張藩戸山荘 市谷邸絵図
 尾張藩戸山荘(下屋敷)と市谷邸(上屋敷)、麹町邸(中屋敷)。右下方に江戸城がある。

 戸山荘の造営は二代目の藩主光友の代、寛文9年(1669)から30数年間にわたり行われ、武蔵野台地端部から涌くハケ水を泉水に利用し、段差のある広大な池を掘り、その土で築山を築き、庭園の中心としました。

戸山御屋敷絵図

 戸山御屋敷絵図。箱根山はほぼ中央部、戸山高校は左隅あたり。

戸山荘

 戸山荘絵図。

 この築山が現在箱根山と呼ばれている丘で、明治以降いつしか箱根山と呼ばれました。標高は44.6mあり、江戸近郊では最も高かったようです。施設としては御殿、亭、茶屋、数寄屋などと共に神社、堂塔も数多く建てられ、池泉回遊式の大名庭園が造られました。藩主や藩士たちの息抜きの場所のように見られますが、上屋敷や中屋敷が火災に遭った時の避難場所としての機能も持っていたようです。
 そして戸山荘の名声を高めたのが、東海道筋を模した町並みが園内に作られたことでした。その場所は園の西側、上の泉水に沿った所で、ほぼ南北に37軒の町屋が75間(136m)にわたって連なっていました。店(見世)の間口は実物に近かったのですが、奥行は1.5間ほどで、正面に3尺の庇をつけたところもありましたが、あくまでも通りの雰囲気を求めて、宿駅さながらの職種が見られます。その内の1軒に薬屋があり、外郎屋(ういろうや)とも呼ばれていたことから、この町並みは小田原宿と呼ばれるようになりました。
 光友が藩主を退いた後には、戸山荘の整備は殆どされませんでしたが、約100年後の9代藩主宗睦の代になってから多くの建物を再建し、庭園の整備を施し、儒学者細井徳民に二十五景を選ばせて詩を詠ませましたが、箱根山は玉園峰と命名されています。完成年間(1789〜1801)には11代将軍家斉をはじめ、多くの客人や文人が招かれ最盛期を迎えます。この時期に書かれた将軍お成りの際の随行記や園内の絵巻物が多数残されています。

箱根山

 二十五景の一 玉園峰。後に箱根山と呼ばれた。

古駅楼

 二十五景の一、古駅楼(上図)。小田原宿を模したとされる町屋が描かれている。
 下図は上図の右4分の1部分の拡大図である。

 そして戦後 明治維新後、尾張徳川家の下屋敷戸山荘内に建設された陸軍戸山学校も、終戦と共に70年の歴史を閉じました。そしてその跡地は米軍兵舎として接収されましたが、昭和24年、戦後初の大規模な都営団地戸山ハイツとして生まれ変わることになりました。米軍兵舎の払下げ資材で建てられた木造、平屋建てでしたが、当時すばらしい団地でした。
 牛込区加賀町にあった戸山高校の前身、府立第四中学校は、明治21年に私立補充中学として創立され、同34年府立第四中学となりました。そして戦後昭和24年に都立第四高等学校として生まれ変わりましたが、7月に戸山町の現在地に移転しました。その跡地は新宿区立牛込第三中学校になりました。さらに翌年4月に都立戸山高等学校に改称されましたが、その5月、学校は全焼しました。私も近所でしたから火災の様子を見に行きました。
 私たちが入学した昭和29年、校舎は新築されましたが、教室のストーブには火も入れられず、オーバーを着たままの授業が懐かしく思い出されます。まだ隣の学習院女子部との境の生垣も大きくなく、良くボールを蹴り込んでは取りに行ったものでした。校舎は出来立てできれいでしたが、それに比べて運動場の隅にあった運動部の部室は、古風で重みがありました。この建物がかって騎兵連隊の厩だったのでした。
 この稿を書くにあたり、新宿歴史博物館特別展図録『尾張家への誘い』、『新宿区史』、小寺武久著『尾張藩江戸下屋敷の謎』(中公新書)などを参照させていただきました。
 また、掲載した図版はすべて新宿歴史博物館所蔵のものです。これらの掲載を快く認めてくださった  同博物館に、厚くお礼申し上げます。


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