「1期生づくめだった我われ」 二八会総会・懇親会

 平成17年6月11日、牛込神楽坂の日本出版クラブ会館で二八会の総会・懇親会が開催された。卒業生57人、恩師は藤塚、平瀬、石井、氏家の4先生が出席された。

 我われ28年卒業生は、昭和9年の遅生まれ、昭和10年の早生まれがほとんどで、全員1期生づくめだった。まず昭和16年、小学校が国民学校と改称された1期生。終戦2年後の昭和22年、中学までが義務教育となった新制中学の1期生。そして四中、四高,戸山高校と改編された母校が男子300人、女子100人の共学となった新制戸山高校の1期生だった。旧四中が100人の女子を迎えるに当たり、女性の和田典子先生を家庭科の担当としてお迎えしたとのことだった。

 代表幹事矢作君の開会の辞で開幕、最長老の藤塚先生の乾杯の音頭で懇親会へと進んだ。古希を過ぎた我われの話題はやはり往年の回顧と健康問題が中心になる。「今年は終戦60周年、終戦が還暦を迎えるのだから、我われが年をとるのも当然だ。」 「私は寝たきりで、人の世話になる くらいなら生きていたくない。目下は元気で楽しく動けている。この状態はあと3年と自分に言い聞かせて、それが安保条約同様、自動延長されているのはとても有難いことだ。」などの会話があいつぎ、周囲の同感の声を集めていた。

 一昨年のご挨拶で藤塚先生は「四中教諭の辞令を受けたあと、先輩の先生方から厳しく叱られることが多かった。怖い学校だった。」と述べられて我われをしゅんとさせた。今回先生に怖さの中身を伺ったところ、何人かの先輩の固有名詞を上げられ、とくに臼井先生の躾についての指導は群を抜いて厳しかったとのこと。平瀬先生も深くうなずき、「そう、本当にきつかった」 と賛同されていた。幸か不幸か、我われが入学したとき、臼井先生は在籍しておられなかったはずである。それにしても、新制戸山になって、躾の厳しさは多少は和らいだのだろうか。3年生のときの運動会の仮装行列に、女装し口紅を塗って参加して大喝采をあびた天野君は、翌日校長室に呼び出されたとのことだった。

 入学直後の5月、校舎が全焼し、我われは市谷や四谷の小学校に分散して授業をうけねばならなかった。その話題が出たためか、「1年生のときの 0組集まれ」 「X組集まれ」の声があいつぎ、開会直後、全員の記念写真は撮り終えていた幹事の林カメラマンは、フイルムを取り替える忙しさとなった。
あの分散授業は”さまよえるユダヤ人”同様我われもつらいものだったが、渡り歩きを余儀なくされた先生方はもっと大変だったはずである。しかし、今になってみると、青二才だった高一時代の懐かしい思い出でもある。

 例年の定着イベントとなっている氏家先生のハモニカ演奏は今年も健在だった。出席者名簿を見ながら、君は1年Xのとき教えたね、などと的確に指摘され、記憶力はいささかの衰えも見せていなかった。全員驚いたことに365歩のマーチは会場を回りながら演奏された。これで昔話に花を咲かせている隅々の私語をぴたりと抑えられた。さらに去年「先生ナウい」の掛け声 がかかった大きな古時計をリクエストされると、これも歩き回りながら応えら れ、フィナーレはマイク前でぴたりと納められて、盛んな拍手を浴びられた。 まことにお手本にすべきお元気さではある。終宴近くこれも恒例、鈴木幹事の指揮で校歌を見事に歌い上げた。

 この会場は光文社、角川書店の共催で、法月綸太郎氏の第5回本格ミステリ賞受賞祝賀会がひきつづき開かれるとのことだった。このため残念ながら去年のようにこの場で2次会といかず、矢作代表幹事の「来年この会場でまたお会いしましょう」の挨拶でお開きとなった。来年は戌年、昭和9年生まれは、ついこの間還暦を迎えたと思っていたのに、あれから12年たったことに改めて気づかされる仕儀となる。嗚呼!

                            文責 関  陽一



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