海軍兵学校研究書に垣間見た
      四中生の70年前と「いま」

 海軍兵学校OBが著した本の中に、城北会員が関心を寄せるかも知れない記述があると、母校教諭の村松明先生(世界史)からお知らせいただきました。品田毅著「海軍兵学校の教育課程の研究」(学事出版2001年初版・рO3−3225−5471)がその本です。


 昭和18年12月海兵入学75期生である著者は、戦後45年を過ぎてから一念発起し、同兵学校普通科の教育課程につき研究を始め、10年を経て1冊の著作にまとめました。外国語教育など普通科教育課程を論述した論考編と、関連資料をまとめた資料編で構成されており、その資料編の中にある「昭和9年海軍兵学校生徒志願者身体検査学術試験一覧表」に四中に関する数字があります。著者は特定の学校について何も述べていませんが、城北会ホームページ編集部が、この資料の中から四中生に関する部分を抜粋してお知らせします。

・ 昭和9年の海軍兵学校生徒採用試験には、全国の中学校から5,713人が志願した。東京府では公私立中学校86校から769名が志願した。内626人が身体検査を受けた。身長・体重、発育不全の有無、神経系、呼吸器系、循環器系の病の有無、視力・識色力、運動機能などの仔細なチェックを受けた。この検査の合格者が学術試験に臨み、さらに面接などを経て最終的な合格者が決められた。全国の志願者数は5,713名、最終合格者は200名(合格率3.5%)であった。

・ 東京府では志願者の5.3%、41名が合格した。うち四中生の合格者11名は府内全合格者数の26.8%を占め、府内一の成績を残した。2位は6名合格の府立一中であった。

・ 四中生は52名が志願、47名が身体検査を受検、その合格者37名が学術検査を受け、最終的に11名が採用された。

 募集は公立・私立を問わず、全国の道府県のみならず、当時の樺太、中国、朝鮮、台湾の在外中学校からも行なわれました。最終合格者の出身地も多彩で、優秀な人材を広く求めていたことがうかがえます。
 昭和20(1945)年、海軍兵学校はその使命を終え廃校になりましたが、四中出身卒業生は、昭和60年代の初めから四中ネービー会(現城北NAVY会)を結成し、毎年秋、「同じネーヴィの釜のメシを食った」仲間の旧交を暖める集いを開き、その活動状況を昭和63(1988)年の城北会誌第36号以来、欠かさず誌上報告しています。太田壽吉元城北会会長(昭4)も古くからの常連出席者ですし、賛助会員として参加している海兵出身の小田島哲哉元戸山高校校長(昭59〜63年在任)もそうした一人です。

 海軍兵学校のOBらが運営するホームページの一つによると、「海軍兵学校は兵科上級将校になるために絶対に通らなければならない学校であった。第二次世界大戦前は東京帝国大学以上のエリート校であったため、旧制高校合格者数で上位にあった東京府立などの各有名中学が上位合格者数を競うようになっていった。海兵に入るための予備校的な学校が全国に存在していた。」とあります。
 また、「海軍では石を投げれば四中に当たると言われるほど四中出身者が多かった。」と海兵OBの城北会員の話が城北会誌上で紹介されており、当時、海兵が世間でどう見られていたか、その中で四中生が健闘していた様子がうかがわれます。
 昨年21回目の例会を開いた城北NAVY会ですが、近年、同じ釜の仲間が年1回集い懐旧に浸り近況を交わすだけでは物足りない、若い世代の話にも輪を広げようとの声が強まり、母校卒の自衛隊出身・現役の人びとに呼び掛け、これまでに、昭28、昭35卒のOB(自衛隊出身)と平13卒のOG合わせて3名が城北NAVY会に入会しています。
 終戦時に、軍関係の資料は極力消滅させるよう指示されたため、海軍兵学校でも機密書類だけでなく、教科書の類も多くは焼却してしまいました。したがって、著者の品田毅さんも限られた入手資料を基に研究を続けることを余儀なくされており、関連資料またはそのコピーを保有する人の協力を求めているとのことです。


連絡・お問い合わせは城北会事務局へどうぞ。e-mail:johoku@toyamaob.org