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平瀬先生のお墓参りをしました

                                           吉沢弘久(昭29)

 昨年11月に卆寿を迎えられてすぐに亡くなられた平瀬志富先生が今年5月19日に、先生の後を追いかけるように3月11日に亡くなられた奥様とご一緒に青梅市の大多磨霊園のお墓に入られた、という知らせが6月2日に次女の平瀬まゆみさんから私に届きました。昭和29年卆で先生に担任をしていただいた2H、3Eの者が、11月24日の同期会の際に、卒寿の祝いに先生が新たに挑戦しようとおっしゃったデジタルカメラを贈る準備をしていましたのですが、その数日前から発熱されご入院、私ども誰もお会いできないまま、鬼籍に入ってしまわれました。このことは、城北会のホームページのお知らせ、便りの欄や城北会誌の今年号の「平瀬先生の思い出」(昭和29年卆・久世了君記)などのとおりです。

平瀬家の墓石前で
平瀬家の墓石前で
 ご葬儀も教会で身内だけで行われた(先生のご遺言だったのでしょう)ので、お別れもできなかった私たちだったので、卒寿のお祝いの呼びかけ人となった者・大矢晴彦、中村好正、野々瀬協子、福原真弓、山田義彦、横堀昭典、吉沢弘久(朝倉和子、山田義範は都合が悪く不参加)のもう1〜2年で後期高齢者になろうという面々が、さっそく6月29日(月)にお墓参りに出かけました。お墓は、大多磨霊園の28区25列5番というところで、多摩丘陵の小山の斜面を利用して大規模に造成された墓地の一番高い一角の上から5〜6列目にありました。当日は、申し合わせた青梅特快に東京、新宿、立川駅からそれぞれ乗り合わせ、前日の予報が外れ梅雨の合間の晴れた日となったのを「先生が歓迎してくださった」などと言い合って東青梅駅で下車しました。頼んでおいた霊園からのバス(土日休日は定時に動くので頼む必要はない)に乗って霊園内のお墓のそばまで連れて行ってもらいました。
平瀬家の墓石
平瀬家の墓石
 数日前にもお参りに来られた方があったようで、バスのドライバーも平瀬先生のお墓の場所を知っており、お墓には活き活きとした花が供えられてありました。1946年から1985年の40年間、われらが母校で教鞭をとられた先生は、深井財団にも多額の寄付をされたそうです。戸山高校と私たち教え子に心から愛情をお持ちだったのですね。お墓の前に先生の遺影を置いてしばし思い出話をしていると本当に先生がお傍にいらっしゃるという実感が湧いてきました。「二〇〇三年平瀬志富建之」と墓石の裏にありました。100人を越える文京かけはし合唱団のコーラスの最前列真ん中でさっそうと唱われていらした頃に作られていたのです。お墓から眺めると墓列が続く下方の先には緑の小山の広い間から平らな多摩の大地がゆっくり広がっていました。先生ご夫妻はここに眠られて天国を味わっておられる、などといいながら一同合掌をしました。「また来ます」そんな気持ちでお墓を後に、急坂を降りて霊園事務所先のバス停に向かったところです。
 「父にいただいたカメラで桜の花を撮ったりしております」と娘さんのお便りに記されておりました。
                                  (山田義彦撮影の写真をご覧ください)
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