先生列傳(1)藤村先生  四高時鐘 創刊号 1949年5月15日


1960年発行先生列伝小冊子

1951年卒業アルバム

「明日はNまでの書取りの試験をやる」とそれからは毎週やられた試験の最初の奴の宣告を承つて、小さな頭をアルファベットで一杯にしながら佐内坂を下つた。一年に入つて始めてきいたあだ名が藤村先生の「ブルさん」でその「ブルさん」からの先ず試験の宣告であった。「小文字では一段下がつて大文字では……」一生懸命になつた苦しさも五年前の(あゝおめおめとずい分ご厄介になりました)懐しい思い出である。

 先生はかの久松城を有する廣島縣e山の産、先生ご自身の辯によると平々凡々と十數年をお育ちになったそうで、人、カルピスにたとえるところの何やらの淡い味という奴も御經験無いさうな、しかしこれはそういう事が無いというのは吾人の經験によっても信じられないところで、失念されたか或いは恥しがられた(?)かどちらかであろうと確信せざるを得ない。とは云つても小學校時代には相當やられたようで、近人から再三ならずどなりこまれるのには父上大そうお困りになって「これは將來ろくなものにはなるまい、大方議員にでもなつて國民を困らす事だろう」と仰つしゃったとか仰つしゃらないとか、それが父上の期待を裏切つて今では最も模範的な教育者で僕等の尊敬すべき先生なのである。

 先生の英語は既に中學時代に一エポックを劃されていた、というのはお家の近くにサンデースクールの外人の住宅があつて暇があるとそこへ遊びに行かれていたそうで、四年の時にはロビンソン・クルーソーの原書を完讀され、次いでトルストイの「復活」の英譯にも手を伸ばされたりして、五年には歴史等の授業も英語で筆記して人を驚ろかしたというほどのものである。中學を出てから青雲の志を抱いて東京に遊ばれた先生は東京外語の英語科に三年間を過されるとすぐ、山梨の甲府中學に就任されたが星霜数數ならず、やがて吾が四中の教職に就かれたのである。

 以来歳月を經ること二十有余、それは先生の將來にとって貴重な多くの体驗と希望を生み出したのであつた。「過去の學校生活は生徒と教師の垣があまりにひどすぎた結果、極端に暗いものであったと、そして上級學校入學の目的の為無理が生徒の個性を如何に傷つけたかと指摘された。これが先生にとつて最大の教訓であつたのだ。

 静かに話される先生は「四高として為すことは澤山残つている、未だ校舍が出來上つたばかりで本當にはこれからだ、協力して新しい四高を作り出して行きたい、そして卒業してしまえばそれで終りとする學校でなくする事、卒業生會館等を作つてクラブの様なものにしていきたいものだ」と結ばれた。

 春の窓に面して僕と向き合つておられる先生はすでに初老(?)のおだやかな教育者であるが、じつと見つめている僕の目にはいつか、小さな城下町を馳けづり廻りながら近隣を困らせている可愛らしい顔に變わっていき、そして中學時代にはテニスの選手だったというたくましい顔にも變化していくのである。
(ながとり)

藤村久雄先生 英語 教頭 戸山高校在職 1923〜76



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