先生列傳(2)福島先生  四高時鐘 第2号 1949年6月2日


1960年発行先生列伝小冊子

2004年発行S29年卒業記念誌

 わたくしはダイシェンシェイの顔を、棒でなぐつた――といつても早合點するには及ばないのである。既に五年の昔、世は擧げてトウジョーさんの時代であつた。小學時代の經験もないわたくしは馴れないまヽに、竹刀を持たされて「エイヤツ」とやつていた。と、どうしたはずみか、わたくしのおつかなびつくりの剣先は、何ということもなく、畏怖おく能わないダイシェンシェイの御頭をかすつてしまったのであった。わたくしは今でもあの雨天体操場に悠然とそびえ立つていた、ダイシェンシェイの勇姿を、はつきりと思い出す事が出来るのである。

 ダイシェンシェイ、中學時代にはテニス、バスケツト、バレーの選手をやつてをられたんだそうで、剣道の方は中學を出てから十年程おやりになつたのだとか。剣道についてお伺いすると、「昔から、私が云つておるように、剣は勿論殺人のためであつてはならないのであつて、活人の剣であるべきだから今後もその意味での剣道というものはあり得る筈である」と先生は強調されるのであつた。

 戦争中には必然的に剣道に追いまわされ、漢文を教えられるということは殆どなかつたわけだが實に漢文における造けいには、剣道以上のものがあられたんで、ひそかに不遇をかこつたこともあつたとか。それが終戦後好きな漢文に専念出来るようになつたことは、剣道に對する、良い意味での愛惜は勿論あられるにしても先生にとつて樂しいことであろうし、先生生来の早口にまくし立てられて呆然と鉛筆をなめなめした經験はわたし共にとつても生涯忘れることの出来ない懐かしい思い出となるにちがいないと思うのである。

 先生の漢文を愛する心は、先生の物した雑誌新聞への幾つかの投書によつても吾々は片りんを見ることが出来るのであつて、先生のいわゆるジョンブリとした腹の坐りというものを養うにも漢文は必要であるとおつしやるのである。

 お子さんは十と七つのお二人で市ヶ谷小學校に通学されているお兄さんが「お前のお父さんは四中でとてもこわがられているんだろう」と先生から云われたという話もある。「奥さまの事は?」とお聞きすると例の調子でお笑いになつて「云う事を聞くようだから、甘くもしてないが、叱りもせんよ、映画畫に行く時も子供だけで家内は連れて行かんことにしている」わたくしは内心で(いや先生みたいな方が得てして奥さんなどにおやさしいもんですがね)と答えたことであつた。

 下らないことをベチヤベチヤ書いて来たけれどわたくしは最後に先生から受けた生涯忘れることのできない教訓というものを先生の純粋さという點に於て強調して結ぼうと思うのである。

 わたくしは憲法大會のテニス試合中に負傷されたという足をひきづりながら歩いて行かれる先生の後姿をつくづく眺めたことであつた。

福島正義先生 国語 戸山高校在職 1943〜66



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