先生列傳(3)中内先生  四高時鐘 第3号 1949年8月15日


1942年卒業アルバム

1951年卒業アルバム

 私は一度先生の海水着姿を見た事があります。しかし先生の泳ぎ姿は絶えて見る事が出来なかつた。私が一年生の時でしたろう。先生は黒い海水着を着て私どもが泳いでいるプールに出て来られた。おもむろに水をかぶつておられたがさて水に入らない。或いは泳がれたのを私が記憶をかいているのかも知れないがしかし、私の頭にはどうしても先生の泳ぎ姿は浮かんで来ないのである。そういえば鈴木先生が泳いでいるのも(この方は水着を着てをられるのも)私は見た事がない。二人とも体操の先生でありながらどうした事であろうとよく考えたものでした。ナカウチ先生と云つては「ナツトー」と云わなくては話が通じない。ナカウチ先生といわれると少時考えこまなくては、ならないから困ると或る生徒がつくづく述懐して居たが、その「ナツトー」たる言葉は先生が熊本から赴任して来られた早々つけられたアダ名だそうで、先生自身の辯によると、先生は良く何かにつけて「ナツトラン」「ナツトラン」と生徒を叱った。その「ナツト」がそのまま、「ナツトー」となつたんで、他の意味(…云々[二三ありますが])は、あとで勝手につけた解釋であるそうな。

 先生は熊本市から約六里離れた阿蘇山の中腹の山村に生れました。秀才で小學校を出るとすぐに出身校の先生をさせられる程であった。それから師範學校を出、熊本の市立女學校に赴任して數年やがて上京日大に入學された。「今から思うと故郷の學校に何年もいた事がつくづく残念で、早く東京に出ていたらと思われてね」先生はいわれる。ご家庭は至極平凡(とけんそんされて)「子供は一人は中央大學、一人は小學校の三年だが二人とも野球がすきでね。マージャンなんかもするらしいですよ。しつけが悪いもんだから」そしてしんみりと「今のうちの生徒は知識、智能的には相對的に相當な地位にあるんだろうが体力、態度のレベルが下がつていることが心痛の種ですよ、これは私のほんとうの苦痛だ。運動でも東京中に四高ありといわれる位に、もう少し頑張つてもらいたいものです」……こういう話になると、先生の言葉はえんえんと續いて来ます。永い四中生活に養われた經験は私共も良く謹聴すべきではないかと思う。ところでまことに恐れ入りますが字數が足りないために、先生のお話のほんの一部しかお傅え出来ないのは、私のもつともいかんに思うところである。(ながとり)

中内辰熊先生 保健体育 戸山高校在職 1923〜52



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