先生列伝(16)平賀先生  戸山高校新聞 第24号 1952年6月29日
 「多趣味な老学究」


1952年卒業アルバム

1956年卒業アルバム

1968年卒業アルバム

 平賀幸五郎先生、新潟県南蒲原郡今町の産。今町というのは越後平野の南西方にある町である。先生の発音にやや越後系らしきものがあるのは、そのせいかも知れぬ。僕達がこの学校に入つて最初に先生から一茶の「父のみとり日記」をならつたのだが、その時先生が江戸をイドと発音されるのが妙に印象的だつた。

 さて、先生御兄弟は男四人、女二人、そのうちの男の一番末だつたので、生れて一年ほどで北海道の叔父さんの跡取りとされて、エルムの梢を仰ぐべき彼の地へ行かれた。

 少年時代は旭川中学ですごされたという。「中学時代は成績は余り良くなかつたが、極めておとなしい、真面目な生徒だつたよ」と話される。後者においては現在も同様のようだ。

 高等学校は学習院をこえておとなりの早稲田第一高等学院、そして早大文科へ進まれた。

 「最初は政経へ行く心算だつたが、何しろ当時は就職困難の時代だつたんでね(お年が知れますよ)」というのが文科へ進まれた理由。先生の学生時代のお話は本紙十三号に書いていただいたことがあるので、御存知の方もあるはず。

 「若い時から、文学青年のもつ欠点はなかつたね。僕の文学趣味は極めて客観的なものだつた。甘さもなかつたし。写真や絵画にも興味を持つていた。でも文学一辺倒にもならなかつた」本校の文学班は「多分に文学青年的で軽蔑対象になるのよ」との言。

 先生にはお子様が五人あつて上のお嬢さんは今春豊多摩高へ入られた由。高校生の恋愛についてと話を向ければ(この辺苦しい結びつけである)「僕はそのようなことを論ずるには適しないし、その人達自身の問題でわれわれがどうこうするべきじやないと思うね。行過ぎないようにすることだが高校生活の中にそういうことが入つてもいいね。」

 また高校生の政治活動は「行動が政治的活動とみるのは事を外からみているか内からみているかの問題で行動している人を外側からみているのでその人の一生については別問題。」とのこと。

 戸山高は「世間一般に秀才として遇されてきただけに危険があり世間に順応せねばならぬので苦しい場合があるが、反対に秀才として何でも許されるという特権意識があり自分の生活の厳しさを失いがちである。クラブ活動も勉強に身が入らなくなるようでは将来大きなマイナスになる。」

 先生はかつてはアララギ会員記紀万葉の和歌に興味をもつて研究され、以前は洋画、最近は日本の絵画、彫刻を文化史的流れとして文学とともに研究されていられる。「雀」というあだなが一体どこから出てきたか不可解だが、先生御自身の言にもあるとおり「真面目でおとなしい老学究」というのが一番当つているようだ。しかし、一昨夏、四谷分校の運動場で開かれた、校舎復興案の審議会で木造急築案をおした先生が鉄筋案の福島先生と校長先生をはさんで大論争された先生とは思えないほど静かな先生である。(宮川浩二)

平賀幸五郎先生 国語 戸山高校在職 1943〜72


連絡・お問い合わせは城北会事務局へどうぞ。e-mail:johoku@toyamaob.org