先生列傳(19)佐藤先生  戸山高校新聞 第27号 1952年12月2日
 「御自慢のカメラと盆栽」


1965年発行先生列伝小冊子

1956年卒業アルバム

1952年卒業アルバム

 何か改つて話をされる時、先ず生徒をぐるり見渡してからおもむろに口のまわりを浄めつつニヤリ、ニヤリ。先生の愛称は極めて単純な理由に基く。その円い顔の様に誠に円満至極である。

 だがこう形容しただけでは納得のゆかぬ諸君も多々おありの事。それも御尤も。先生は、本校屈指の列伝記者泣かせの曲者だからである。

 十余年の九中(現北園高)生活から本校へ御着任になられたのが昭和廿一年、際疾いながら四中、四高、戸山高三代にわたつて御歴任のツワモノという事になる。大正十年故郷の長野を後に御上京、物理学校を卒業されてから陸軍技術学校を振り出しに“先生商売”に入られた、いささか変り種である。そのため物理学校時代はもつぱら電気を専攻された。(成る程書斉には数学の書に混つて「照明論及照明法」とかいう、古びた背表紙も同居していた)こんな所が単に「解析」と「幾何」の尺度で先生を測れぬ原因である。

 因みにもう少し書斉の披露に及ぶならば、あるわあるわ各種の書物。「数学」や「旺文社」一色と思つたりしたら誠に申し訳ない話だ。「社会思想史」「西洋哲学考」「ダイヤモンド」写真、書道、俳句関係の書、その他横文字に到る迄が実に賑やかに雑居している。これぞ“曲者”の由来に違いあるまい。然もその一冊一冊が決してツン読書ではないらしい。王義之の名筆の掛軸を掘り出して来られたり「呆山」なる俳号をもつておられたり。目まぐるしい程の趣味内容に驚かされる。

 趣味といえば山歩きと写真はいう迄もないが、他にトランプ、将棋、文楽、それに蘭栽培等は中々渋い所だ。御説によれば「今の学生諸君は本当に心から楽しむ事に、欠けているらしい」そうだ。そうしてこうした事を何もかも明けすけに語られる個人としての佐藤忠氏は、職員室での威圧等全く感ぜられぬ一介の市民である。

 凡そこれ程生徒間の内情に通じておられる先生はあるまい。諸君のプライヴエイトの秘密のいくつかは、ちやんとあの胸に収まつているのだという事、果して諸君は御存知だろうか。どんな情報網が伝えるのか。先ず以て謎の一つである。然し、それを知つていられながら黙して他に語らずという辺り、“教師”の職権を売物にせぬ誠にさばけた腕前である。あんな事が某先生にでも知られて見給え。不幸中の幸いなる哉。

 要するに、他人を不快にせぬ事がどんなに重要であるか、先生は良く知つておられる。だからこそ返事の大半は賛意の合槌、廿世紀的ソフイストの感がある。現実的外交手腕から世の中の原則を見出す数学者は、蓋し今世紀の特産物かもしれない。

 当世まれなフオーテイーエイジヤーの坊主頭に話を向けるとしきりと弁明に努められる。曰く「支那事変以前の房々した黒髪を忘れて呉れるな」と。附言すれば灰髪の翁、再び櫛を手にする時期も近ずいたそうな。それから、返らぬ黒髪時代を懐古して、二つの特許権獲得と、工夫発明懸賞一等当選の想いでをさすが赤ら顔にちよつぴり語られた。

 恐らくは一生を、市民的数学者として送られようとする先生は、土いぢりへの淡い夢の他には、唯、われわれに数学への親しみを植えつけたいという希いを抱いて、今日もまた「ニヤサン」と呼ばれているのである。諸君。先生がその目的を果たされん事を一緒に祈ろうではないか。(一)

佐藤忠先生 数学 戸山高校在職 1946〜70 


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