先生列傳(22)川口先生 戸山高校新聞 第30号 1953年5月15日
 「まだまだこれからだよ」


1960年発行先生列伝小冊子

1956年卒業アルバム

 “受験という名の急行列車”が慌しく往来する戸山高校に只一人、東都市川からワラジ掛けで絵具箱を肩にかけ悠々と通勤する芸術家、言う迄もない我等の川口忠夫先生である。かの哲人ソクラテスを思わせる風貌からは一種の“神秘”が感じられる。「よせやい神秘だなんて」と先生は言われるかも知れない。そうだ、人間味あふるる我が川口先生に“神秘”などと飛んでもない事を言つてしまつた。先生は明治三十七年日露戦争酣わの頃牛込で呱々の声をあげたチャキチャキの江戸つ子。昭和八年伊賀上野を振り出しに中学校(高等学校)の図画教師をする事前後二十年、本校には終戦の年の四月に来られた。「もうそろそろ恩給がつく頃なんだなあ」としみじみ窓外の風景に目をやられた。
 中学卒業直後胸を病まれ数年の闘病生活を過されてから健康には人一倍留意された由。「この時からなんだよ。僕がマジメでカタクなつたと言われ出したのは。」と照れくさそうにモジャモジャの頭をかきあげられる。

 芸術家としての道徳律と普通人の道徳律のギヤツプについては深く考えて居られる。「芸術家はねえ兎角個人的で自己を対象とするから世間の人から奇人に見られ易いんだが」と語る先生には不規則な生活の御経験もない学生時代には受験、社会に出てからは教員生活で追われ「まだ仕事をいう程のものはしていない」由。もつぱら夜は人体画の研究にいそしんでいられる。「人間六十にならなくちやいい絵はかけないよ」と大層悟り切つた表情である。

 「ここも四中時代とは随分かわつたなア、昔は教室に入ると一斉にサツと立上がり幼年学校みたいだつたものね。それがいいと言うんじやないが、何しろ“民主的”になつたからね」ここでニヤリと苦笑される。かの特異な風貌はさぞかし多くのアダ名を……と水を向けると「そうだね、この頭でライオン。ズン胴だもんでマツチなんて言うのをもらつたが、どうせならセンスのあるのを頼むよ」とはつきりしていらつしやる。

 「若い時には身体を大事にしなさいよ」といわれる先生は心配そうに胸を病める一生徒の住所に目を落された。人間ソクラテスは今もなお我等の身近にある。(青)

川口忠夫先生 美術 戸山高校在職 1945〜68


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