先生列傳(23)守屋先生 戸山高校新聞 第31号 1953年6月30日
 「銃声よりデカイつて?」


1943年卒業アルバム

1956年卒業アルバム

 先だつて一寸聴いた話だが、例の銃声問題がやかましかつた頃各教室の後に測定器を置いて授業中にあの銃声のやかましさを測定した処実に意外な結果が出てしまつたと云うのである。と言うのは銃声の騒音度七十数ホンにして、守屋先生の騒音度(失礼!)八十数ホンと測定器の針は示した。この話を一寸先生にしてみたら、いや、あの数字は極く瞬間のものなんだが、いや、しかし、私の声は確かに大きいのであつて他の教室に迷惑のかからぬように気を付けるのだが、どう云うものか自然と又大きくなつてしまうんだね。との物堅いお答えであつた。大きいのは地声と云う処であろう。

 初夏の午下り、授業が始つてがらんと静まりかえつた廊下を通して遠くの教室から聞えて来る講義の声なんぞは僕にとつて可成り懐かしく感傷を誘うものなのだが。――しかし、そう云われれば、聞えて来る声は大概福島先生か守屋先生の声であつたような気もして来るのである。

 先生、故里は甲府、中学校では英語を藤村先生に習われたそうな。藤村先生の物腰、話し方等は昔も今も余り変つては居られない由。想像して見たまえ、その光景を。当時の青年教師ミスター藤村は心持首をかしげ左上方に視線を向け、左手の拇指を胴着のポツケに掛け右手には多分ナショナルリーダーか何かを持たれて「ハイツ。お前ツ……。」と襟詰姿の守屋先生を当てたかも知れない。指された守屋先生の中学生は、眼を輝がやかせて、前の晩に予習して来た箇処を相当の早口で答えられたかも知れない。三十年昔のことである。その後先生は民間人の子弟としては第二回目の生徒として学習院に入学された。今は先生のどこにも学習院出身らしい処は見られないけれども。それから東大の中国文学科に進まれた。当時は作家になろうと思つて居られ、大学時代同人雑誌にもいくつか関係された由。大学では老いらくの恋の塩谷博士に師事されて唐代の抒情詩を専攻。しかし自分の才能その他から考えて作家にはならず教員生活に入られた。

 「しかし先生と云う職業は入つて見るとわるいものじやない。なんて云うかね、嘘をつかないで済むからね。」嘘を殆んど必要とせぬ職業。僕は他の先生からもこれと同じ述懐を聞いた事がある。水戸の中学校、静岡の中学校、先生が吾等の戸山高(当時の府立四中)に来られたのは昭和十七年のことである。もう十一年になる。十一年の四中の変遷に就いて何か気のつかれたことを、と聞けば、それはえゝとと長考される。一口ではそんなこと云えないと云う表情である。しかしこの学校は非常に紳士的(先生も生徒も)であると最近とくに感じられる由。男女共学になつた為もあるのだろう。共学と云えば先生はほんの一寸ではあるが、これが苦手との事。若い先生のように気軽に女生徒の肩を叩いたりは到底出来ないそうである。吉田松陰の話、散歩と孤独の話、親孝行の話等、興味ある話を伺つたのだが、枚数が盡きた。読者諸兄は人生の最も不可解な時期に居られる。先生も人間である。諸君が遠慮なく聞けば有益な話はいくらでもして下さるだろう。(おがわ)

守屋禎次先生 国語 教頭 戸山高校在職 1942〜62


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