先生列傳(32)平瀬先生 戸山高校新聞 第41号 1954年11月6日
 「音楽と劍道と」


1960年発行先生列伝小冊子

1956年卒業アルバム


 「カメラに関する限りアプレゲールです」と先生はおつしやる。
御自慢のカメラを肩にした先生を見馴れている我々にはちよつと意外だが、「本当にカメラをいぢり始めたのは二年程前から」とのことカメラ以前の先生の御趣味は驚くべきほど多方面にわたつているのである。大正七年呱々の声をあげてから、少年時代を長野市で過され、豊島師範で五ケ年間寮生活を送られたが、その間にあらゆる範囲の趣味が“芽生えた”とおつしやる。剣道三段として校内外に活躍される一方、学芸会等ではピアノ独奏をやつて拍手をあび「剣道の平瀬」「音楽の平瀬」として知られた由。師範を終えられて短期現役兵として海軍に半年。そして小学校の教師になられたのが先生業の第一歩。その頃はバレーをおやりになり、生徒を指揮して大会に優勝させたり、自らも教員チームで活躍されたそうだ。師範学校の終り頃、物理学の整然たる体系にあこがれて現在の道に進まれ終戦後四高時代の本校の教壇をふまれたという。

 本校での教師生活も大部長いのにニツクネームがないのは不思議とお聞きすると「実は―着任の年に『カエル』とつけられたんだがね」と楽しそうに笑われた。なんでも作用反作用の実験の際、天秤の上で蛙が跳んだらどうなるかという話をされたところから起因しているとか。先生がどんな顔でその話をされたかは想像だけに留めて今ニツクネームがないのは寂しいですねと問うと、「いやあ、そうでもないがセンスのあるのが欲しいね。『ガンマ』なんてなかなか素敵じやないか。 『ニヤ』『カツパ』なんていうのは可哀想だよ」との返事。つまり先生はセンスあるニツクネームで呼ばれるのを心待ちしていらつしやるのである。

 この十一月一日に三十六回の御誕生日を迎えられた先生にはまだまだ我々との年令の差などは感ぜられない。我々がしばしば感ずる「オトナの世界の悪い面」はこと平瀬先生に関する限り見られないのである。だから想像するに先生はお世辞は下手だろうし、先生にお世辞をいつても通用しないだろう。それだからこそ先生は自分を他人に隠すことなく、ブチまけることが出来るのである。得意そうな顔から「実は私が―」といつた例の調子がでてくる所以である。「本校生は昔からの伝統たる質素にして、よく勉強するというよい点は失われていないし、共学にしても理想的とはいえないが紳士的なつき合いは気持がよい」とおつしやる反面「最近生徒会と教員が対立的なのは正常でない。又生徒も秀才的人間の通例たる冷さを持つてはいないだろうか。全体にほがらかさに欠けている。歌でもうたつてほがらかな気持を持つことが大事じやないかな」と批判はなかなか鋭い。遠足の電車の中で、大声で歌をうたつて一般客や他のクラスの人達の目をパチパチさせたりするのもこの御説の実践なのだろう。家庭では二女のよきパパである。(F)

平瀬志富先生 物理 戸山高校在職 1946〜85



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