先生列伝(40)岩崎先生 戸山高校新聞 第50号 1956年2月16日
「黒板うめのチャンピオン」


1960年発行先生列伝小冊子

1956年卒業アルバム

1968年卒業アルバム


  五色のチョークを使いわけ
  黒板一杯、文字を書く
  大きなめがね通しつつ
  教科書近つけのぞき込む
  ベルの鳴るのもかまわずに
  岩崎さんは講義する

 本紙は今号で紙令50号をむかえた。そこで今回の先生列伝は当年とつて50歳、紙令と年齢が“共通根”をもつた数学の岩崎先生をたずねる事にした。

岩崎先生といえば黒板に字を書く事に関する戸山高校のチヤンピオンである。黒板をうめる事一時間に四回、計算はもちろん教科書全部を写し取つてしまうような勢いである。

先生の授業は重要な部分は三回ぐらいも説明してくださる。最初の時間はねむり、次の時間に聞き、三度目のノートをとつても事足りるしかけになつているのである。

我々が問題が解けない時でも、「残念ですナ」「もうちよつとだのにねー」といつも励まして下さる。先生の怒つた顔は一度も見た事がない。戸山高校の福の神である。

「君達の心は澄み切っている。全く汚れがない。僕は君達と赤裸々な気持で本当に魂と魂をふれ合せて話し合う時が一番うれしいね。そういう時に本当の生きがいを感じるね」先生は目を輝かして話された。ここで話題を変えて先生のおいたちを話していただく事にした「僕は沖縄の生れでね、学生時代は仙台、そこで東北大を出て台湾に渡つた、そして終戦後に東京というわけだよ(渡り鳥みたいですナ)」

「最初は外交官になるつもりだつたんだが父に『お前は気が弱いからだめだ』といわれて数学の系統に入つたのだよ。もちろん数学は最初から好きだつたがね」

「学生時代は試験も今ほどではなかつたから何でもやつたよ。読書。スポーツでは水泳、アイスホツケー、野球などね」もつとも野球は一番球の来ないライトを守つたというから打順の方も81の平方根(もちろん正の方ですぞ)ぐらいだつたかもしれない。

「僕のいた頃の東北大の学長は本多光太郎先生だつた、台湾では台中一中(台中は地名)に就職したんだがその時の校長が下村湖人先生だつた。意志の強い良い先生だつたね」「戸山へ来たのは23年、台湾の生徒と分れる時はつらかつたね、東京の生徒と同じように良い生徒だつた・・」

想い出にふける様に目を閉じて語られた。当時の先生も今の先生と同じように良い先生だつたにちがいない。
「月を見ると昔の事を色々思い出すね、台湾で見る月も東京で見る月も同じだと思うと何だか妙な気がするよ。」
先生は月を見るとオセンチになるらしい。

「結婚?僕は台湾の大学の研究室に入つていたのであまり必要がなかつたのでおそかつたね、今、一番上の子が小学校六年だもの」

方程式を解くのに夢中で結婚式を解くのがおくれたらしい。先生のお子さんは三人とも女の子との事である。
「趣味は釣だね、いや、あまり釣れないけどあの静かな雰囲気が好きだ。釣るのはフナかハゼ。釣れても帰りにその辺の子供にやつてしまうから家へは何も持つて帰らない。うちの子など箱についているウロコを見てなるほど釣れたらしいなんていつている。」(求・ウロコ----岩崎)

「あとはラジオ、三つの歌なんか好きだよ。相撲もいいね。僕は朝汐が好きだ。」と思わずニツコリされた。

先生にもアダ名があつた。“カラス”というのがそれである。ある先輩が言うには色が黒いせいであるという。しかし最近では我々は先生を“岩崎さん”と呼ぶのである。岩崎さんにはアダ名は適さない。岩崎さんと呼ぶ方がもつと親しみが増すのである。我々も何か悩み事があれば「おじいちやーん」といつてふところに飛び込んで行きたいような愛すべきオジイチヤンなのである。

先生は心身いたつて健康、これから永く先生の名講義は黒板一杯くりひろげられるであろう。                              (F)

岩崎英勇先生 数学 戸山高校在職 1948〜69



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