ある土曜日の午後の職員室、湯飲み茶碗を手にされた先生がはいって来られた。紺の背広姿の先生は、静かな雰囲気を漂わせていらっしゃる。
大正六年、北海道のお生まれで、旧制盛岡中学校(現在の盛岡一高)で学ばれた。
「今年の甲子園での盛岡一高の応援団にもありましたが、羽織はかまにたすきがけ、という服装でした」。
こう語られる先生の目は輝く。先生も蛮カラな中学生だったのかも知れない。しかし棒高飛びで大ケガをされたのがこの中学時代。強く打ったために背骨が彎曲してしまった脊椎病だとか。そのころの医学では治療できないほどだったそうだ。
「寝たままの不自由な療養生活でしたが、本はたくさん読みました。でも、ほんとうの青春が私にはありませんでした。寝たっきりでしたからね」。
金沢の旧制高校を五年かかって卒業、東大国文科へ進まれた。
「当時は戦争中のことでしょう。私は病気で出征しなかったのですが、私の友人はどんどん死んでいく、・・・・・」。
「高校、大学を通じていえることは、いつでも死地に赴く覚悟が自分にあるかどうかを考えていたということです。その考えの上に日常茶飯事が行われていたということは事実です。私がそういうおとなの一人であることは否定できません。ですから皆さんの現在を心から祝福する気持ちが人一倍強いのですが・・・・」
病気が完全に回復したのは三十五歳のころ。田園調布高校へ勤められて、社会人としての第一歩を踏み出された。
そこで教鞭をとられること十七年、戸山へ来られたのはつい昨年のことである。
「学生時代がそんな生活でしたので、これからが青春なのだと思っています。また、私が青春時代にできなかったこと、それを皆さんにやってもらいたいですね」。
こう語られる先生には、なるほど若さがある。お年より若く見えるのではないかな。
「趣味ですか。そうですねエ。本を読んで、上等なウイスキーかコーヒーを飲んでいれば満足ですね。それから、化学薬品のあまりはいっていないタバコなんかも」。
笑いながらこう語られる先生に、こちらもつられて笑い出す。めがねの奥の目はいつも優しい。
一年間戸山で教えられて感じられたことは、
「全体的に意気込みがたりないんじゃないですか。もっと自分を観察し、更に周囲を見つめて、自分が引っぱって行くのだ、という気を持ってほしいですね。周囲に同化するだけではいけない」。
また戸山の自治活動をこう評される。
「戸山は他校に比べると自治活動は自由ですね」。
「言論の自由は認められているが、その上に『あぐら』をかいている、という感がありますね。それに、他がやっているから自分の方も、と考えるのは良くないと思います。不満を持つことは大切だが、それを早急に良くしようというのは考えものですね。また良くしていくためには、何をやっても構わないと考えているんじゃないですか」。
意外に厳しいことばが返ってきて少々驚いた。しかし最後にこう話された。
「これらのことは、私の経験からいえることです。まあ『おとな』というのは、今までの自分の経験から『こども』にこうしてやりたい、と思っているものですよ。それが『おとな』と『こども』の違いだと思いますね」。
優しく、かつ厳しい先生である。
(リュウ)
菊池 卓夫 先生 国語 戸山高校在職 1967〜80