終戦直後の風雪に耐えた名門校
昭和27 森 拓三第一章 集団疎開から帰京〜中学受験
首都荒廃の明暗
二度の大空襲をはじめ度重なる空爆に見舞われて焦土化した東京都心の疲弊度は恐らく今では想像もつかないだろう。
終戦の日から約2か月後、10月20日深夜に学童集団疎開先の福島県南部から郡山経由で帰京途中に子どもが目にしたあの異様な光景。東北線を南下する特別列車が埼玉県にはいると、車窓の眼に飛び込んでくる木という木は緑の葉や小枝がない。枝分かれした幹は裸で真っ黒焦げだ。住まいがあったところだろう、瓦礫がところどころ固まって集められている。板やトタンなどを使った小屋が点在する。バラックと称する奴だ。
大宮に近づくにつれ、その広がりは酷くなった。現在高層ビルが林立する赤羽も惨憺たる灰色の街、ここでループの省線に乗り換え学校のある目黒駅にたどり着いた。権之助坂をくだり下目黒を通って学校へ着いたときはほっとした。学校の校舎がすすけてはいるが、そのまま残っているのだ。
父兄が迎えに来ているし一刻も早く家に帰さなければという配慮があったのだろう。鈴木校長、礒野担任の簡単なあいさつで流れ解散となり、迎えの母と、確か妹と一緒に急な坂を一段目、二段目とあえぎながら上り、茶屋坂に接する小道に到達。目前の海軍技術研究所(当時すでにエビス・キャンプ、後の防衛研究所)は緑がそのままで変わっていない。ほっとしたのも束の間、首を右に回して研究所の北側を見た途端、あの帰京列車で見たまさに同じ姿を見た。わが目黒区の住まいに接してこぢんまりと並んでいた渋谷区長谷戸(ながやど)の住宅街が瓦礫の平地に化けていた。ところどころバラックあり、風呂用だろう石油ドラム缶が並ぶ。むき出しの水道管の先が潰れて噴水を撒いている風景も見られる。
長谷戸(ながやど)の角から80メートルも離れていないわが借家(目黒区三田195)は昔のままだった。当時の母親の話を思い出すと必死の防火作業を続けるうちに風向きが変わり、幅4メートルほどの道路が延焼を防いだということだった。省線(現在の山手線)の外側は当時は郊外、悪く言えば都会の田舎だったが、海軍技研の北、長谷戸にカルピスの工場があって爆撃の標的となり、道と神の采配(天然現象)で明暗をわけた。
激しかった敵機の空爆から我が家と校舎はよくぞ逃れたが、東京の住宅の殆どは木造建築で、それを狙った焼夷弾攻撃で都心の大部分の木造の家という家は焼き尽くされてしまった。勿論、都心にあった学校の校舎も攻撃対象の例外ではなかった。お堀の北、市ヶ谷区加賀町にあった東京都立第四中学校・四中の校舎も戦火の犠牲となった。実はこの降って湧いたような災難が名門校初の試練となった。付け加えれば、復興途上にある戦後まもなく、また、出来上がって使用をはじめた改造校舎が焼失するという憂き目に遭った。余程、四中は火難の相があるとみえる。校舎がなければ廃校という事態は当然起こってくる。名門校とて例外ではなかった。四中、四高、戸山高の生徒は二度も廃校の話に悩まされるのである。
待っていた中学受験
終戦からおよそ2か月経って学童集団疎開から帰って私は、休む暇もなく中学受験の準備を始めた。いや、始めざるを得なかった。首都は都心や住宅地とも煤けたコンクリートのビルが点在しているが、広大な焼け野原で、特に上野駅のガード下には身寄りをなくした子どもが大勢いると聞かされた。近くに闇市(のちのアメ横)があったが、行けば‘身ぐるみ剥がれるぞ’と家族に警告を受け、行かずじまいだった。孤児ばかりではなく、焼け残った山の手のわが周辺の子ども心も荒んでいた。かっぱらい、喧嘩なんかはしょっちゅうで、世の中、極度に人身荒廃。ちんぴら暴力団が組織され、金の巻き上げ、制裁ビンタの光景はあちこちで見られた。気の小さい僕は、なるべく関わりのないように柳のように避け回ったが、一回捕まってしまった。来い、と言われて行くのが遅く、ビンタ三発食らった。
しかし、荒れるばかりではなかった。格好よすぎると思われるが、やがて子ども心に“これでいいのか、日本”という気持が芽生える。新聞を読むのは苦手、親父や家族からのまた聞きで“日本は四島(4等)国”、とか“これからは貿易立国だ”といった会話を耳にする。な〜るほど、子ども心にぐさっとくる。これからは‘おいら’が国造り。11歳のガキが偉そうに・・・。
学童集団疎開で親離れと根性を培ったせいだろう、戦争に負けた大人たちの不甲斐なさをつぶさに見るにつけ、真剣に考えていた。
世の中である程度の活躍をする、それにはしっかりした知識を蓄え腕を磨かねば・・・。終戦を受けてむらむらと向学心が燃え上がってきた。
都心の書店で受験本漁り
疎開先から帰って半月も立たずに受験準備を始めた。11月に入り、外は冬の気配が忍び込んでいた。物資欠乏、特に丸坊主の東京の都心やその周辺は極端に酷かった。薄着のままだし、すきっ腹、寒さはひときわ身にこたえる。しかし、栄養失調一歩手前の集団疎開の末期よりはまだましだ。体が応えてくれた。受験勉強といっても適当な教材がない。あるのは教科書程度、兄や姉(母方の伯父の養女となる)が残した参考書があったかどうか、記憶にはない。最低限の教材は必要だ。早速、仕入れに出かけた。
行き先は本屋街・神保町
目指すは東京・神田神保町の本屋街。交通手段は勿論省線だ。住んでいた目黒の三田は恵比寿と目黒の駅のちょうど二等辺三角形の頂点にあった。同伴したのは縁故疎開から帰ってきた近くの関野君だったと思う。関野君の家は我が家よりやや北側だった。彼のところに寄り歩いて恵比寿駅から電車に乗った。代々木経由で水道橋に。降り立った駅周辺の戦火の爪痕は酷かった。この調子じゃ本屋もなくなっているのではないか、不安にかられながら駅を南に歩き出した。
10分ほどでついた神保町の交差点。斜め左前を見渡すと、以前に見た光景がそのまま残っている。ホッとした。神保町の書店街は健全だった。書店の店先を流し目で見ながら駿河台下の三省堂に行き着いた。中に入る。店内は、戦後間もないというのに結構本が並んでいる。ただし、多くは小豆色の仙花紙(せんかし)を使っていていかにも安物っぽい。参考書らしいコーナーをやっとのことで見つけたが、今度は何を買っていいか分からない。また、持ってきた小銭の制約もある。準備不足で駆けだしたのがあだと反省。結局、勉強の基本、読み、書き、算数のうち不足していそうな算数の補強と中学受験で必須といわれた漢字1500語を覚えるためそれぞれ1冊ずつ、計2冊を買って、もと来た道を逆回りで帰った。
神保町とご縁となった戦中帰国(1)
何故、目黒の田舎者?が直行出来たのか。疑問に思われるだろう。それには訳があった。大連生まれの僕は、去ること昭和19年1月に東京に転入した。親父の単身赴任の解消と敗血症にかかり白子の陸軍病院(現埼玉・和光市)で療養している兄を側で見守るというのがその理由だった。ご存じだろうが、大連は関東州にあって日本が支配する領土で満州国ではない。いわゆる戦後の引揚者ではないが、貨物船などはいつ潜水艦にやられるかも知れないというので、物のほとんどは残しての転居だ。当時、戦争に負けて日本が大連を失うとは誰も予測できなかったから、また、帰ってこれるという安易な気持も多少はあった。惨めな体験をした戦後の引揚者よりは確かにましだったかもしれないが、着の身着のまま、裸一貫に近い内地移住だった。それに昭和19年前後になると、大連からの内地への船旅に命の保障はなかった。
当時、大連と内地との船便は二つ。いずれも船旅で一つは大連と門司を経て神戸を結ぶ日満航路、もう一つは陸路を使い釜山と下関を結ぶ関釜(かんぷ)連絡船だった。しかし、内地への旅は既に危険をはらんでいた。出発する数か月前に関釜連絡船がアメリカ海軍の潜水艦に撃沈されていた。このため、関釜連絡船での旅は短いが、より安全というので日満航路を選ぶことになった。父親が決めた。だが、黄海を突っ切るこのルートも決して安全とは言えない。平時は3日程度で神戸に着いたが、潜水艦の襲撃を避けて朝鮮半島の沿岸ギリギリに航行し、5日間ほどかかるという。父親は‘運が悪ければやられるぞ’と家族に覚悟のほどを話した。それなら内地に行かない方がいいといったら、殴られた。その親父は“家”を大事にしていて、故郷・三重県での本家の再興を図る。それも帰国のねらいのひとつだった。本人の内地永住が最もいいが、たとえ僕と妹含め4人が消えても東京近郊で療養している兄が快方に向かっているので彼が家督を相続出来るという感覚だった。親父は帰国を決断、年が明けてまもなく一家4人は大連を離れた。船は5000トン級の貨客船で、大連丸といった。船酔いして食べ物を吐き出す毎日、毎日、その傍ら救命道具の着用訓練をしながらようやく門司経由で神戸に辿り着いた。三宮(さんのみや)のホテルに3日ほどいて夜行で上京した。無事内地入りを果たしたが、僕らが乗船した大連丸が日満航路の最後の便となった、と親父から聞いた。あとで思えば、の話だが、命からがらに近い脱出劇だったといえるのではないだろうか。
神保町とご縁となった戦中帰国(2)
遂に東京の土を踏んだ。大連にいるときから遠く憧れていたもの、それは東京の省線に乗ることだった。遂にそれが実現したのである。東京駅から省線(山手線)に乗った。チンチン電車しか見たことがないこれまでとは違い、長蛇の車両の列。車窓から目に入る都会の光景も広大で全てにわたりスケールが桁外れに大きい。降りる巣鴨駅までアッという間に過ぎた。
親父が事務所の開設準備で住んでいた巣鴨駅近くの駕籠町(小石川区、今の文京区千石)の宿は手狭で、宿主の兄が営む木賃宿に移った。都電で一本道の壱岐坂下近くの本郷区(今の文京区)元町にあった。その転居によって4年生の3学期は元町国民学校にお世話になる。不思議な巡り合わせだが、同じクラスのガキ大将だった松田保彦君と、のちに四中で再会することになった。また、あとで知ったことだが、橋口博二氏が一級上に在籍していたという。
元町は中央線(現総武線)の水道橋駅の近く、線路の北側、大きな道を挟んで右側・お茶の水駅寄りの小高い坂の中腹にあった。道の向こう側は後楽園球場があり、道のど真ん中、植え込みには広告だろう、『アデカ石鹸』と巨大文字で飾られた猛烈に高い鉄塔が立っていた。
元町の木賃宿には金栄荘という大きな看板が架かっていた。当時、高森さんという作家や水道橋際の東京歯科に通う台湾出身の東(あずま)さんという学生さんが金栄荘を定宿にしていて、妹とともに可愛がってくれた。その2人は時々水道橋から神保町の本屋街に妹と一緒に連れていってくれた。この時の経験が頭に残っていて、難なく神保町に足が向いた。
でも、水道橋駅を降りて驚いた。愕然としたといったほうがいい。第一、あの立派に見えたアデカ石鹸の広告塔が、哀れや、戦火を浴びて朱色というか錆色に染まって立っている。改めて空襲の凄さ、戦火の爪痕の酷さを痛感した。
欠食児童の受験勉強
焼け残った我が家は二階建て、女中部屋を含めて5部屋あった。僕の受験勉強のため西側にある3畳の女中部屋を当ててくれた。早速、仕入れた参考書をもとに勉強をはじめたが、大半は茶の間で過ごした。何故なら、疎開中のブランクが大きかった。1年2か月の親元を離れた時期に勉強は午前中の2〜3時間程度、昼食のあと午後1時から6時前まではほとんど阿武隈山脈の麓の入り、二手に分かれて戦争ごっこの毎日だった。読み書き、算術といっても受験に耐えうる知能基準まで到底達していない。分からないことが多く母親にいちいち聞く羽目に陥ったからだ。
それにもう一つ理由があった。腹が減ってしようがない。茶の間には空腹を満たす餌があったからである。ふかしたサツマイモだ。食事の残りでざるに入っていた。
受験に影響した‘首都転入禁止令’
当時の食糧事情は極度に悪化。特に、焼け野原が広がる都心や周辺の住宅地は酷かった。主食はお米でなくお芋とカボチャだった。当時を評した文句どおり“イモとカボチャ”が首都中心部の実生活だった。交通が不便で都下の農村から食べ物が入ってこない。我が家でも100uほどの庭にカボチャやキュウリ、小松菜などを作った。母がもっぱら農作業をし、たまに妹と2人で水を掛けたり、種を蒔いたりした。疎開先で農作業を手伝った体験が少しは役だったような気がする。でも主食はそうは簡単に作れない。たとえ作れたとしても夜中に盗まれるのがおちだ。もっぱら母の買い出しと時折勝手口を覗く行商のおばさんからの仕入れで、何とかつないで行くしかなかった。
あまりの食糧事情の悪さに、東京都への転入禁止のお触れがでた。極めて短期間だったが、終戦の年、昭和20年の末か、明けて21年の早春ごろだったように思う。
このお触れが間接的に受験事情に大分影響したことは否定できない。終戦の末期、縁故疎開で全国に散らばって行った子どもたちが、一時的にせよ東京へ戻れなくなったからである。そのお陰で僕も中学に無事進学出来たのかも知れない。
もうひとりの受験生
我が家には私のほかにもうひとりの受験生がいた。兄・栄一である。男女2人ずつの長兄の兄は大連3中から四終(4年終了)で陸士予科に進学した。ところが、空気の乾燥している大連から湿気の多い日本に来て抵抗力がなく、入隊後2か月に‘ブヨ’に咬まれたのがもとで敗血症に罹ってしまった。幸い、13人の壮丁の輸血を受け、温泉療養もあって徐々に回復した。余計な話だが、山形県の瀬見温泉での温泉療養の帰りに私の疎開先、福島県南部の宿舎を慰問に寄ってくれた。当時は軍人崇拝の風潮が強く、森にこんな立派な?兄貴がいるのか、と外地帰りで異端児扱いされていた弟の株がかなり上がったことを今でも覚えている。
ところが、その兄にまた異変が起こる。敗血症が治癒して数か月も経たずにさらに重い病気に取り憑かれた。片足の骨が腐る骨髄炎が発症、左右どちらか確かめなかったが、再び入院生活を送る羽目になった。兄の陸士は59期から60期、そして終戦の年の61期とずれて終戦を迎えた。結局、1年坊主で除隊となった。当時、士官学校の生徒は戦後、旧制の大学や高校への編入が出来たが、兄はドンジリの61期のため旧制高校への編入資格しかなかった。編入には期限があった。運の悪いことに骨髄炎の治療の最中に面接の期限が切れてしまい、編入の道は閉ざされてしまった。あとは各校の一般の受験に合格するしかない。病を抱えながらの受験。しかし、病が病だ。骨髄炎は非常にしつこい。骨に出口の狭い壺のようなものが出来て中に腐骨が残り、間歇的に暴れる、そのとき猛烈な痛みが起こる。しかも、腐骨が取れない限り、痛みは永遠に続く。兄はその腐骨が静かな合間に予備校に通い始めていた。
我が家の台所事情
受験生2人を抱え、特に食い物での母のやりくりは大変だった。それでも終戦の年明け前後の我が家の主食の中心はサツマイモとカボチャ、それに僅かな配給米で賄うしかなかった。でも正月が近づくにつれてお米の飯が増えた。いわゆる‘ヤミ米’が増えたのだ
戦争末期、防火訓練とか隣組や町内会の接触は母が一手に引き受けていた。近所の人たちと顔見知りになり、いろんな話が入ってくる。私が疎開先から帰ってまもなく一家にとってまたとない情報を持ってきた。ごく近所に米を売ってもいいという人がいるという話。出身地の米所、山形・庄内地方の湯野浜温泉の出で、そこから精力的に米を運んで来ているという。いわゆるヤミ米の運び屋。上野さんという人だった。終戦の年の11月半ばになると我が家に上野さんが出入りをし始めた。食糧管理法で配給米以外は御法度、そうは言っても配給米だけではとても足りない。東京では水面下でヤミ米が横行、当時は、まだ警察の手が届かず、皮肉にも欠乏に落ち込んだ都会の一部の台所を救った。
でも、いつの世でもそうだが、お金がなければものは手に入らない。釈迦に説法だが、疲弊した戦争直後のこと、都会でも一般家庭ではお金に困っている。自給自足もほとんど出来ないうえに、食糧を含め日常用品は不足。そんじょそこいらに金があっても、ものは手に入らない。買い出しには大事に仕舞っておいた反物など貴重な家財を持っていって、食材と物々交換する、いわゆる竹の子生活だが、そういう余裕のある家や人はあまりなかった。話は少し逸れるが、20年から21年にかけて発疹チフスが大流行した。ある日突然、音楽の三石先生が亡くなった。発疹チフスが死因である。2日前に授業を受けたばかりだった。我々児童は強制的に予防接種を受けさせられた。戦後の粗悪品かも知れないが、注射器で刺された途端に全身が痺れる激痛が走る。事前に聞かされてはいたが、生涯忘れられない痛い思い出である。あとで広がった噂では三石先生は食べ物もろくになく栄養失調気味のところに感染したそうでなる。そういわれれば顔が淡い土色をしていたなあ、とあとで気づいた次第である。家族に大事にされたのか、幸いにも我々子どもにはあの病気に罹ったのは一人もいなかった。それほど東京の食糧事情は劣悪であった。
しかし、極端に厳しかったか、といえば嘘になる。いつの時代も混乱の中に救いというか抜け穴がある。ヤミのルートである。ルール違反であるが、生活のギリギリの限界に近かった都民の命をつなぎ止めた。あらゆる物資が店頭にはない。だがヤミ市などにはある。終戦前から膨大な物資を密かに備蓄していた知恵者が結構いて、お上の目をくぐって市場で儲ける。いわゆる隠匿物資がヤミ市を潤した訳だ。しかし、ヤミルートの主役はやはり主食の米、ヤミ米の流通だ。
親父の‘ふところ’
ヤミ米といってもお金がなければ手に入らない。そこで親父のふところ具合が問題になる。疎開先から帰ってきた昭和20年10月20日の昼過ぎ、親父が‘苦労かけた。お腹がすいているだろう。これをどんどん食べて’と差し出した笊に山盛りのふかしたサツマイモ、体は黄疸症状、半ば栄養失調気味とあっては、そんなに口に入らない。1本をほぼ3分の1に輪切りにしたかけらを2個ほど食べて腹一杯の感覚。横になったら胸焼けがする。親父から‘酒で胸焼けをした時、これを飲んだらいつもすっきりする’といわれて渡された。あとで重曹と分かった。飲んだはいいが猛烈に苦しい。お腹に入った芋が重曹で縮まっていた胃袋を膨らませたらしい。嗚咽をあげ、尻から黄色いものを噴射しながら四畳半の部屋をのたうち回った。お金がないからサツマイモでの歓迎と思っていた。ところが親父は当時相当な蓄えがあったことが分かった。ただ、ものがないだけに買うに買えない状態だっただけのこと。ヤミ米のルートもまだなかった時で銀シャリも食べさせられない状態だった、とあとで弁明を聞いた。
親父の生い立ち・生業
それでは何故親父はお金を持っていたのか。こうなると、やはり親父の素性に触れておかざるを得ない。
親雄(ちかお)、これが親父の名前。明治35年2月の生まれ。75歳1か月手前で亡くなった。生きていればもう100歳を優に超している。
三重師範の付属小学校のトップの成績だったが、遊び呆けて入試に失敗、翌年三重県の名門校・県立津中に合格したが、3年の夏、体育の教師を弾劾する同盟休校の旗を振って退学(諭旨)になった。
当時、アメリカから入ってきた野球を体育の授業に取り入れて欲しいと申し入れたが、先生は“体育の授業は国技のみ”といって頑として聞いてくれない。そこで強硬手段にでた。しかし、同盟休校は失敗、そそのかした連中は沙汰なしだったが、それに乗った親父は首謀者とされ処分を受けた。すぐ、松山中学の専検(専門学校検定試験)を受けた。化学が赤点(48点)だったが、当時の試験委員長の校長宅を夜に訪問、土下座して通してくれるよう哀願した。親父の話によると、校長はほかの科目が優秀な成績なら考えよう、と言われたそうだが、3人が合格、そのうちのトップの成績だった。
翌年、父親が無職でお金がないと説得され、県費で教育を受ける道を選んで上海の東亜同文書院(専門学校)に進学した。
そんな学歴から、活躍の舞台を大陸と決めたようで、修了後は専ら大連で日中(日支)間の物資を輸送する回漕業に従事した。事業はおおむね順調だったが、昭和17年に日本の海運統制令によって中小の業者が統合され、満州海運という会社が創設された。親父の会社は閉店。新会社は日本の運輸省との接点が必要というので、その年に東京事務所の所長になり東京へ。翌年、の家族の大移動となったのである。
親父の立場と不安(1)
ところが、2年ほどで敗戦、それと同時に満州海運は消滅した。幸か不幸か、親父は旧満州海運の事後処理をする特殊清算人に指名され、精算が終わる昭和26年半ばまで6年間そのつとめを続けた。
親父は会社(合資)を経営していた時代に、多少の浮沈はあったものの結構儲かり蓄えもあった。それが証拠に昭和15年の夏、僕の尋常小学校1年の時に村山さんという方だったと思う、共同経営者と全国の、聞いた記憶では47か所の名所めぐりを果たしている。兄を除いて僕らも夏休みの旅行に与った。また、その時代に仕入れたのだろう、回り回って僕の手元にある満州国の額面7万円の国債もその一つの証しといえる。
終戦の年には自分の貯金や預金とともに旧会社の金を管理していた。潰れた会社とはいえ、金額は不明だが相当の運転資金を東京の事務所で保管していたようだ。それが不安のもとになる。
親父の東京事務所は当初、日本橋の国分ビルにあったが、大連から帰国した昭和19年の春には皇居のお堀に面した丸の内2丁目(当時)の内外ビルという建物の何階かに移っていた。あの界隈は今と同様に丸の内の事務街の中枢だった。脇道にそれる話だが、内外ビルに移動していたお陰でいろいろな情報が先取り出来た。その一つが雑炊の炊き出しである。目黒の借家に移ってまもなく、19年の初夏のころだったと思う。事務街の中心・三菱たしか2号館だったと思うが、その地下の食堂で炊き出しをする、と言うものだ。親父がその情報を持ってきた。早速、家族で買い出しに行くことになった。
鍋ではなく、みんなホーロー引きのバケツを手に駆けつけた。三菱の炊き出しは数回あったが、皆勤賞。ちょうどお昼ごろだったので、親父の事務所に持ち込んで一部を皆で昼食として食べ残りを家に持ち帰った。何回かは一人か二人が二度並びに事務所を往復したように記憶している。疎開に行く前だが、そろそろ東京の食糧事情も逼迫し始めていた。
ついでに丸の内界隈の思い出をもう一つ。内外ビルか近くのビルに同文書院出の加藤さんという方の事務所があった。恐らく加藤さんも宮仕えの身だったと思う。親父の同郷で中学では同学年だったが、親父は専検合格で1年早く進学できたと聞いた。その加藤さんの事務所に疎開を挟んで何回か訪ねたことを覚えている。ほとんど母親と一緒だった。加藤さんの事務所の何室かは倉庫になっていた。いろんな物資が詰まっていたが、特に乾燥ニシンが堆(うずたか)く積まれ、醤油1升瓶の入ったダースの箱がぎっしり詰まっていたことを覚えている。一升瓶の中身は醤油ではなくて昆布から作った醤油風の調味料で‘合成醤油’という名前が使われていた。加藤さんの会社が開発したのか、卸しのために仕入れたのか、は定かでない。訪ねるたびにニシンと合成醤油を貰って帰った。合成醤油は当時の醤油とくらべても見劣りはしたが、醤油の原料・大豆不足を補おうとする工夫に多少の救いを感じた。
終戦後しばらくは内外ビルに居られたが、ビルが進駐軍に接収されるというので、親父たちはまもなく我が家の応接間に事務室を移した。そのお陰で事務手伝いの2人の方にお会いした。一人は寺島さんという方、もうひとりはひとの噂では東京6大学野球で早稲田の三原と対比されるといわれていた慶大出身の水原さんという方だった。水原さんはおとなしく寡黙の人だったがまもなく辞められた。だから、親父をめぐる話は専ら寺島さんから仕入れた。寺島さんによると、僕が疎開先から帰ってまもなくの11月に今の杉並区の豪邸を5000円で買わないか、という話があったが、親父が躊躇している隙にたちまち売れてしまったという。寺島さんは、いつまでも惜しいことをしたとこぼしていた。のちに親父に追及すると、金があってもそんなこと出来るわけない、と一蹴された。
親父の立場と不安(2)
親父には会社関係で不安があった。それは、満州海運所属の貨物船が日本国内の港に停泊中に終戦になって動くに動けないでいる。下級船員として60人前後の中国人が足止めを喰っており、それが大挙親父のもとに押し掛けて法外な無心をするおそれがある、というものだった。貨物船の船長の一人、龍(竜)さんという方が見えて、抑えて彼らは静かにしています、という報告を受けた。親父は何か龍さんに持たせたようだった。何だったかは分からない。この時は中国人船員の襲撃はなく、これは杞憂に終わったが、不安はまだあった。当時、負けたとはいえ日本海は無防備、密航はほぼ自由だった。
そのため、満州にいる会社の幹部から公私の指令が密航者を通じて送られてくる。まず、会社の金は使わずに残し、連中の帰国後に備えよ、というものだった。親父は出来るだけ切りつめたが、毎月の費用は最低限の額は必要、やがて、寺島さんも辞めていくことになる。社長だった小川さんからの密書もとどいていた。11月半ばごろから旧制浦和高校の寮生活をしている小川さんのご子息が時折訪ねてこられた。おとなしい方だった。
それにしても、順風だった親父が終戦で試練に直面したのである。
受験家庭の幸運と苦悩
親父の蓄えがあったためにヤミ米が食べられた。庄内からの担ぎ屋、上野さんの出入りも暮も押し詰まって激しくなった。そのうち上野さんはもち米を持ち込んだ。しきたりを重視する親父はまたとなく喜んで、早速、庭で借りてきた臼を使い餅つきと相成った。社長のご子息も親父に呼ばれて餅つきに参加した。3升か5升は搗いたのではないだろうか。近所の子どもも大人も音を聞きつけ葦簀(よしず)の塀越しに様子を見ている。終わって、長屋を含め近所にお裾分けをした。近所に馴染みの多い母が僕らに手伝わせて餅を配ったように記憶している。ただ、このあと僕らに影響がでてくる。一躍にわかお大尽になったので、子どもたちの付き合いに変化、受験を控えてあまり外にでなかったが、どちらかと言えば、よそよそしくなった。
明けて昭和21年の正月以降しばらくは入試の不安以外はこともなく過ぎたが、2月にはいると恐ろしいことがおきた。石橋湛山蔵相の下、新円発行・旧円封鎖の金融緊急措置令が出された。翌月3日から百円紙幣に新円のシールを貼る。旧円は流通禁止で、月に300円しか使えない。確か一人当たりだったと思う。これは我が家にとって大打撃だ。いくらお札を持っていても紙屑同然。家族、特に親父はショックを受けたようだ。
それに輪をかけて我が家を襲ったのは兄の骨髄炎の再発だった。家督継承者の兄の命は絶対に守らなければいけない、と親父は兄貴を本郷にある東大病院に入院させた。当時、世に評判の高かった清水外科の病棟だった。このため兄は21年春の受験を棒に振ってしまった。親父は一切公言をしなかったが、その後、入退院を繰り返し、その費用は馬鹿にならない金額になったと思う。
それに日本ではまともに手に入らなかったペニシリンをヤミルートで買い、惜しみなく兄に投与した。兄の旧制中学時代の親友で米軍の輸送船で働いていた武田泰忠さんにお金を渡しては米軍側から仕入れていた。このあと数年と続き、5万単位、10万単位、時には50万単位の丸い小瓶を買い入れた。結局、兄は自分の体に都合5000万単位のペニシリンを打ち込んだものと推量される。親父の金に替えられない思いがあるのだが、これらの膨大な出費によって僕が高校2年になるころには貯金は0の状態に落ちぶれて仕舞った。
四中との出会い
私と都立四中とのかかわりを持たせてくれたのは兄の栄一である。兄はまだ、終戦の年、昭和20年の秋ごろは発病もせず、小康状態を保っていたので予備校に通っていた。
僕のほうは秋風が強まるとともに否応なしに進学問題が迫って来ており、本人ばかりでなく先生と親が相談しあっていた。
受験先があれこれもめていた初冬の夕方ごろ、予備校から帰ってきた兄が「拓三、おまえ都立四中を受けてみろ」と言い出した。兄の話によると、当時通っていた城西予備校の講師には四中で教鞭をとった先生方が多く、その人たちは“四中はいい”“四中はいい”と口癖のように言って評判がいい、というのだ。結局、四中が最終の志望校になったが、これまで聞いたことのない学校名に受ける本人も親もまさに晴天の霹靂だった。最後は強気で生きてきた親父が「受けてみるか」との言葉で家庭としての方向は定まった。学校の最上級生は男女あわせて30人前後で男児は十数名足らず、大工など家業を継ぐものが多くて進学組は10人足らずだったと思う。私も上位4名以内に入っていた。名門校だが何とか引っかかるかも知れないというので私もその気になった。
“待った”が掛かった四中受験
ところが、である。それを聞いた担任や教頭役の先生は目を丸くした。僕の属していた目黒区田道(でんどう)国民学校の過去の歴史で四中に進学したものはいない、第一、受けたものがいないというのだ。毎年の一番は都立八中、今の小山台高校にいく。三年か四年に現れるとびっきりの秀才が都立六中(新宿高校)に入ると言う。ここで学校の格の問題が浮上したのだ。田道国民学校はもともと俄か急増校、東京郊外の宅地化が進んで子どもの数も増え、昭和8年に中目黒尋常小学校と下目黒尋常小学校が飽和状態になっために、両校のちょうど中間にある田道地区に造られた。いわば新参校。逆に四中の方は田道ごとき名は知らないだろう。知っていても初耳の近いのではないか。だから、たとえ合否ラインすれすれになっても‘見合わせよう’という結末になるに違いない。学校側は言外にとても無理だというのが見え見えだ。もう少し志望校の格を下げたらと言うのだ。その間、母親は何回か担任の礒野先生に相談に行ったようだ。親父は‘おまえ、しっかりせい’という。頼りない奴じゃ、と思いながらも親父自身は‘自分は頭がいい、粘りもある’という自信から“拓三もやれる・・・”とあとに引かない。なんだか今まで相手にされなかったものがにわかに家庭での注目される人物になってしまい、10歳の弱兵は大人の顔色をうかがいながら‘小さいころもっと勉強しておけばよかった’と思いつつ学校側からの‘よい’反応を待った。
四中志望にゴーサイン
数日、いや1週間ほど待っただろうか。学校側から親に返事が届いた。滑り止めを2校受けることを条件に内申書を出すという内容だったと聞いた。学校にとって破天荒の決定、そこには追い風もあった。
クラスには東京の大森区(今の大田区)で戦災に会い、転校してきた子どもがいた。その日原(ひはら)君が都立一中(日比谷高校)を受験する、と言い出したのである。彼も僕と同様難色を示されたらしい。‘一中、四中なんて恐くないよ。自信を持って受ければ大丈夫だよ’と僕を激励してくれたりもした。その強気で押す日原君の意気も手伝ったのだろう、田道校史上前代未聞の一中、四中、六中、八中の四校受験が実現した。
当時の受験状況は、四中の校舎は戦災で焼失、たしか一中も校舎が焼けていたと思う。戦災から免れた都立のナンバースクールも結構あった。優秀な受験生はそうした中学に集まるだろう。それにいわゆる‘首都転入禁止令’で受験生も減っている、だから森も日原もかろうじて引っかかるかも、という思惑も学校側にあったかも知れない。事実、当時巷では校舎が焼けなかったり、ほぼ残ったりした六中や八中には受験生が殺到し競争率は上がるが、校舎を失った学校の倍率は低いのではないか、という噂が流れていたことも事実であった。
切羽詰まった受験勉強
寺島さんの話を聞いていたり、担ぎ屋・上野さんの冒険談、いかに警察の目を逃れてヤミ米を持ち込んで来たか、といった話のほうが受験勉強よりはるかに興味をそそられたが、年を越して1月になるとそうもいっておられなくなった。親父やおふくろが勉強しろ、勉強しろと言うし、おまえだけ落ちたら東京に居れんな、と皮肉混じりに言われると、本人も勉強しなければいけないような気になってきた。沽券に関わるというか、自信はないけど勉強しないで不合格だったら、折角内申書を出してくれるようになってくれた学校の諸先生に合わせる顔がない、仕入れた参考書を頼りに猛勉に入った。しかし、算数の応用問題は難しい、母親に度々聞いては問題を解く有様だった。
読書はあまり気が進まず、文学書など勧められても読まなかった。ただ、小学館だったか、児童年鑑の付録で「偉人は斯く語る」という確か200ページぐらいの冊子を読むことにした。エジソンやナポレオン、ロックフェラーなど著名な人物の至言を子どもに合うようにまとめたもの。この成功物語が好きで何度も読んだが、国語受験の仕上げに熟読した。それに加えて当時、受験生必須だった漢字1500字の習得に熱を入れた。これは読むよりも楽な漢字で、受験日までには曲がりなりにも覚えた。でも自信はない。神頼みだけだ。願わくば受験者の少ないことを祈るのみだった。
各中学の試験始まる
昭和21年2月に入ると、各校で願書の受付、試験、そして合格発表と一連の受験シーズンが本格的にスタートした。
早かったのはのちに東京大学の付属になる旧制東京高校の附属中学(東京・中野区弥生町、高校は三鷹市新川に)の試験だった。校舎も残っていたし、高校まで行ける上に試験日が早い。そんなことで試しに受けるというのもいて受験者が殺到、50人か100人の定員だったか、数字は覚えていないが、ものすごい競争率だった。田道の四天王?のうち行動が活発な六中を受ける田中君と八中を受ける関野君が挑戦した。余計な話だが、冷やかしもあって、彼らと合格発表を見に行った。もともと目の粗い笊に引っかかるほどの難関で、案の定、二人とも落ちた。本人たちも諦めていたようで、三人で‘落ちちゃった’‘落ちちゃった’と連呼しながら来た道を帰りはじめた。はっきりは覚えていないが、中央線の中野駅は遠いので恐らく新宿方面に向かった。かなり歩いた記憶がある。あるいは環六あたりでバスに乗ったかも知れない。当時電車やバスの車両は古くて扉がなく材木を組み合わせたかすがいを打ち込んで応急処置をするなどお粗末な状況だったが、バスも時間の保障はないものの動いてはいた。
二人は時折、発表を見にすれ違う受験生に‘君も落ちているよ’など失礼な声をかけ、僕も唱和していたが、何人目かに‘俺は受かっているんだ。この目で確かめに来たんだ’といわれてしまった。冷静さを取り戻したのか、彼らは僕に恥ずかしいから大きい声を出すなといい、連呼をやめて言葉少なに戻っていった。受験発表に行ったついでに田中君の受験予定の内藤新宿(新宿御苑の隣)にある都立六中を見に行った。白亜の校舎、表玄関だと思うが、半円筒形の三階建ての部分、ドームの上の屋根が焼夷弾か爆弾の破片を受けたのだろうか、四分の一ほど欠けてはいたが、校舎は無傷のまま残っていた。その足で関野のうける学校を見に行こうというので目黒駅に戻って東京急行の目蒲線で西小山駅を降り、八中の見聞にいった。ここも校舎は完全に残っていた。二校とも倍率は相当高いなぁ、と思いながら別れた。
最初にして最後の校外行動、ハードルの高い二人の不合格だったが、ますます自信がなくなってきた。
いよいよ四中受験
不安を抱えながらついに試練の時がやってきた。最初の関門は受験願書の確保だ。内申書は学校が書いてくれるが、受験側が取り寄せる必要があったが、当時は通信事情が悪く途中に迷子郵便になりかねない。結局、志望校にもらいに行くことになった。学校の資料で四中の場所を調べた。番地は忘れたが地図には市ヶ谷区加賀町に所在地があった。ただ、戦災で校舎が焼けて
近くの市谷(いちがや)国民学校を借りていることが分かった。元の校舎に近く、省線では中央線の市ヶ谷駅が最寄りの駅、都電は新宿と万世橋を結ぶ13号線の牛込北町下車と、焼ける前と同じような案内ともとれた。
省線が好きだったので市ヶ谷駅経由で行くことにした。一人では不安なので二人で出掛けた。多分近くの関野君が付き合ってくれたように思う。
市ヶ谷駅で降りて橋を渡り北に向かったが、四中の焼け跡の脇は通らずもう一つ東の牛込北町に直行する道を歩いて停留所を左折、西に向かった。しかし、子どもの足だけになかなか目的地に着かない。途中、13号線・万世橋に向かう電車が通り過ぎていく。ようやく市谷国民学校に着いた。ところがそこに山伏町という停留所があるではないか。関野君と‘馬鹿見たな’といい帰りは都電で新宿に向かうことにした。四中の事務所はたしかほぼコの字形の校舎のうち右側の列の一階付け根にあった。そこで願書を貰い、そそくさと引き揚げた。今度は、13号線の電車で新宿に向かった。車掌のいう抜け弁天、新田裏(しんでんうら)という停留所名に奇異な感じをしながら窓の外を眺めていた。13号線の新宿終点は当時権勢?を張っていた尾津組マーケットと直角に接していた。英語のTの字の縦棒に当たるところがプラットホームになっていた。岩本町行きの11号線は新宿駅前から出ているが、13号線は新宿駅には3ブロックか4ブロックほど歩かないと行けない。また、レール間も舗装されておらず砂利と枕木が露出していて、舗装されている11号線に差を付けられているような気がした。受かればここから通うのかと一種の寂しさも感じた。でも、停留所前の学校は非常に便利だ。市ヶ谷には都合四回出向いたが、次の願書の提出からは都電を使った。
受験番号は264番だった。定員は250人だったが、受験生は300人から320人ほどだったと思う。案の定、校舎の焼失が響いたようで、競争率はそれほど高くなかった。勉強不足を自覚していたのでホッとした。
受験日は父兄同伴
はっきりした日時は覚えていない。2月下旬か3月初めだったと思う。受験日がやってきた。父兄同伴ということで、母が付き添ってくれた。市谷国民学校には既に大勢の受験する子どもや父兄がみえていた。校庭には何人か、多分50人区切りの表示があって受験番号順に表示のあとに並んだ。そのとき僕のあとの265番が星野隆一君、266番が市川哲雄君(両氏とも故人)であった。このことは今でもはっきり覚えている。
ガイダンスで試験は面接だけ、筆記試験はないが父兄と一緒という。一瞬、競争率が低いから家庭事情を聞かれるだけだと思った。ところが、2部屋の試験会場を回るという。とんでもない勘違いだった。
さあ、試験が始まった。順番が来て呼ばれ、第一試験室に入った、机に向かって2人の試験官、手前には椅子が2つ並んでいる。そこへ母親と座った。机には文章が綴られていた。“これを読みなさい”といわれて読み出した。動転して字が目に入らない。なにやら雨の日で女の子が傘を持っている、ということだけはおぼろげながら目にした。しばらくして、“読みましたか”、‘ハイ’。では、聞きます。
“どんな日でしたか”、‘雨の日です’。“登場人物は?”。どきどきして頭が混乱、ついに分かりません、と応えた。文章は豊田正子の綴り方で、女の子が雨の日に父親か兄弟か家族に傘を持って迎えに行った情景を描いたものだと後で聞いた。疎開のころから、分からなければすみやかに‘わからないと言え’といわれていたので返事はかなり早かったと思う。“結構です”と第一関門文系の試験は終わった。試験官の一人は小川貫道先生(渾名はロバ)だった。
次は第二試験室。これは理系のテストだったが、何を聞かれたか、覚えていない。ただ、頭に残っているのは、試験官の一人が坂入一郎先生(渾名はガニ八)ということだけだ。終わってみて絶望感が漂う。母親もほとんど語らず家路についた。
後回しになったが、面接だけの学科による入試は四中のお家芸だったようだ。高浜雄一君が俺たちは競争率が高くなかったので入試に筆記試験がなかった、と都合3回ほどぼやいたことを聞いているが、それは事実でないらしい。十数年前にさかのぼる。四中の先輩で東京高商(現一橋大)出の飯田白馬氏(元NHKアナウンサー)と歓談したことがあった。そのとき飯田さんが“森ちゃん、君は四中を受けたとき筆記試験だったか”と聞かれた。こちらは、競争率が低かったので面接の学科試験だけだった、と高浜君ばりの返答をしたところ、“僕たちも筆記試験はなかったよ”と意外な答が返ってきた。飯田さんは昭和16年の四中入学だ。まだ、太平洋戦争が始まっていないが、聞くところによると、当時四中は陸士や海兵に多くの俊秀を送り出して評判が非常に高かったという。そういう学校環境で競争率が試験形態に変化を及ぼす筈がない。統計的検証はしていないが、面接学科入試は四中のお家芸と断定、今日に至っている。
聞いた話で蛇足になるが、かつて司法試験に面接という二次試験があった。専門誌を一時読んでいたが、それによると、二次の面接試験はかなり厳しかったそうだ。当意即妙の答が要求される。遅かったり、分かりませんでしたでは落ちるそうだ。四中の面接学科入試はそれを先取りした形で、多くの名士を輩出した原因はここにあると確信する次第である。
四中に奇跡?の合格
数日後に合格発表があった。ちょうど母の実兄に養女にいった姉・玲子が付き添って見に行ってくれることになった。姉は、妹を出産後乳腺炎を患い保養中の母に代わって幼少の僕の面倒を見てくれた。大分迷惑をかけたが、気心は知れている。だから、道中“落ちてもくよくよするな、また、ほかを受ければいい”などと慰めてくれた。
校舎の壁には既に合格者の番号を書いた横長の紙が張り出されていた。正門を通っておそるおそる近づいて番号を探した。“あった!” 合格発表の紙に264番の数字が乗っている。受験会場で知り合った265番の星野君も266番の市川君も受かっている。姉が“拓ちゃん、おめでとう。受かって、本当によかったね”と声を高めて喜んでくれた。僕も“ウン”といったが、嬉しさのあまり言葉が出なかった。
何分、初体験で言葉が見当たらなかった、というのが真相。それにしても、合格者が250人(実際には1人か2人多かったかも知れない)、50人余りが落ちたことになる。冷静になると、俺はなぜ合格したのだろうという疑問が湧いてきた。それが後日徐々に分かってきた。
まず、試験室を飛ばした者、これは不合格。結構このケースはあったようで合格点が下がったという話がもっぱらだった。入学してまもない体育の授業のとき、タンクという渾名の鈴木徳之助先生が僕らを一列に並ばせ、“君らの中には48点で合格しているのがいるんだ”といわれた。100点満点に換算しての50点以下の意味で、誠に出来の悪い奴がいるといわれているようなものだった。その話を聞いて‘それは自分だ’と思ったが、あとでそのように感じた者が数人いたのを覚えている。
また、合否は出身校からの内申書も加味されたようである。今から数年前、河合哲夫君の車に同乗する機会があった。偶然だが四中の受験のことに話が及んだ。彼は受験で参考にする6年集約の3学期の成績が全優だった、だから問題なく合格した。森はどうだ?と聞かれた。例のタンクさんの話が頭をよぎって、勿論6年の3学期の成績は全優だったよ(全優でなければ合格しなかったという気持からだが)、と答えた。しかし、調べてみると、体育が1つだけ「良上」と分かった。そういえば、あとで分かったことだが、四中が間借りしている市谷国民学校からは三十数名が合格、同じ市ヶ谷区の愛日(あいじつ)国民学校から十数名合格するなど地元からの合格者が多いのをみれば全優はトップランクで、僕の成績もいい方だったのじゃないか、と手前味噌の解釈で胸をなで下ろしたことを思い出す。
入学手続きの書類を貰い、姉と都電、山手線経由で帰った。電話で知らせていたが、家族が喜んでくれた。なかでも受験に付き添った母が一番ホッとしていたように思う。
ついでに田道とお別れの卒業式に触れておきたい。その日は21年の3月17日。その朝、母が作ってくれた味噌汁を‘飲んでいきなさい’というのを飲まずに出掛けた。日原君も都立一中に合格、田道国民学校始まって以来の一中、四中、六中、八中に揃い踏み合格で鈴木校長、永井教頭、礒野担任も晴れやかな表情をしていた。卒業式は2階の3教室の仕切りを取ったにわか仕立ての講堂で行われたが、卒業証書授与の前の精勤賞など各賞が渡されている途中で倒れてしまった。衛生室で休んでいるうちに式が終わってしまった。母親が付き添ってくれた。お陰で母は晴れやかな卒業式を半分も見られなかった。それまで親不孝は度々していたが、このときの親不孝は忘れられない。だから卒業式の日も頭から離れない。