終戦直後の風雪に耐えた名門校

                             昭和27 森 拓三

第二章  学制改革に揺れた四中一年生


四中新一年生
 入学式は市谷国民学校で行われた。当時のクラス分けは5組、伝統により甲組、乙組、丙組、丁組、戊組という名前がついた。一組大体50名、僕は丁組でロバさん・小川貫道先生だった。出席簿の出だしは誰でもそうだろうが、頭に残る。我がクラスは相川(眞)、青木、青葉、浅井、安仁屋、浅沼、石井、伊藤・・・それ以降は続かないが、今覚えている仲間は、内古閑篤、梅原務、河合哲夫、白須康弘、高木明二、平林薫、近くでは村上龍雄、守屋一彦、八木保、山縣忠光、山口裕之などの各君で、受験の際仲良くなった星野も市川の両君も同クラスだった。
 入学式の翌日、教科書等を渡すので焼け跡となった四中の校庭に集まった。初めての伝統ある加賀町の校庭に出合った。焼け跡の瓦礫はあちらこちらに片づけられていて南を見ると大日本印刷の建物の全景が見渡された。校庭の北、我々もしばらく使わせて貰ったプールの側に教科書が載った机が幾つか並べられていた。我々新入生は組ごとに並んでいたが、後ろにいた数人のものが先を争って前のものを押したために机を押し倒し、立ち会っていた先生に一喝された。先生の名は牧といわれたが、まもなく学校を去られた。
‘静かにしろ。言うことを聞かない奴には教科書はやらない’。一喝があまりにも大きく、やんちゃ坊主たちはたちまち静かになった。何か仲間同士の先陣争いのようだった。やはり市谷区内の出身者が多かったようなので、国民学校での気分がそのまま残っていたのではないか、と今でも思っている。

間借り新校舎で授業スタート
 授業は校舎を同じ区内の原町国民学校で始まった。市谷国民学校の校舎は木造部分が多かったと記憶しているが、原町国民学校の校舎は鉄筋コンクリート三階建て校舎と講堂兼体育館でコの字形になっており、空いている東側にはプールと鉄棒や遊動円木などが並んでいた。教科の教材を含めれば結果的にロの字だ。そのロの字に囲まれた中庭が校庭で、コンクリートで覆われていた。後に触れるが、ここが放課後のゴムまり草野球(チャンベース=クロケンこと英語の榎本一郎先生の命名という)の舞台となる。
 その新校舎での授業開始から4日目(と思う)に新入生を震え上がらせる試練が待ち受けていた。この日、早い時間、多分2時間目か3時間目の鐘が鳴った直後、先生ならぬ2人の先輩上級生が教室に入ってきた。一人は紺の詰め襟の学生服で温厚そうな男、もうひとりは浅葱色の海軍の菜っ葉服を着たごつい男。このごつい先輩がいきなり黒板に白いチョークで「矯風会」という3文字を書いた。
 直ぐさま温厚な先輩が、自分は四中の伝統を守る矯風会の会長磯村と名乗り、その精神を教えに来た、と言うや否や、ごつい先輩が持ってきた木刀で机をバチンと一叩きして‘貴様らは・・・・’と説教を始めた。一字一句は頭に残っていないが、僕らは出来が悪い、それにあのざまは何だ、精神がたるんでいる、なっちょらん・・・と大声で怒鳴りまくる。あのざま、とは焼け跡での机を倒した一件のことのようだが、教室内は動転と恐怖で静まり返った。でも50人もいると中には勇気のあるものがいる。一刻あって新入生の一人が、ハイと言って手を挙げ立ち上がった。青葉久夫君だ。彼のプロテストの言葉もいちいち覚えていないが、おぼろ気ながら思い出すのは‘僕たちはよい学校の四中に憧れて入学したのに上級生が新入生を脅すような学校と知ってがっかりした、という意味の内容だった。それには、磯村会長がなだめ役に回っていた。2人は5年生だった。戦後半年経って“自由”の味も分かりかけてきただけに丁組の新入生一同‘青葉君さすが!’と、心の中で喝采を送った。四中精神は時間切れで具体的に聞けなかったが、四中の生徒の過去の実態や風習?なるものがいくらか分かってきた。

敗戦色表す四中生の身なり
 授業は当初は混合二部授業だったように思う。国民学校の児童の勉強優先で、午後からの授業もあったようだ。しかし、原町国民学校学区内の児童も終戦直後とあって数が少なく、学年はせいぜい1クラス程度。その合間を縫って我々四中生の時間割が仕組まれていた。音楽は音楽室で、体育は中庭と講堂で行われたが、物象(物理と地学)や化学の特別室は一般の教室になっていたので、例えば化学などは先生がやや大きめの机のひきだしに器材を入れて教室に持ち込んで授業をする状況だった。たしかクラスの教室も年に1、2回替わったような記憶がある。

 10分間の休み時間には中庭は人でごった返す。教室内にこもるものもいたが、大家の児童よりも店子の生徒の方が圧倒的に多い。終戦直後とあって先輩のいわゆる風俗もまちまちだ。戦時中からのカーキ色をした中学生の制服が多いが、海軍の浅葱色の作業服や陸軍の軍服姿も結構目立っていた。さすが、海兵や陸士に数多くの俊秀を送った足跡が伺える。そうか、予科練や幼年学校に行った先輩もいるのかも知れない、そんな思いをした。
 中学生服の左右の袖というか、たもとの先に黒の蛇腹と白い細紐が縫いつけてある。占領下だし、物資も不足。服装にはうるさく言われていなかったが、本来の四中の学則で前年・20年入学の生徒に義務づけられていたそうである。

厳しかった四中生の伝統教育
 上級生から話を聞くたびに終戦後自堕落な生活をしてきた小坊主にとっては背筋が凍り付くことばかり。国民学校時代の教頭・永井先生に“あの学校は勉強、勉強で大変なところだ。夜中まで勉強しないとついていけない。あまりの厳しさに結核で倒れる生徒が多く四中でなく死中(しちゅう)といわれるほどだ。それでも君は行くか”といわれたことがある。それだけに勉強に厳しいことは覚悟の上だった。
 ところが、である。生徒の個々の生活態度まで決め込む厳しい仕来りが存在したのである。先に述べた蛇腹の件もそうだ。もっとも蛇腹を付ける中学校は結構多かった。そういえば蛇腹を付けていると、なにか偉そうになった気分になる。それに仮に出来心が起こっても悪さは出来ない。子ども心を突いた巧妙な仕掛けである。
 ただ、四中はそれだけではない。登下校の姿にも注文が付く。戦争になってからだと思うが、当時の勉強道具等を入れたのは麻製の鞄だったが、それにはルールが決められていた。登校時は左肩から掛ける、下校時は右肩から掛ける、雨天に備えた傘は登校のときは取っ手を握った左手を腰に当てて垂らして歩く。下校のときは右手に代えて持つ。これは先輩から聞いた話だが、記憶違いであるいは逆だったかも知れない。ただし、当時は型にはまったやり方に反発したが、年を取った今では子どもの成長に合わせた合理的なやり方と納得している。
 もっと恐ろしいのがある。それは、遅刻勉、居残り勉という特殊の扱いが行われたことだ。毎朝、朝礼(と思う)に遅れると、特別室行き、クラスの教室には入れない。一日中、そこで勉強だ。あるいは一時限か午前中だけだったかも知れない。また、宿題を忘れたり、指されて出来なかったりするなど不始末をしでかすと、居残り勉をさせられる。何時間かはきかなかったのだろう、覚えていない。2つともきついお仕置きだ。内容の軽重や回数によって成績に影響し、通信簿の「操行」の成績が悪くなる。学科の評価は10、9、8など10点法だったが、操行は甲、乙、丙、丁、戊の五段階評価が残っていたようだ。この操行の成績が悪いと上級学校の進学に関わってくる。学科の成績がよくても進学時の操行が丙以下だと最難関の旧制一高への進学はかなり難しくなる。上級生はこのように教えてくれた。なまくら坊主には非常に耳の痛い話、特に遅刻勉はたまらん。終戦直後のお陰で既にその制度はなくなっていたから“ホッ”と胸をなで下ろしたものだった。
それと、宿題が滅法に多かったという。兎に角、各一般科目にそれぞれでるからその量は膨大で、遊ぶ暇なし、出題のあった日に手を付けても翌日の予習もあり、徹夜近い猛勉をしなければならない。栄養補給をつい忘れがちになる。要領が悪いのか、つい病魔に冒される、という筋書き。これで、国民学校の永井先生の話に納得がいった。

朝礼と“教務からのオタッシ”
 同居の学校生活だったせいか、朝礼は1週間ベタになかったように思う。月、水、金の3回だったか、2回だったか、それでも週の初めは必ず開かれていた。
 朝礼では、まず、校長先生のあいさつから始まる。校長は我々と同じ時期というか、新学年の少し前に都立九中(後の北園高校)から来られた平田巧先生、我々の耳には、先輩の誰だかが名付けたカンソウラッキョウという綽名が届いていた。初めのうち、校長は“みんな異常はないか”とか“教室が児童用で窮屈だろうが、しっかり勉強して欲しい”などと生徒を気遣う言葉が多かったが、社会問題についての話をされたような記憶はない。ただ、先生の出入りもあって、着任された新任の先生の紹介は度々されていた。でも、ほとんど長話はされなかった。

 校長先生のあとに続くのが教務からの達し。ゆっくり朝礼台に上るのは教務主任の柴田治先生。数学科の主任である先生には有名なガンマという送り名?を既に過去の先輩が差し上げていた。その柴田先生、手術をされて片肺しかないという話がすぐに伝わっていた。
そのせいなのか、声は通るレベルだったが、ゆっくりと話されていた。“キョウウムからのタッッシ”という柴田流というかガンマ流の抑揚はいまでも耳から離れない。我々1年生は前に並んでいたが、ざわつくのはこの連中だ。私語や口げんか、中には指の突っつき合い、国民学校からの怨念を引きずっているのか、よく柴田先生や脇にいる担任の注意を受けていた。1校から1人しかはいらない独りぼっちは、それこそ恨めしかった。
 柴田先生は厳しく、怖い、というのが上級生の噂だった。ところが3年生になったころだったと思う。先生は昼休み前になると、ある生徒を職員室に呼んだ。あとで伝え聞いた話では、その生徒は家の事情で弁当を持ってこれず、それを知った先生がこの生徒に自分の弁当を食べさせた、というのである。柴田先生にお習いしたのは3年後、つまり高校にあがって、それも2年からだと思うので我々より上級生だったと思うが、教えは厳しいが思いやりがある、これこそ尊敬すべき本当の教育者と感服した次第である。

青天の霹靂(へきれき)四中が廃校になる?
 入学して四か月ぐらい経ったころだと思う。日ごろ地味で多くを語らないカンソウラッキョウこと平田校長が朝礼で突然、四中が廃校になるかも知れない、という話を持ち出した。実際の訓話は具体的に再現できないが、いま頭に残っているイメージから要約すると、“いま校舎を戦災で失った四中を存続するかどうか、検討されている。これに対し、都の教育関係のえらいところにいる四中の先輩たちが歴史も古く輝かしい伝統を持つ名門校の火を絶やしてはいけないと、真剣に取り組んでいてくれる。だから、こちらも伝統の火を消さないよう頑張らなければならない。それには上級学校への進学実績を上げることだ”という話だ。この話は皆初耳で朝礼の列に居並ぶ生徒の間にどよめきが起きた。特に、焼けても国民学校の校舎を借りて中学生活を始めた一年坊主にとっては青天の霹靂、安心し切っていただけに衝撃は一番大きかった。‘もし廃校になったら俺たちどうなるのだろう’‘どこか、残る学校に配分されるだろうが俺はどこだろう’‘俺は六中かな、でも住まいが目黒だから八中かな’‘でもそんな整ったいいところじゃないよ、もっと田舎だよ’などなど互いに顔を見合わせながら囁き合った。
 廃校の話はその後、中学1年の三学期に1回、2年のとき2回ほどあったように思う。特に2年のときには一度か二度東京都庁で存続に尽力されている先輩が招かれて朝礼のときに紹介された。石川栄耀さんという方だったと記憶しているが、同窓会の名簿にはその名は見当たらない。背は5尺5寸ほど、名優エノケンに白髪のヘアピースを被ったような方だった。
 その石川さん、都合2回来られたが、初回は‘伝統ある学校をなくしてはいけない、いま一生懸命頑張っている’と話された。二回目は廃校というより存続が決まったと報告されたように思う。それを聞いて僕らはホッと胸をなで下ろした思いがある。
 やや理屈っぽい私見を述べれば、空襲でめった打ちにされた首都・東京には曲がりなりにも学校の態をなすような校舎を造るような力は終戦の翌年には到底なかったため廃校の話に火が点いた。しかし四中は実績のある名門校である。そこで先輩たちが動き出す。例えば疎開で子どもは地方に流れ都内には少ない、児童がへって焼け残った国民学校の校舎もがらがら。また我々が2年生に進級した昭和22年4月には日本の教育史上、大変革があった。いわゆる六・三・三制の導入である。中等教育は旧制中学を拡張・分断して(新制)中学校と(新制)高等学校いずれも三年間に分けられた。中学校は都内の(特別)区の管轄、都は高校だけをみればよくなったことも影響しているかも知れない。ただ、当時も今も過去数多の俊秀を輩出した名門校の故に四中が生き残れたと信じている。

程度の高い一年生の学習内容
 GHQ・マッカーサー司令部の命令でもあったのだろう、自由の雰囲気?が学校にも徐々に浸透し始め、居残りなど厳しい仕来りや毎授業ごとの宿題はなくなったが、一年の学習内容のレベルは非常に高かった。それに、授業内容はおおむねハイスピードで進む。
 例えば英語、丁組の場合は教頭の藤村(ブルサギ)、それに榎本(クロケン)、岩野(フォックス)の三人の先生に教わった。今でも覚えているのは藤村先生の英語の授業。初回の授業にはサイズが写真のサービス判のワラ半紙を配り、アルファベットの大文字、小文字を書けという。時間はたっぷりあるだろうと思って丁寧に書いていたら“止め”の指示。二分か三分ぐらいしか経っていない。pまでしか書けていない。いやぁ、これは駄目だ。零点だ。頭を抱えてしまった。
 ところが、藤村先生の次の授業で返ってきた答案の紙片にはAマークが付いていて「字が美しい!」と添え書きしてあった。一瞬、目を疑ったが、Aマークに間違いない。嬉しかった。だが、なぜだろう?そうか、誠意を持って取り組んだ、と評価されたな。これだ。この出会いはその後の我が人生にとって大きな出来事となるのである。
 だが、この授業は喜んでばかりいられなかった。友人同士があったときに交わす会話を英語でやってみよう、といわれながら机の間を歩いてこられ、僕の側で泊まった。“君と君、立ってトライ・イット”といわれた。僕と青木君が指された。“君からだ”と青木君がいわれ、彼は“ハウ・ドゥ・ユゥ・ドゥ”としゃべったが、こちらの答がでない。藤村先生、すかさず“君の負けだよ、シッダン”といわれてしまった。スピード感の欠如。Aマークが台無しになってしまった。
 藤村先生の綽名はしも膨れ気味の四角いお顔に手入れをされた髪の後頭部付近がピンと張り、サギの頭に似ているとして付けられたと聞いた。藤村先生は東京湾のミズリー艦上で行われた降伏文書の調印式で、英語の通訳にかり出されたという噂を後刻聞いた。調印式の映像がテレビに出るたびに確認しようと思うが、いまだに果たせないでいる。
 “君たちはジェントルマンの卵なんだよ”が口癖だったが、熱血漢でもあった。1年の終わりか、2年になってからまもなくか、教壇の椅子に横向きに座られて嘆かれた。“悲しいねぇ。六中に負けるなんて。君たちには頑張って欲しい”と話された。多分、旧制一高・第一高等学校への合格者が六中より少なかったために嘆息された。後に、麻雀やパチンコがお好きだとも伺った。勝負師の一面をもたれていた。
 もう一つビックリするような“事件”が数学で起きた。一年のときの数学は坂入先生(ガニハチ)と佐藤先生(ニヤ)に教わった。最初の試験は1学期の中間考査で坂入先生の出された問題は三角形の合同の条件だった。教科書を先取りをしておけば出来たはずだが、かなり先の先取りになる。ほかの科目もある。ましてや、国民学校では習っていない。白紙で出さざるを得なかった。数日後、別の授業のときに坂入先生が結果を伝えに来られた。“何番何点”という読み上げ、なんと零点が圧倒的に多い。坂入先生、たしか、23人が零点、もう少し勉強を・・・といって去られた。約50人のクラスメートの半数が零点、先生には出来の悪い連中だと映ったに違いない。悔しいが零点の仲間が多いのにホッとした。
 ほかの教科でも理科も物象(物理・地学)と化学は盛り沢山でかなり先を進み、物象は音波から電気や磁力、電磁波までいっていたように思う。歴史は日本史の記憶がなく、世界史オンリーだったように思う。この中には東洋史も含まれていてかなり膨大だったが、担当の中金先生(チュウキン)がスピードをダウンして教えて下さった。お陰で息抜きが出来たし、中金先生に対する生徒の評判は高かった。

英才集団のなかの奇才、秀才、鈍才
 間借りしているのに誠に僭越(せんえつ)な話だが、伸び盛りの十代にとって校舎がこぢんまりしすぎている。3階地下1階建てだったが、机や椅子は勿論のこと、教室も児童向きだし、校庭もコンクリート張りだが、400メートルどころか200メートルのトラックすらひけるかどうかおぼつかないほど狭い。屋内体育館は舞台とそれに面した三方に縦三段ほどの席がとれる細い通路風の二階部分があったが一階の板の床はバスケットボールやバレーボールのコートを取るといっぱい、いっぱいだった。
 それでも授業の合間の10分間や昼休み時間などには狭い校庭にも人の輪が出来る。教室にこもって次の授業の準備にかかる連中もいたが、息抜きや日向ぼっこ、あるいは勉強の中身の話や無駄なおしゃべりなどで短い時間でも外、教室を離れるものが結構居た。
 そうした戸外の時間が、実は思いがけない効果をもたらした。上級生と下級生との交流である。今でもそうだろうが、上下の交流は部活にある。当時も部活が根源であったことは間違いない。僕も音楽班に入っていて翌日校庭で先輩に会う。小心者だが、あいさつだけは出来た。その先輩が友人と話していれば、必ず友人に紹介してくれた。また、クラスメートと出たときに、彼の先輩に紹介された。そんな繰り返し、今でもそうだろうが、校庭が狭かったが故に逆に交流のスピードは期待以上に速かった。狭さの効用か。
 ある時のこと、2年先輩の加藤祐策さん(元郵政官房首席監察官)と幾人かの友人と一緒に話し込んでいたところ、“加藤、加藤”と太い声でいって大柄な先輩が近づいてきた。見ると、片腕が肘から下がなく、もう一方の手は指が2、3本ない。Mさんといい、加藤さんと同学年だった。Mさんの異様な姿はそれ以前に見かけていたが、あまり詮索などしなかった。加藤さんは“おい、何だ”と返事をすると、Mさんは“加藤、おまえの腕を咬ませろ”という。もともと、にこやかな加藤さん、“ああ、いいよ”といって腕をまくったところ、すかさずMさん、がぶりと加藤さんの腕を咬んだ。
 そして曰く、“ああ、気分がすっきりした”、上機嫌のMさん。加藤さんはというと痛いともいわず、相変わらずにこやかな顔を崩さない。印象に残るシーンだ。後で聞いた話だが、Mさんは(入学後と聞いているが)人並み以上の才能の持ち主で化学実験に興味を持っていた。あるとき一人で実験に取り組んだところ、突然爆発し、手や指を失ったということだった。う〜ん、Mさんは秀才でもあるが異才、奇才の一人だと思うがどうだろうか。
 四中は英才教育を貫いてきたが、英才教育とは勉強の出来る子を育てると理解している。それから外れた人達はやはり奇才の部類だろう。英才教育への反発だろうか、本線から外れながら世間に名をなした人もいる。例えば芸能界、俳優でいえば僕が四中に入ったころの上級生に高橋昌也さん、瀧田裕介さんがおられた。秋の学芸会で演じられたのを見た記憶があるが、高橋さんは学内で数回お見かけしたことがある。グリーン系の戦闘帽を被っておられたが、なかなかのハンサムで男らしく、我が劣る面相風体を嘆いたものだが、かなり年代が経って民放テレビに出られた。アナウンサーとの対談だったが、そのときのやりとりが妙に振るっていた。高橋さんが牛込の愛日国民学校、四中を出たと紹介したあと、アナウンサーが‘(愛日)四中なんてすごく優秀、級長ですね’というような問いかけをした。これに対して高橋さんはすかさず反論、“級長になる(器の)人は決まっているんです。ボクなんかなれやしません”ときっぱり答えられた。僕も当時の自分を振り返って優れた器ではなかったので、すぐに納得、名優になる人はありていを語る、ひと味違うなと感心した次第である。僕の知る範囲では、ちょんまげ姿が凛々しい俳優の山口崇さんが3年後輩(昭和30年卒)と聞いている。語弊はあるものの優れた上級学校に出来るだけ多くの人材を送る英才教育、当時それを外れた道を進むにはかなりの抵抗があったに違いない。後で知り得た情報だが、芸能各界でそれぞれ活躍された先輩がいる。文学座創始者の一人、三津田健氏も先輩(大正11年卒と聞く)で俳優の草分け的存在といわれる。映画監督の谷口千吉さんも先輩(昭和5年)、氏の戦後の大作で人気俳優・池部良さん主演の東宝映画「暁の脱走」は一般公開初日に見たことを覚えている。音楽では歌謡界きっての売れもの「ハマクラ」こと浜口倉之助氏も昭和10年卒業、早稲田に行かれたが、勉強より音楽一途、その後、青学(青山学院)に転校された。一風変わった流儀で「黄色いサクランボ」など斬新な曲を発信して人気をさらった。同期の石川正久氏の主宰する“パイラスクラブ”に顔を見せて下さったらしく、そのときお会いした連中が感激?し、今でも語り草にしている。ついでにグレイゾーンに触れると、文学では「銀の匙」を書かれた中勘助氏は明治35年卒、中さんの本は有名で、その存在は四中に入る前から子どもの心に刻まれていた。僕が曲がりなりにも進んだジャーナリストも四中の正道から見ればどうやら道外れだろう。辛口コメントで人気のある政治評論家の細川隆一郎氏も昭和13年卒業の先輩だ。このジャンルで活躍された、あるいは活躍中の方はほかに大勢おられると思うが、僕の頭にある情報はこの程度しかないので横道?話は、ここで止めて、いよいよ核心に迫ってみたい。
 それは四中精神の神髄というもの。その厳しい英才教育に耐えて日本の社会、その各界で活躍された方はそれこそリストアップ不能なほど多い。鈴木タンクさん(体育)、ブルサギ先生(英語)などが授業中にぼやかれた話を総合すると東京都ばかりではなく全国的に見ても戦前の上級学校進学の実態は日比谷高校の前身・府(都)立一中と我が府(都)立四中のトップ争いに終始したという。程度のあまり良くない僕が言うのも些か気がひけるが、その根拠は一高・第一高等学校の合格者の数で神話まがいの話が流布されたようである。戸山高校を卒業してかなり経ってからそのことを思い出した。当時仕事もやや暇だったこともあって実際はどうだったか調べることにした。
 どういう方法で調べたか忘れてしまったが、大正の末期から古い名簿などを頼りにこつこつとピックアップした記憶がある。結果は、昭和八年春の一高入学者だけ四中がリード、大差はなかったが、後の年次はことごとく負けていたことを覚えている。
 原因を手繰っても詮なきことだが、先輩への援護射撃として次のことが言えるのではないか。まず、僕らの年代で比較してみると都立日比谷高校から新制東大を受験するものは戸山高校より圧倒的に多い。昭和27年の数年後だったと思う、東大を受けるのは戸山が浪人を含めて400人から500人弱程度だったのに対し、日比谷は総勢900人か、その数を超えていた。数の論理ではないが、グロスで多ければ当たる率も高いと言えなくもない。それに戦前でも四中から東京商大の予科や東京工大に通じる蔵前工専に進学する生徒もかなりあったことがうかがえる。他人の学校を勝手にえぐるのは下劣かも知れないが、都立一中の場合は(旧制)一高に傾斜、都立四中は仙台、京都、金沢など地方の旧制高校や単科の専門学校に英才を送り込んだ。故にいわゆるこの秀才・英才レースはドローということにしたい。ただ追加で一言、最近出身校を言い憚る風潮が強い。これはおかしい。無用な競争心を煽るとか、無用な優越感や劣等感を持たせて教育上よろしくない、いじめの元になるとか口さがないが、(正当な)競争心のない社会は衰える、これを避けるためにはもっと競争の心を駆り立てて行く必要がある。
 このジャンルに属する先輩(あるいは後輩含め)は多士済々。選別し取り立ててリストアップする資格は出来のあまり良くない僕にはない。世に名をなした方十数人は頭に浮かぶが、敢えて個々の名前を挙げるのを避けさせていただく。その代わり、四中に入って僕が一番悩み、今もって解決しないことをお伝えしたい。
 それは「秀才、鈍才を一目見て見極めること」である。皆さんも経験がお有りだと思う。例えば、入学試験や入社試験などではみんなが出来そうで、自分だけが見劣りを感じる。逆に馴れた集団ではほかの人物が見えなくなるのか自分一人が抜きんでているような錯覚に陥る。
 後者に近い例として四中に入って最初の出合いのクラスメートを引き合いに出して見よう。我がクラス・一年丁組には安仁屋政彦君と村上龍雄君の二人の小兵がいた。背が低くて一見何の変哲も感じられない。安仁屋君は沖縄がルーツらしく、眉毛が太くて目玉が大きかったが、顔の広さはそれほどではなく、一見地味な存在だった。
 村上君も顔はそれほど広くはなく、やや面長で首をあげた横顔が太閤様に付けられた霊長類に若干似ていた。まだときが過ぎないある漢文の授業で「こそん」という漢字がでてきた。‘こ’はけもの偏にえびすの胡、‘そん’はけもの偏にまごの漢字、孫を書く。悪戯がきが早速村上君の贈り名にしてしまった。彼は怒った。しかし、その贈り名は固定し使われていた。そして迎えた学期末、安仁屋君、村上君は飛び切り良い成績で進級した。二人とも相変わらず控えめの態度に終始していたが、村上君の贈り名の頻度は急速に減った。
 一方、クラスで活発というか騒がしい連中はどうだったか。成績のよかったのは山口裕之君ぐらいで、おとなしかった僕も含め中程度に収まった。やはり入試の競争率の低下がもたらしたのか、我々中庸以下の連中は名門校の名を汚す鈍才集団を形成してしまったのである。

通学地獄が成績低下に追い打ち
 居残りなど厳しい四中名物?は消えていったが、旧制中学1年の勉強そのものは顎がでるほど大変だった。数学、英語、国語の期間科目はほぼ各先生は宿題を毎時間出した。それにガニハチ先生のように習っていないパートを考査(試験)に出されるから、自分で考えて自習をしなければ到底良い成績はおぼつかない。僕は自宅から山手線の恵比寿駅で乗車、新宿駅で乗り換えて都電の13号線の万世橋行きに乗り、帰りはその逆を行って帰宅したが、都電はまだしも特に登校時の山手線の混みようは言語に絶する酷いもので、乗り遅れては大変と必死で乗ったあとがすし詰めで身動きが出来ず、鞄も挟まれて取られないようにするのがやっと、新宿のプラットホームに降り立ったときにはホッとした瞬間、疲れがどーっと出る始末。それに背伸びして入った学校なので‘もういいや’という諦めもあって、予習、復習は1、2回でやめた、というより体力が続かずやめざるを得なかった。勿論指されることもあったが、判らない、を連発したり、時には訳の分からぬ解答をして失笑を買ったりした。既に居残りはなく先生も咎めることはなかったので気分的には救われたが、今思うともう少し頑張ればよかったなぁ〜と自戒の念に襲われる。

顕わになってきた世の中の変化
 そうしたなか、GHQの威令が徐々に各方面に浸透し始めた。教育界も例外ではなかった。昭和21年早々には現人神(あらひとがみ)と畏れあがめていた今上天皇が人間宣言をされたのには子供心にショックを受けたし、東京裁判が5月には始まった。英語を(中国語も)得意がっていた父親は‘拓三、英語で(東京裁判を)何というか知っているか’と言ってすぐに「ファーイースト・インターナショナル・ミリタリー・トリビュナル(・コート=法廷)(Far・East・International・Military・Tribunal(・Court)=横文字筆者加筆)」と発声、得意がっていた姿が今でも浮かんでくる。東京裁判では東條英機元首相や戦前、戦中を含めて錚々たる軍人政治家、高級官僚が戦争犯罪者として裁かれようとしていた。その是非については長じて疑問に思うように至ったが、当時は‘こんな惨めな状態にして・・・’と敗戦の責任をとるのは当然だという感じだった。ところが、数日後、東條元首相が四中の先輩ということを知った。多分、徳さん(鈴木徳之助先生)の体育の時間のときだったと思う。間借りの屋内体育館で授業開始で1列に横に並んだときに“・・東條さんは君らの先輩なんだ”といわれた。唐突な話で耳を疑ったのは私だけではなかった。誰かの身上調査で、あの先輩は、岩手の出身だが、なにかの理由で四中に入学、二年で幼年学校に進学した、ということで、結局、卒業生ではなく在籍した先輩と言うことが判った。先輩ということで元首相に対する感じは些か和らいできたが、それとともに裁判に対する関心は薄れていった。
 夏から秋にかけて世の中は公務員や現業(後に言う三公社五現業)職員、大会社の社員や作業員による組合、いわゆる労働組合が作られていった。先生は別格と思っていた教育界にも波が押し寄せ、教職員も組織化されていった。
 四中にもやがてその兆しが現れだした。

“ガンマ”は逆にすれば“マンガ”
 夏から秋にかけてのある一日、コンクリートの校庭で会った先輩から、明日、講堂で集会があるから一緒に出ようと、誘いが掛かった。どんな集会か聞いてみたら、‘学校から押しつけられた教育でなく、生徒自身が自発的に自分を磨いていくようにしようという集まり’という返事が返ってきた。当時、勉強に辟易していたので、何となく興味をそそられた。
 そして、当日、屋内体育館と兼用の講堂は生徒で三分の二以上が埋まったように記憶している。壇上には早稲田大学の俗にいう‘ザブトン帽’を被った先輩が右裾に居てしゃがんでいた。
 集会が始まると会はザブトン先輩の独壇場で進行した。彼は教室、クラスの民主化が基本になると説いた。級長、副級長は学校側の指名だ。クラスの選挙で民主的に選んだものを級長に当たる委員にしよう、などと大きな声で集まった面々に呼びかけた。復員して間もない‘すずめ氏’(平賀幸五郎先生、国語担当)も参加、壇上で立ち上がって教務主導の保守教育の打破、職員室の民主化を訴えられた。ザブトンマンは講堂の参加者に向かって質問がないか何度か問うたが、ほとんど質問するものはいなかった。それもそうだ。長年、上意下達にならされた者に突然、物を言えといってもすぐには声にならない。ついにザブトン先輩が言い放った。
 “ガンマ(柴田先生)も逆さまに言えばマンガだ。怖くはない”
 この一言で会場は和やかな雰囲気になった。そうなると話は早い。生徒の自治会=生徒会を作ること、先生の了解を得て授業の冒頭、クラスで趣意を説明し、即刻、クラスの代表を選び、再び集まるという結論になった。ザブトンマンは最後に‘この会合に集まってきた意欲のある君らが委員(生徒会)になれ’といい残して去った。
 一年丁組から集会に出席したのは僕一人だけだった。クラス全員に説明するには荷が重い。はてどうするか。当時の級長、副級長は誰だったか覚えていない。山口裕之君に相談した。山口君はその頃、先生の質問に答えよく発言し注目を集めていた。言下に‘君なんか選ばれるわけはないよ’と彼に否定された。先に紹介した話ではないが、高橋昌也先輩の言うとおり、当時、級長というかクラスを牛耳る者は学業成績がいいか、そう見られる奴しかなれない、そんな雰囲気が大勢だった。日ごろ‘ドジ’を踏んでいる僕には山口君の言うとおり資格はない。結局、僕が降りることで山口君を引き入れることに成功した。
次は、どの先生にお願いするか。威厳?のあるダイシェン(福島正義先生=漢文)や端正で律儀なクラス担任のロバさん(小川貫道先生=古文)は話しにくい。思案の果て、行き着いたのはチュウキンさん(中金武彦先生=東洋史)だった。中金先生は学生服を思わせる襟に黒の蛇腹の付いた紺の詰め襟服を着て髪はオールバック、授業中、時々冗談を飛ばして我々を笑わせるダンディーボーイで生徒の人気は抜群、先生なら聞いて下さるとのやや甘い予測があった。だが、先生は生徒たちの集会の話などを事前に聞いておられなかったようだ。渋い表情だったが、10分ほどの条件で冒頭の時間を割いて下さった。
 説明は山口君にお願いした。人を決め付けるだけあって、話の運びはうまい。頂いた時間内でクラス代表まで決めた。推挙されたのは勿論山口君だ。
 最上級生を除きほぼ短期間にクラス代表が決まり、世間の労働者の組織化の流れも手伝って四中内でも学園民主主義が船出をした。

束の間の“楽園”
 先生のたまり場、職員室の実態は全く知る由もないが、スズメ氏の発言によると教務一辺倒の雰囲気があったらしい。その職員室の空気もその後の先生方の姿を拝見すると次第に軟化してきているようだった。
 一方、我々生徒の方は民主的?な組織が生まれたのに、その具体的な動きはなかなか伝わってこなかった。しかし、上級生の先輩たちが妙な歌を歌い出した。曲はアメリカの民謡か軍歌と言おうか、あのリパブリック讃歌、のちに松田トシさんが歌った「太郎さんの赤ちゃんが風邪引いた」と同じフシ回しで四中での勉強を揶揄(やゆ)した替え歌だ。覚えているのは数節しかないが次のような文句である。
         ○乞食袋を重そうに
          カネの合図で集まって
          教室探してゾロゾロと
          行けば数学か。
         ○花王石鹸(せっけん)の三角が
          やっと済んだと思ったら
          座標・原点・抛(放)物線
          これが解析か
         ○孔子や孟子が酒飲んで
          一杯機嫌でホラ吹いた
          論語なんか知るもんか
          いやな漢文だ
         ○昔もむかし大昔
          兼好法師や貫之が
          寝言を書いた国文は
          溶けた水飴か
          ・・・・・・・・
何番か続くが覚えていない。
 この歌が唄われ出した。いずれも先生を贈り名で揶揄したものだったと記憶している。二番目の花王石鹸は数学の広瀬先生の贈り名で、おそらくはこのくだりはガンマ・柴田先生の授業を揶揄したものではなかったかと思われる。どうも学園民主化の具体的な動きといえばこの歌しか見当たらない。
 最近になってこの替え歌のもと歌が判った。亡くなった兄の陸士同期の方から歌が好きなようだからといって偕行社発行の「雄叫び」という軍歌集を頂いた。ページをめくっていると替え歌にほぼそっくりの歌詞にぶつかった。
 題して“学科嫌い”。原題は「おれは学科が大嫌い」で陸軍中央幼年学校10期生の水島周平氏の作詞と説明があった。それに、この学科嫌いは14節もあり、僕の記憶にある数節よりはるかに多い。やはり水島さんの作った詩が原歌であることは間違いない。そして読めた。戦雲急を告げたころから陸士や海兵、幼年学校に進む四中の卒業生が多かったと聞いていたが、終戦で復員した先輩たち(幼年学校在学の生徒は戻ったらしい)が持ち帰り、四中向きに替え歌にした。勉強嫌いなんて言えない四中の雰囲気だったが、学園に自由?の空気が出始めて口誦、たちまち広がった。勿論、優等生の何人かは顔をしかめた。当然だろう。崇める先生や得意な学科を揶揄している訳だから。しかし、文字どおり、勉強嫌い、学科の成績もあまり良くない僕にとっては鬱憤(うっぷん)をはらす格好の材料だった。先生にも評判はあまりよくはなかったが、劣等生を中心に一時は学園の流行歌ナンバー・ワンだった。そんな愛唱歌、まだ数節あったのに、もと歌を見ても思い出せないのは“情けない”の一言である。

忍び寄る“学制改革”に広がる動揺
 中学1年生も板に付いてきた昭和21年の秋ごろから奇妙な話が流れ出した。来年の新学期から我々の学校がなくなって新しい中学校が出来るというのだ。なく子も黙るGHQの指図という。のちのち言われる“学制改革”である。昭和16年から続いている国民学校がそのまま小学校になり、その上に中学校が出来る。小学校は従来どおり6年間だが、中学校は3年間で小学校を終えたものは全て進学する。つまり、これまで国民学校の6年間だった国民が受けるべき教育がさらに3年間伸びる。それからは進学するなり、社会で働くようになる。
 僕らの中学校は高等学校になってその進学希望者の受け皿になる。その期間は3年、これまでの高校、大学は改変して新しい大学を作り、新高等学校卒業者の進学先とする、いわゆる六・三・三・四制の新教育制度に来年の春から日本の教育が変わるというのだ。
しかし、具体的にどうなるかは知る由もなく、いろいろな思惑が行き交う。年数をドライに当てはめれば現在の3年生から5年生は来年は新しい高校の1年生から3年生になるわけで、まず、安泰である。では我々や1年先輩の2年生はどうなる?これが我々の戸惑いであり、一番の関心事だった。
 あるものは新設される中学校に行くのだとか、俺たちの中学が出来るのだとか、終いには、“どっぺっ(独語のdoppel=ダブルから2度やるの意味)”ても新制中学の1年にはなれる?などとうそぶく悪ガキも出る始末。これには断罪が下った。ジャガイモこと、化学を教えていた佐久間元朗先生の一喝だった。“新制と我々の制度内容が違う。もし、君らが進級出来なかったら、行き場がない。宙ぶらりんだ”。この言葉は効き目があった。悪ガキといってもまだまだ子ども。急に大人しくなり、必死にはい上がろうと勉強し出したのは笑えぬ光景だった。

レベルの高かった課外活動
 自由な雰囲気が徐々に浸透するとはいっても四中の授業内容は相変わらず厳しい。勉強が好きだという少数派?はともかく、大多数は息抜きを求めていた。それが課外活動。昔からの文武両道の四中精神が残るなかで、生徒はそれぞれ今でいう“部活”の道を選んだ。
校舎も狭い、器具の乏しいなかで何が出来るのか、疑問を持ちながら僕は音楽班を選んだ。兄の見よう見まねで子どものころからハーモニカを吹きはじめ何となくなじめそうだったのが入部(班)の理由だ。同級生では、八木保君、那須野稔久君、桑島秀郎君ら十数名が加わっていた。春田節夫先生が部長か顧問で、合唱のときはタクトを振っておられたが、目を見張ったのは多彩な先輩たちの業だった。
 まず、三年先輩の4年生・小林(英雄いう方と記憶)さん、ピアノの名手で、当時、進駐軍のキャンプ等を通じて入ってきたアメリカン・ジャズをものともせず巧みに弾いてみせ、みんなをアッといわせた。また、二年先輩の3年生・長峰晴夫さんのハーモニカは抜群、スピードを要する「アメリカン・パトロール」や難解な「ダニューヴ川の漣」を流暢に吹き、僕もその巧みさに舌を巻いてしまった。兄は大連の宮田東峰氏系列の教室に習いに行っていて、小学校のときラジオ放送で演奏したこともあるので上手かったが、それを上回る技の持ち主、若いとき習わなかった、いや、習わしてくれなかったことが残念で悔しかった。ほかにも、楽譜の読みに通じたもの、勿論声のいいもの多彩な顔ぶれで今更ながら“おそれ入谷の鬼子母神”だった。
 1年のときに歌った合唱曲は「希望のささやき」、「谷間の教会(英語版)」、1年から2年にかけて「御空(みそら)は語る神の栄光」、「流浪の民」、「芸術の殿堂」などがある。ちなみに合唱のパートはボーイアルトだった。

戦争直後でもこんなことも
 春田先生にはもう一つ、1年生のときに私的にお世話になった。短い期間だったが、バイオリンを教わったのである。
 昭和21年の秋が始まるころに兄が古道具屋からバイオリンを仕入れてきた。手入れはよくされていたが、二束三文だったそうだ。中央の2つにf字型の切り込みから中を覗くとなんと横文字でストラディバリウス(Stradivarius)と書いてあるではないか。勉強嫌いの僕でも世界の名器であることぐらい分かっている。バイオリニストが喰うに困り果てて手放したのではないか、と想像した。
 ところが、その話を山口裕之君に話したら、彼はすぐに“それは偽物だ”という。いくら日本が貧乏でも名器がそんな安くで手にはいるわけがない、というのが彼の理由だ。山口君はここでも負けず嫌いの本性を現した。実は、そのとき、彼もバイオリンを買った、ということを漏らした。彼の楽器は弦を手で押さえるところに区切りがあってそれぞれ色分けされている、つまり子供用、それも教習用だったのである。大きさもやや、小ぶりであった。
 その彼が折角だからバイオリンを習おう、春田先生に相談してみよう、ということになった。彼は口が悪いが、やはり回転が速い。2人で頼んでみたら春田先生は快諾して下さった。そして、週1回だが、放課後のレッスンが加わった。ただし、当時の治安状況は悪化していて学校では預かれない、必ず持ち帰りをするようにという条件だった。山口君はたしか世田谷区内だったと思う。僕は家と恵比寿経由で原町小学校の校舎間を週一回運ばなければならないが、魔の山手線の混雑の中を大人のバイオリンを運ぶのは言語に絶する苦難そのものだった。朝などは人波にもっていかれそうになったり、こんな荷物、持ち込むな、と怒鳴られたりした。
 それでも、十回前後はレッスンを受けただろうか。山口君は少しは進んだようだったが、僕の方は遅々として進まず、特に左手の小指の圧力が弱く、また、顎に挟むバイオリンが重く感じて辛かった。暫くして、春田先生の方から、都合でレッスンを中止したいと申し入れがあり、バイオリンの教習に終止符が打たれた。せっかくの先生の指導に答えられず、いまだに申し訳ない気持で一杯だ

わが中学のラストステージ
 年が明けて昭和22年になると、労働運動が高まりを見せ、2月1日には官公庁の労働者が総員仕事を放棄するゼネラル・ストライキを計画、マッカーサー(連合軍総司令官)指令で中止のやむなきに至った。そのストライキを指揮するトップ(朝日新聞年鑑によると伊井弥四郎共闘議長)が泣いて中止を宣言する写真の姿はうろおぼえに覚えている。僕らはそんな世間の出来事どころかもっぱら学科の勉強に打ち込んで落第だけは避けなければならない。そんな甲斐あって事情のあるものを除いて全員進級した。
 当時の通信簿の評価は定かに覚えていない。操行だけは甲・乙・丙・丁・戊だったと思うが、学科の評価は10段階か優・良・可・不可だったか分からない。まだ、5段階は導入されていなかったと思う。
 卑近な例でいえば、僕は音楽と地理が得意だったが、あとは平均点しか取れず、中庸の成績に終わった。