終戦直後の風雪に耐えた名門校

                             昭和27 森 拓三

第三章  新学制スタート・下級生がいない四中2年生

万年最下級生時代の到来
 “君らドッペッたら宙ぶらりんで行き場がない”と脅し?をかけたジャガイモ(佐久間先生=化学担当)の発言は実現せず、僕らは安堵の胸を撫で下ろした。しかし、伝統ある都立第四中学校も分断された。メインは3年制の高等学校で、都立第四高等学校という名称に変わった。その下にこぶのような付け出し部分がぶら下がる。新しい中学校に相当するものだ。そこが新2年生と新3年生の居場所となった。ただし、全国津々浦々の市町村に新設される新しい中学校とは別格?で、僕らが進級して卒業すれば、自然消滅する。従って、その名も都立第四高等学校併設中学校といういかめしい肩書きが付いた。勿論、制度改革は公立だけではない。国立や私立も例外ではなかった。しかし、国立の一部や私立の中学校が高等学校化しても中学部分は併設中学校と違って新入生を募集出来る。記憶の片隅にしかないが、当時、従来の公立の中学校も私立並にしたら、という話も一時あったようだが、立ち消えになった。新しい中学校の管理が市区町村であるのに高等学校が都道府県という違いが1つのネックと聞いたことを思い出す。
 かくて、われわれ新2年生は時が過ぎて5年生、つまり高校2年生になるまで後輩のいない最下級生時代を続けることになる。

“鶴の一声”唐突な学制変革
 万年‘味噌っかす’となったわれわれも低階層という惨めな思いだけではなかった。校舎が小学校サイズで狭かったせいか、部活以外にも先輩上級生と接する機会が多く、最下級生が故にさらに先輩たちの面倒見が良くなった。単純にいえば、例えば先生の好みや出題の傾向、癖などを教えてもらい、試験の際の参考に役立てるというやつ。僕も含め救われた連中が結構いたように思う。
 ただ新教育制度への移行はたしかに急激に行われたのは事実だ。今なら非難ごうごうだろう。しかし、当時のことを思い出そうとしても批判や反対の声などは出てこない。結構尽くめだったようだ。強いて挙げるとすればどなたか先生がこれから学力は落ちるだろうなあ、と呟いたことぐらいだろうか。
 それもその筈だ。当時、既に超法規的、絶対権力を握っていたGHQ=マッカーサー総司令部の厳命だったからだ。形は日本政府の公布となっているが、そこには深い落とし穴がある。反対すれば有力者はスガモプリズンへの投獄はともかく必ず公職追放になる。報道機関とて例外ではなかったようで、家でとっていた新聞(多分朝日だったと思う)も逆らう記事はなかった。イケイケドンドン?
 既に水面下でうごめいていたといっても表面化したのはいかにも唐突だ。学制改革をうたった教育基本法と学校教育法が公布されたのは学年境の昭和22年の3月31日、翌4月1日から従来の中等学校、高等学校、大学(以後呼び名の頭に旧制の文字が付く)が廃止され、いわゆる6・3・3・4制に切り替えるというのだ。これは無茶だ。特に各市区町村に新設される公立の中学校をまもなく始まる新学期からどうやってスタートさせられるのか。
 校舎、先生の調達など問題山積だ。まともには到底考えられない。

“民主化”で圧勝の新制度
しかし、“教育の民主化”というキャッチフレーズは絶対だった。絶対権力の意志もさることながら一般の風潮も味方した。6年だった義務教育が公平に9年まで勉強が出来る。‘これは良いことだ’素朴な回答だ。当時は家業のため、あるいは貧しさのため進学出来なかったり、進学を断念するケースがごまんとあった。
 僕にも身近にそんな立場に置かれた友人がいた。国民学校のクラスメート、山本君は勉強もよくできたが、親代々の家業を継ぐと言うので進学せず大工の見習いとなった。当時の僕は未熟で、山本君のような例はなくなる、と即断、迷わず9年義務教育に賛成した。それに、実体験も追い風だった。あの過酷な?勉強が些か楽になったのである。
冷静に考えれば当然の話だ。国民広く与えるとすれば程度を落とさざるを得ない。中学校の授業も程度を落とさざるを得ない。しかも、われわれ、併設中学校の教科内容も全く同じにするというから、これは‘楽’だ。
 教科書もそれなりに作られた。代表的なのは英語の「ジャック・アンド・ベティー」だろう。われわれが旧制中学1年で使っていた英語の教科書は何だったか思い出さないが、仲間の間で‘程度は落ちたなあ’と話し合ったことを覚えている。実際には中学2年生はわれわれ併設中学校にしかなかったのだが、新制中学校での将来を考えて作られた節がある。国語も数学も教科書があったようだが、思い出せない。ただはっきりしているのは理科でやや薄い冊子で「電氣が作られるまで」、とか「水ができるまで」というようにユニット番号が付いて単体?を標題にした教科書が配られた。しかし、2年生用とか3年生用とか、あるいは1年生用とか指定されてはいなかったように思う。先生に選択権がまかされた感じだった。

孤高を守った旧四中の教育
 民主化の代償に“軽く”なった新教育制度のもとで併設中学校の実際の現場はどうだったか。新ルールで押しつけられる教科書以外に副読本を結構沢山買わされた。基本3教科のうち特に英語は2、3冊あった。いま記憶にあるのに英国の作家チャールズ・ラムと姉のメアリー・ラム共著の「セーラー・アンクル」やアメリカ小作品集(アメリカの開拓先駆者ダニエル・ブーンのエピソードなど5、6篇を収録)がある。いずれも、真新しい単語が続出して程度は高かった。
 教科のなかでも教科書のあるものについては、こなしたほかにエキストラの部分がはるかに多かった。当時の管理態勢は知らないし、知るべくもない。厳しいと言うより自由の雰囲気のなかで我が(旧)四中の先生方は従来どおりの教育方針を採られた。だから、その後の公立中学校と比較してもかなり高いレベルの教育をわれわれは受けたことになる。

ゆとりと悪化した家庭の状況
 従来とほぼ同じ指導を決められた先生方も自由な空気の浸透で昔ほどには勉強の強要は出来なくなった。しかも、新しい理科のように教科書自体が1年で習ったことと共通する部分が多く、復習の部分がかなりあった。その結果は・・・、個人的に‘ゆとり’ができてきたのだ。それがどこに行ったのか。
 既に1年の半ばからわれわれ仲間のうちで、はやり出したゴムまり使用の草野球、(チャンベースという命名をクロケンこと英語の榎本一郎先生がされたとあとで聞かされた)、そのチャンベースにうつつを抜かすことになる。わ僕らの1年グループ仲間は毎回顔ぶれは変わるが、常連は1、2年生合わせて10人前後、その中には1年先輩の南沢さんがほぼ常時付き合ってくれた。時間は放課後から1時間から2時間ぐらい、場合によっては日没ギリギリまで及んだ。あるとき試合は6時過ぎになった。そのとき校舎の北側にある職員室の出入り口の扉が開いた。コンクリート製の踊り場にでてきたのはガニハチこと数学の坂入先生だった。“君たち、何時だと思っているんだ。早く帰んなさい”と注意された。先生からのお叱りはこれ1回きりだったが、それ以後は早く切り上げることになった。
ちょうど時を合わせたように僕の家の事情が急変した。六部屋のうち二部屋を家主の意向で明け渡すことになり、我が家が急に狭くなった。それに、骨髄炎を患っていた兄が昭和22年の春に旧制東京高校の理乙に入学した。そこを選んだのがふるっている。‘これまで病気に苦しんだ。これからは病に苦しむ人をできるだけ多く助けたい’というのが格好いいセリフだった。理乙はドイツ語が主要語学で将来医師になる人が選ぶ学科だ。ところが兄の思いはまもなく挫折、その青雲の志を全うできなかった。それは骨髄炎の再々発が原因だった。彼は新学期に入ってまもなく病に倒れた。
 親父は既にかなりの貯金は使い果たしていた。1年前のように本郷の東大附属病院に入院させる余裕がなかった。それでも、兄の快復のために近所の軍医あがりの外科医を主治医にして動脈注射などを打ってもらったりした。足の骨の腐骨が暴れるたびに兄はうめいたり、痛がったりした。そのため年寄り用に仕切られた四畳半の和室に兄を寝かせていた。それでも兄の声が隣室にも響いてくる。それに物資不足の時代、使ったガーゼを煮沸して再利用するが、その甘ったるいいやな臭いが鼻について離れない。とても家に居れる状態ではなかった。
 休日や祝日になると僕は朝10時ごろから家を飛び出した。行き先は歩いて2、30分かかっただろうか。クラスメートで仲良くなった稲田力君の家だ。目黒の碑文谷だったと思うが、稲田君の家に着くと11時頃になる。稲田君は僕より出来がいいので、彼から勉強の進み具合をオサライする。たまには“つぼ”はどこなのか聞き出す。家では勉強しないし、できない。代わりに稲田君からの耳学問で知識を身につけていったといっても過言でない。おやつも稲田君のお母さんが出してくれたし、たまには昼食も頂いた。稲田君なしでは語れない「2年生の私」だった。

迎えた先生の大量交代時代
 併設中学校と肩書きを代えても先生方の努力で当初教育内容はほとんど変わらなく新制がスタートしたことは触れたが、やがて変革の影響がじわじわと押し寄せてきた。先生側の変化である。大量に新設された新制度の中学校の影響で、これまでおられた先生の10人前後が新制中学に代わられ、新たにそれに見合う以上の先生が見えられた。

嚆矢は東大からの2先生
 昭和22年4月の新学期が始まって早々、東大(東京帝国大学)から2人の先生をお迎えした。数学の武藤徹先生と化学の高木健二先生。ちょうど天候が悪く、間借りの原町小学校の講堂兼屋内体育館での朝礼で紹介された。お二人ともモスグリーンの国民服に戦闘帽を被られていた。あいさつは、いずれも短く、ただよろしくと言われただけだったと記憶している。また、お二人とも戦時中日本男児の理想的体型といわれた五尺五寸よりは小ぶり、大体同じ背丈だが、武藤先生は細面(ほそおもて)で痩せ形、高木先生はずんぐりむっくり型で、その取り合わせが何となく奇妙に映り、両先生が壇上に並ばれたときには、今様言葉で言えばアンバランスの極みで思わず館内の生徒たちから爆笑?が起こったことを覚えている。

学術書と移動のジャクさん
 早速、どことなく贈り名=綽名が伝わってきた。1メートルに満たないサンジャク(三尺)、高木先生に贈られた名である。誰が付けたか分からないが、ピッタリ。未熟な子どもが先生に付ける名は名誉毀損もそっちのけだが、実に見事である。高木先生には校内で評判になった行動がある。先生の登下校の出立ちは買い出し姿なのである。身長の半分を隠す大きなリュックサックを肩に掛け、お家のある厚木(神奈川県)と新宿の校舎を行き来されるというのだ。大きな入れ物は満杯近い。当然「何が入っているんだ」と誰しもが訝(いぶか)る。やがて、あの中は学術書でいっぱい、という噂が流れた。あの先生なら尤も・・・とそれが通り相場となった。しかし、中を調べたという輩はいまだに聞いていない。

気取らない博学の勉強家
 武藤先生は着任された直後から超秀才の誉れ高い話が伝わった。先生は、高校時代に僕にエールを送っていただいた数少ない恩師のお一人である。そんな先生を引合にだすのは忸怩(じくじ)たるものがある。しかし、素通りできない貴重な話故に敢えて書き留めることにした。その噂というのはこうだ。
 武藤先生は旧制大阪高校から東京帝大の理学部数学科に入られた。卒業時は学科2番で卒業されて四中に来られた。ここまでは、ありきたりの履歴の一部だが、これに更に尾鰭(おひれ)みたいな添え口上が付いた。曰く“2番なるが故に大学に残れなかった”と言うやつだ。この文句には‘さすがは帝大と言うものもいたが、今更ながら‘厳しさ’を実感をもって受け止めたものが多かった。
 先生には中学ではたしか2年生のときに週に1時限ほど解析1(数学)を教わったほか、高校2年では年間通して幾何を教えていただいた。先生の博学ぶりはすぐに現れた。着任されてまもなくの2年の数学の授業のときだと思う。出来の悪い連中には堅い数学は苦手で面白くない。すぐ私語でがやがやうるさくなる。

私語を黙らせた小咄(こばなし)
 そんなあるとき、先生は息抜きと言われてハワイに伝わる小咄をされた。かちかちと思われた先生の話と言うんで悪ガキも私語をやめ先生の方を注目した。話のテーマは“リトル・インプ(小さな妖精)”と言ったと思う。
 少し長くなるが、ご紹介しておこう。記憶にある中身のあらましこうだ。
 “ある貧しい若者が市場?で不思議なランプを見つけた。中に妖精がいて話せば望みは何でも叶えてくれる。値段は当時のお金で、落ちに落ちてこれ以下はないという最低の単位だ。この単位について先生は話されたと思うが、思い出せない。仮に1ユニット=1Uとしておこう。ただし、買い取るには難問が横たわっていた。売場の主(あるじ)によると、このランプを手放すときは仕入れた値段より安く売らなければならない。それにただで譲ることは禁物。それを破ると不治の病に罹り、一生苦しむ、というのだ。
 こんな重宝な宝物が数多くの人手を経てこれより安値で売れない1Uまできた。若者は悩んだ末、貧乏脱出が先だ、と魔法のランプを手に入れた。それからというもの若者は贅沢三昧、ランプがすべて願い事を叶えて呉れたからだ。やがて満ち足りすぎる生活に飽きて、若者は手放すことを決意する。ところがふと売場の主のことばを思い出す。手放すときは買ったときの値段より安く売らなければならない。さもないと一生不治の病に苦しまなければならない。さあどうする・・・。思い悩んでいたところ、あるとき一計が閃いた。お上(かみ)に1Uの半分の硬貨を作らせればいい。まもなく安い新型硬貨が世の中に出回りだした。勿論ランプが最後の願い事を叶えてくれたからだ。魔法のランプは無事、人手に渡った”という話。実はこのお話はうろ覚えの部分が多く、国民服姿の先生の身振りなどを思い浮かべながら再構築をさせていただいたのでだいぶ不正確かも知れない。
 長じて似たような話に遭遇したように思うが、当時、学童集団疎開で本など読む機会もほとんどなく僕には初耳だったし、みんな慎重に聞いていた。知っているのが居たら、新人先生を小バカにする悪ガキどもは先生の話より先回りして先生を困らせていたに違いない。しかし、騒ぐどころか教室内は先生の声のみ、静まり返っていた。
 ところで、このお話、1と半分という数の基本がでてくる、結局、行き着く先は数学に絡むお話ということにあとで気付いた。先生にイッパイ担がれた気もする。

元気をもらったあの一言
 ついでにほかのエピソードを。武藤先生には高校2年の幾何のとき、古代インドで始まった0(ゼロ)の概念について話されたことがある。詳しいことは皆無に近いまでに忘れたが、ただ一つ記憶にある文字がある。それはアレフ・ヌルという文字。事典によるとアレフはヘブライ語でアルファベットの第一番目の文字。英語のXの小文字を筆記体で書いた字、それを大文字に仕上げた格好の文字だ。アレフ・ヌルはその文字の右肩に0の指数を付けたもの。今思えばアレフの前にゼロを表示したのかと思うが、分からないのが真相だ。
 僕は先生のお宅を訪ねたことはない。先生はたしか新宿区内に住まわれたと思う。ある数学好きの学友が先生宅を何回か訪ねた。以下は、その学友の話である。先生のお部屋には三方に黒板が並んでいてよく計算をされている、という話を聞いた。流石は博学の先生だとその友人と感心した。
 また失敗談もある。先の学友から聞いた話をほかの友人に伝えたときだ。武藤邸を訪ねたとき、お母様がその友人に『徹がいつもお世話になりまして』とあいさつされたそうである。その又聞きをしゃべり終わった途端に相手が目配せするではないか。僕の後ろに武藤先生が立っておられるではないか。赤面もいいところだが、先生は、聞いていない振りをされた。僕の生涯での大きい失敗談の一つである。
 そんな僕に先生は5段階の4を並べて下さった。高2の三学期が終わるころ校庭で2、3人の友人と先生を囲んで歓談する機会を得た。別れ際だったが、僕は‘数学は苦手ですが、どうすりゃいいんですか’とお聞きした。“森さんは直感力がとてもいいんですね。勉強の回数を増やしては”。この意外な返事に僕は甦った。20日ほどの春休みに森繁雄著の参考書「解析U」を問題解答を含め読破?した。お陰で3年の数学は高マークを記録した。
 武藤先生に多くを割いたのは忘れないうちに感謝の念を込めて銘記しておきたいと思ったからである。

先生の交代劇スタート
 新中学2年時代は、生徒の方ではクラス替え程度でほとんど代わり映えしなかったが、指導する先生方は大入れ替えとなった。さかのぼること、前年度はあの‘アパラチア山脈’と声高に発声されていた地理担当の松田文人先生、たしか社会の牧先生(お名前不詳)、あの四中の加賀町にある焼け跡の校庭での教科書配布の際、積み上げた机になだれ込んで倒した腕白どもを叱りつけた戊組担任の先生、このお二人が早々に去られて、戊組の後の担任に都立九中から来られた数学の佐藤忠先生がなられた。地理の後釜は記憶がないが、後の高校3年で人文地理を選択したものの、教わる先生が日本史の平久保章先生で、先生自身も“君らは不幸だよ。日本史はいいが、地理なんかはあまり研究したことがない。そんな者に教わるのだからな”といわれたのを覚えている。どうやら、優れた四中も地理の先生に恵まれなかったようで、東大の人文地理の入試問題に歯が立たなかったことが頭に甦った。佐藤忠先生は後に偏差値博士と異名を取られるなどご活躍だったが、当時は都立九中から来られた平田巧校長が連れてこられた、ともっぱらの噂だった。
 それに引き替え昭和22年は激動の教諭陣の交代劇が展開された。引き金を引いたのは新制度の中学校の創設によるものだ。国民学校から名前を変えた小学校の数だけ揃えなくてはならない。それは膨大な数である。更にその学校で教鞭を執る教員を確保しなければならない。これまた膨大だ。

激変の先生の顔ぶれ
 新学期が始まって先生刈りが表面化した。いや、あのころは泣く子も黙る超法規的存在があったから、即刻指令が実行されたのかも知れない。記憶にあるだけでも佐川先生(数学)、佐久間先生(化学)、碓井先生(物理)、春田先生(国語あるいは音楽)で、このほか理由不明だが、この年に四中を去られた方はクロケンことチャンベースの名付け親・榎本一郎先生(英語)、グリムの英語版を教わりながら途中で中学校の校長か教頭になられた岩野先生、何か新宿区の区会議員に出馬されるからといって辞められた鈴木徳之助先生(体育)がおられる。
 これらの先生方に代わって着任されたのは先の武藤、高木両先生をはじめ島田健太郎先生(英語)、藤塚武雄先生(英語)、佐々木勘次郎先生(社会)、小松利夫(体育)、金子栄一先生(体育)、それに家名田克男先生(社会)もこの年見えられたと思う。家名田先生には歴史(世界史)を教わったが、ある時授業の途中で、突然その日の出勤前の話をされた。“けさ郵便配達が来て、‘かなだ’さんの家はこちらですか?というからカナダはアメリカの隣だよ、といってやった”と。家名田はヤナダと読むのだが、よっぽど腹の虫が収まらなかったのだろう。“家という時は「や」とも読むことを知らない。郵便配達なら正確な名前を覚えておけよ”と付け加えられた。僕らは日本から急に遠くへ飛んだ発想に驚いて一瞬、座は静まり返った。それからというもの時折、突拍子もない話をして僕らを笑わせた。割合短い時間で四中を去られ、香川大学に栄転された。
 英語の末永国明先生や国語の野本英雄先生もこの頃来られたのではなかったか。

固まった四中後の教諭陣の骨格
 目まぐるしく変わる先生の交代、出来のいい生徒は困っただろうが、出来の悪い僕なんかは、過去のデータは兎も角、教室でのなりふりを見られていない先生のほうが、スタートに戻って新鮮な気持ち?で頑張ろうという意欲も出るし、生意気な言い方をすれば、四中の居住歴は先輩となるので気が楽でもあった。中学・高校6年間を振り返ってみて教諭陣の基本的な骨格はこのころ出来上がったといってもいいかも知れない。

現れたマ司令部の威令?
 政界や財界などでのGHQの民主化と称する目論見はいよいよ教育界に向けられてきた。旧体制の否定だ。僕ら生徒側の卑近な例では、クラス名にこれまで使われた甲乙丙丁戊・・・という十干の文字は使えなくなり、ABC・・・に替えられた。10点満点、100点満点は残ったが、2年生の頃から通信簿の5段階評点(偏差値による相対評価)が始まったように思う。これも、何でも一般的な力は3で、普通ですよ、ということはたしかに民主化の手だてと思えなくもない。あのころは古いしきたりに敏感に反応を示していたGHQだから当たらずとも遠からず。民主化とはいいことだと、出来の悪い者は歓迎していたが、後で考えてみれば衆愚化、トゲを抜く一策で、それに気付かなかったとはやはり愚の骨頂であった。
 2年の新学期から東京都立第四高等学校、僕らはその併設中学校の生徒となったが、新制度が始まって程なく校名が変わるらしいという噂が流れた。高校を順番に呼ぶのはいけないというのだ。訳をたどると、どうやらナンバースクールに優秀な人材を集め、戦争推進の戦力に仕立てた、これはよくないことであるし、また、民主化に反する、というものだった。成る程、四中は戦争末期には陸士・海兵に多くの俊秀を送ったからなぁ、と変な納得をしたが、都立一中はどうなんだ、という疑問も。一中はたしかにハト派の学校だが、各界にリーダーを送り込んで戦争の遂行を図ったのではないか、そうだとすれば戦争に協力という意味では同じ穴のムジナではないかという変な解釈もされていたようだ。
 いずれにしてもナンバースクールは反民主化的存在、即刻やめよとの御託宣だった。かくして校名の模索がまたしても始まるのだが、ほかの高校が地名などにどんどん代えていくのに我が校は移転先がどうなるか、またしても問題を抱えることになる。

加賀町になかなかもどれない
 東京大空襲で焼失し、校舎が国民学校の借り家で、たとえ入試(低い倍率)がゆるかった?僕ら戦後の入学生でも、やがては歴史を刻んだ元の地所に戻るのは当然と思っていた。ところが、それがなかなかうまくいかないのである。既に校舎問題については触れてきたが、平田巧校長(カンソウラッキョウ)が昭和21年の1年生のたしか後半に二、三度朝礼で話をされ、都庁の先輩といわれる石川栄耀?氏が招かれて“今、鋭意努力中”との話を頂いた。
 新2年の新学期が始まってもその行方は全く藪の中だった。

愛着?加賀町とは・・・
四中の伝統を伝える一つの合い言葉といえば“加賀町”だった。それは、校舎のあった場所から由来している。四中の沿革では東京都牛込区加賀町がその住所だ。
 僕らはここに、どんな校舎があったかは全く与(あずか)り知らない。しかし、焼け跡にはかなりご縁がある。あの牧先生に叱られた1年の教科書配布も加賀町の焼け跡で行われた。校庭を挟んで南側を伸びて西側、それから北側とコの字型に校舎があったらしく、その跡に、まだ、いくらかがれきが残っていた。皮肉なことを言えば校舎が無くなったため南側の見晴らしが非常に良くなっていた。
 市ヶ谷?の谷を挟んで大日本印刷の大きな建物が一望できた。校舎の北側、教科書配布を受けた空き地の東側にたしか、長さ25メートルのプールがあった。このプールはかなり後まで学内の水泳大会などに使われていた。学校も夏の期間は生徒に開放していた。僕もクラスメートの星野(隆一)君や市川(哲雄)君に誘われて二〜三回泳ぎに通ったことがある。幼少のころ海軍志望だったが、‘金槌(かなづち)’、いや浮くだけは浮くから‘木槌’といいたい。そんな分際だが、海への志向から友達の誘いに乗った。それが間違いだった。加賀町プールでの最終の泳ぎのときに事件が発生した。それまでは浅いところで水遊び程度だったが、このときは深いところに飛び込んだ。水深は5〜6メートルはあったのではないか。
 ところが、立ち泳ぎ(自分ではそう思っている)をしても浮かない。逆に深みに吸い込まれていくような感じだ。水面すれすれだったと思うが、両手を振った。幸いそれに気づいてくれた。近くに泳いでいたJ先輩が僕の片手を握ってプールサイドに連れていって呉れた。‘なんにもなかったか。しばらく水に浸かっていて上がりなさい’と助言もしてくれた。J先輩は命の恩人である。プールに苦い思いができてしまった。65年近く鮮明に刻まれた出来事である。その後は水泳大会の応援などでいったが、プールには入らなかった。ついでだが、四中には千葉県の岩井海岸に泳ぎの施設を持っていた。水練場といっていたように記憶しているが、今様でいえば四中専属の海の家というのだろう。この岩井水練場に行こうと何回も誘われたが、泳ぎの未熟さが引っかかった上に親父が‘無駄だ。その分、勉強しろ’といってウンといわなかったのでこれも実現しなかった。

古巣復帰叶わず校庭探しは再び迷走
 余計な話に走ったが、加賀町のキャンパスは10代半ば以上の若者に取っては若干狭かったかも知れないが、当時とて都心の一等地、省線山手線なら都電が縦横に走り、交通の便がすこぶるいい。それに学校が学校だ。戦火の故に校舎のない孤児(みなしご)となったとはいえ、多くの人材を輩出してきた伝統校だ。僕らその筋(教育管理関係とでもいおうか)の関係に全くドシロウトでも加賀町の学校跡に復旧校舎が建つと思うのは当然であろう。物事が簡単なはずが、素人には全然見えてこない。
 この年(昭和22年)5月か6月ごろだったと思う。朝礼にまた石川先輩が招かれた。一年の時に来られた方で都庁か都の教育関係部局で四中の校舎の再建に努力しておられた。難しい状況にはあるが、併合や廃校はなく、必ず校舎はできるから安心して(勉強して)欲しいといわれたようなことをかすかに覚えている。そういう石川さんの表情も明るかったようだ。
 そうこうしているうちに新設の中学の手当てが急務で、そちらが優先という噂が飛び込んできた。既に東京の区制が35区から23区に整理統合され、加賀町のある牛込区は四谷区と淀橋区と一緒になって新宿区となっていた。したがって、加賀町の地所も新宿区の所管?になったようで、旧校舎跡に戻るのはかなり難しい情勢になってきた。案の定、ほどなく加賀町の用地は新宿区立牛込第三中学校の校庭になることが決まった。この時点で加賀町復帰の望みは完全に断たれた。またもや先の見えない校庭探しの模索が続くことになる。