終戦直後の風雪に耐えた名門校

                             昭和27 森 拓三

第四章  ナンバースクール・新校歌・あだ名・変り種

現実味帯びる末端現場の民主化?
 これまで何度も取り上げて来た教育界の民主化だが、何回触れても語り尽くせない大問題である。振り返ってみれば、昭和21年度、1年生の時が比較的静かに流れたのに対し22年度はのっけから激しく動いた、それだけに、激変の強烈さは一生脳裏から離れまい。
 今なら四の五の言ってなかなか進まないが、この時期は政府が決めた方針はたちまち波状的に下に伝わり、間(ま)をほとんど置かず実施された。抵抗は全くない。僕ら幼稚な連中も“民主化”の言葉にころっと参ったし、身近な先生方にも旧来の教育方針を持っておられる方もおられたが、抵抗も嘆かれることも無かった。硬軟幅広い批判もあったと思うが僕らいわばチンピラ分際には全く見えてこない。政府の施策であってもその裏にはマ司令部がいる。既にマッカーサー元帥は天皇、日本政府を超える絶対権力を掌握していた。逆らったら公職追放は必至。批判はあっても‘勝てば官軍、負ければ賊軍’の心境で、闇から闇へ。やはり、あの1月31日に発せられた「2・1ゼネスト中止命令」は社会の混乱を防いだと同時にGHQの権力を神話的絶対な存在に押し上げる効果をもたらした。そして、その絶対権力?の下で、‘こと’を図っていく小役人の‘わるさ’、‘ずるさ’が見え隠れするようになるのだが・・・。
 そのお上(かみ)から最末端の現場に現れた民主化の最たる変化が、まずクラス名の横文字化である。1年次の組名は甲、乙、丙、丁、戊の五組だったが、2年のクラス名はA、B、C、D、Eの5組となった。それと、既にマ司令部の威令のところで触れたが、夏ごろだったろうか、ナンバースクールは差別で止めよ、という問題が浮上。畳みかけるように、四中のシンボルとも言われる校歌を新時代に合ったものに代えようという動きが連鎖的に起こる。それに大シェンを泣かせた事件や先生方のいらいら、などなど末端の教室までも巻き込んだ激動の昭和22年だった。

四中はナンバースクールの最右翼
 差別だから廃止せよ、これは知恵を授かった人間にとって実に浅はかな考えと僕は思う。人間社会、出来のいいもの、不埒なもの、すねものなどいろいろある。区別はあって当然だろう。そうしないと社会はうまくいかない。たしかに能なしで親からただで引き継いだお金や名誉等で社会が頭を下げている連中もいる。これは、差別だ。しかし、自らの努力によって素晴らしい能力を培ったものもいる。これは社会として厚遇すべきであり、人の道だろう。終戦後、今70年近く経つが、自分に不満な扱いなどをすべて差別いう風潮が強い。これは逆に悪平等だ。いわゆる出来の良い奴、悪い奴、クソ・ミソいっしょなんてある訳がない。その人間陶冶をする場の一つ、中学校で差別論がまかり通ったのである。それがナンバースクール廃止である。
 年代を経て、もうナンバースクールなるものを知ってる人種は激減している。多くは他界し、高齢者のごく少数の連中に限られる。僕の記憶もおぼろげになってきた。頭脳から完全に消滅しないうちにオサライをしたい。
 小題に掲げたように、四中はナンバースクールの最右翼だった。戦後出来の悪い僕らで汚されたが、それまでは高いハードルが前途に横切っていた。
 僕が四中を知ったとき中学の超一流校は「一中と四中」というキャッチ・フレーズ(今様でいえばキャッチ・コピーか)が世間にまかり通っていた。

なぜ一中・四中なのか
 東京の一中と四中なのだが、なぜそう言う対比になるのか。先輩などから引き継いだ話を総合すると、それは(東京)府立四中の創成期前後にさかのぼる。「同窓会員名簿の母校の沿革」では四中の前身は補充中学校から明治24年に改名した共立中学校、いずれも私立だ。その共立中学校が明治27年に東京府城北尋常中学校に改称して校長の任命権が府に移る。恐らく実質的には公立の中学教育をしていたと思われるが、表向き府立の中学は日比谷高校の前身の府立一中だけだった.
 明治33年(1900年)は20世紀にかかるターニング・ポイント。それを機会に東京の公立中学校を増設する計画が浮上した。都心から東西南北に広がる人口増で、向学の士を抱えられない、それが増設の理由だったのであろう。明治34年4月、三多摩と川向こうに1校ずつ公立中学校が新設された。それが立川高校の前身・府二中と両国高校の前身・府三中だ。
 なぜか既に東京府の息のかかっていた城北中学校は東京府第四中学校(府立四中となったのは同年7月)と序数の四番目にランクされたのである。それからが先輩たちの真骨頂の話になる。
 ‘もともと一中と張り合っていたのは城北改め四中なんだ、とか新参者には負けられない’、などと競争意識を燃やし、研鑽三昧で上級学校進学で争い、
日本社会のリーダーたちを輩出した・・・。
 少し眉唾(まゆつば)的な臭いがするが、「一中と四中」その威力が全国に伝わり、文字どおり全国の最有力校になっていた。今でいう開成、灘、などというが如し。真偽のほどは分からないが、同じ誘いがかかった開成高校は府立への移行を断ったとか。

ナンバースクール解消
 戦前、戦中を通じて社会に貢献したのは一中や四中ばかりではなく都道府県のナンバースクールも同じで、それなりのエリートを多々輩出している。これが戦後の民主化?とともに指弾の対象となった。多勢に無勢、やむなく占領軍=GHQの陰の支援を受けた勢力の軍門に下り、ついに解消の憂き目にあうのである。
 おさらいをすると、当時、東京の中学のナンバースクールは一中が今の日比谷、ニ中が立川、三中が両国、五中が小石川、六中は新宿、七中は墨田川、八中が小山台、九中は北園、十中が西、十二中が千歳、十四中が石神井、二十一中が大泉・・・と続く。ほかに東京市立の一中が九段、二中が上野。
 一方、女子の高等女学校では第一が白鴎、第ニが竹早、第三が駒場、第四が東葛飾、第五が富士、第六が三田、第七が小松川、第八が八潮、第二十高女が赤城台など・・・。
社会の中堅以上を育ててきた東京のナンバースクールは序数から地名等に改名を余儀なくされ、また、3年という期間短縮や学校群の導入などによって次第に私立の名門にその座を譲っていったのである。

“古い上着よさようなら”新校歌誕生秘話
 2年生の初秋の頃だったと思う。校歌を新時代にあったものに代えようという趣旨?で新校歌の募集が突然行われた。作詞だけでなく作曲も公募されていたように思う。校歌といっても、それまでほとんどお目にかかったことはない。入学式や終業式などでうたったことがあったかも覚えていない。ただ、紙に書いたようなものは頂いたような気がする。たしかに天皇の人間宣言や民主主義(アメリカ式?)の時代に古いというより、当代にはあわないなぁと感じたことは覚えている。
 伝統ある校歌はどんなものだったのか。同窓会名簿から引用させて頂く。
      府立第四中学校校歌
                   作詞 大塚彦太郎
                   作曲 石原 重雄
       
       一、雪にみがける富士の高嶺
          緑はてなき千代田の森
          たれか仰がぬ国のしずめの
          この山この森ああ尊し
          わが大君のしきます国に
          山こそあれ森こそあれ
          この山この森我われらが師

        二、心は山の高くきよく
          學(まなび)は森の繁く深く
          勅語(みこと)のまにまにいざやつとめむ
          わがとも撓(たゆ)まずああかしこし
          わが大君のしきます国に
          市こそあれ里こそあれ
          都はながめもわれらが師

 この校歌の文句はやはり国威発揚の時は誠に結構だが、占領下の民主化の嵐の中ではとても耐えきれない。昭和22年の6月には日教組(日本教職員組合)も結成(朝日年鑑による)されており、四中の先生方にも加盟された方もおられる。あの当時としてはやり玉に挙がるのは火を見るより明らかだ。

 成績の悪い僕だが、学童集団疎開先で国許に送る便りに「詩」を書いたところ先生に褒められ、僕の詩と垣内さんという女子の同級生が書いた作文が採用された。それだけに“一丁やったろか”の気分になったが、現校歌の下敷きがあっても発想が伴わない。通学で疲れるし、おさらいに追われてすっかり忘れかけた数週間後、新校歌が決まったとの知らせを受けた。‘しまった’と思っても後の祭り。そして朝礼の席で表彰式が行われた。
 作詞者は僕らの一年上の茅野力造さんだった。作曲はそのまま石原重雄さんのものを使っていた。ご存じだろうが、茅野氏の作品はこうだ。
       一、雪にみがける富士の高嶺
          緑に映える戸山の森
          清くすがしきわが学舎に
          真理(まこと)求めていざや励まん
          光明けゆく平和の国に
          山こそあれ森こそあれ
          この山この森われ等が師

       二、希望は嶺の高く遠く
          学びは森の深く繁く
          美しき人の世ともに目指して
          柏の庭にいざや勉めん
          黙示はるけき久遠の空に
          星こそあれ月こそあれ
          この星この月われ等が師
 この作品、いや作詞を見てすぐに民主化かぶれだった僕が発したつぶやきは、“なぁんだ、こんなのでいいのか?”というひとことだった。未熟な僕の頭では(大)日本(帝国)を支えてきた校歌から大変身しなければならないと信じていたからだ。詞は平和・民主主義に沿ったもの、曲・節回しも、例えばハーモニカの有名な曲‘アメリカン・パトロール’みたいに勇壮な響きのあるものと頭にこびりついていたのだ。だから‘やわ’な頭では両者を合致させた作品をものにするのはとても無理だ。それに校歌に必要な風格、深みなど理解の外だった。

味のある新校歌
 しかし茅野氏の作品に幾度か目を通しているうちに考えが変わっていった。
 ‘そうだな、伝統ある学校の校歌の流れは、幾ら何でも国の体制変革とは違って急激に変えられないな’・・・そう思った途端に茅野氏の作品に猛烈な味を感じた。その要点を羅列すると、まず、第一節冒頭の「雪にみがける」の行(くだり)はもとの校歌そのまま、戦後とはいえ日本人の拠り所となる富士山を残した。また、終わりの二小節もそのまま踏襲、全体として校歌の継続性を示した。次に天皇の人間宣言のあとで臣民の考えが抜けた。「千代田の森」「国のしずめ」「大君の・・・国」が抜け、身近な教育現場を登場させ、自分のための真理探究と平和の国が登場する。
 二番以下は当時を思い出しても柏の庭ぐらいでとやかく感じたことはない。ただ、長じたあとに感じたことは第二節は作者の思いが奔放に漲(みなぎ)っている。現在、感じることは、作者はあるいはクリスチャンだったのではないかと思う節もある。僕の1年上の年端(としは)もいかない身であるからバイブル等を研究してその道の通(つう)になられたとは思えない。やはり教会に通って身に着いた文句が書かれたように思うからである。
 第二節にみられる宗教的部分は変調する後半の部分「黙示はるけき・・・」の部分にある。終戦直後で黙示など国内の別の宗旨(イスラムは分からぬ)では考えられぬ言葉であるからである。‘宗教的’という言葉がでてきて突然思い出したことがある。国際基督教大学(ICU)の創設だった。たしかプロテスタント系でGHQが財政面を含め全面的にバックアップしてできた大学である。勿論、教会関係者はこれを良(よし)とし全力投球したのは言うに及ばない。ICUに触れたことで当時を思い出した。くそ真面目だった僕はプロテスタント系ということで強い関心を持った。しかし、すぐに諦めた。兎に角、ただの英語すら駄目なのにイングリッシュ・スルー・イングリッシュなんてとても太刀打ちできない。戦時中敵性語の禁止で僕と同じような考えを持ったものは大勢いたに違いない。武田さんという女性の先生が当時のマスコミ(あるいは受験雑誌)の寵児だった。いずれにしても高いハードルで僕ら受験生の羨望の的だった。
 そのキリスト教の臭いがする新校歌の第二節の後半には星と月がでてくる。これも私見だが、宗教がかった臭いがする。しかし、それは茅野氏の作詞の素晴らしさを否定するものではない。かえって、見事なため、作詞のベテランの指図があったのではないかと失礼な疑いがでてくるほどである。茅野氏は大手出版社(たしか集英社)でご活躍と聞いている。

新校歌が示唆した新生四中、四高のシンボル
 この項の最後に触れておきたいことは新しい四中、四高、戸山高の将来を示唆する行(くだり)が二か所にでてくることである。一つは「戸山の森」、二つ目は「柏の庭」である。      
 戸山の森の言葉はこの新校歌ができた頃には少なくとも移転先が今の学校の敷地、戸山が原に内定していたことを示唆している。
 「柏」はご存じのように戸山高校の校章である。僕の記憶では僕ら中学3年のときに母校の先輩・工芸家の齋藤素巌先生に新しい校章の選考を依頼し今の校章「柏の葉を4枚四方向に広げたもの」が出来上がった。当時、柏の入った新校章入のバックルが限定で制作され、僕らに配られた。素材はジャーマンシルバー製といわれ、シルバー(銀)製と聞いて何と高価なものと思って辞書を繙(ひもと)いたら洋銀(銅・ニッケル・亜鉛の合金)と知って少しがっかりしたことを覚えている。

グルーミー(陰湿)なクラスムード
 もっと早めに触れなくてはならない2年のクラスの紹介だが、兄の病気の影響は勿論あるもののクラス自体あまりなじめない雰囲気で気が進まず、ついつい先送りになってしまった。しかし、のちの話題につなげるためには良くも悪くも避けて通れない要である。
 1年は丁組(4組目という序列)だった僕の2年目はC組に振り分けられた。担任はジャガイモこと佐久間元朗先生。のちに新制中学校に転任されたため丁組の担任だった小川貫道先生があとを引き継がれた。
 簡単な始業式を終えて告げられた2階内側で南の隅の教室にがやがやと行くと既に部屋の中で掃除をしている男がいる。あとでその生徒が志賀節君と分かった。志賀君は僕らより1年上だったが、原級にとどまり、C組の仲間になった。僕らは許可がでるまで“教室に入るな”といわれていたので、1年の長があると大胆になるな、と変に感心をしたものだ。
 志賀君は代議士になってからは昔の政治家のように格調の高い演説をよくぶっていたが、2年仲間の彼は軽いジョークをよく飛ばしてみんなを笑わせる愉快な人物だった。教壇の前の最前列の席に座り、先生をよく観察していた。
 英語の末永先生の振りを見て品のあまり良くない綽名を付けたのも志賀君だった。年長だったが、代議士時代のように威張った?ところは平均以下の出来の連中にはなかった。たちまち悪(わる)の中軸になった。
 クラスには2年から入った山田o一君がいた。山田君は中国・北京からの引揚者だが、育ちがいいせいか、僕らから見れば丁寧な言葉遣いが過ぎてバカ丁寧過ぎて肌に合わない。先生には腰をかがめ気味に甘え声で尋ね、ハイハイとうなずいて教えを乞う。そのくせ僕らには‘そんなことをしちゃ駄目’とか‘先生になんてことするの!’などと軽蔑の眼差しで説教する。僕はないが、遊びに誘ったら「おかぁちゃまに怒られる」と断る。北京では豪勢な生活をしていたという噂も広がる。戦後食うや食わずの惨めな暮らしを強いられている東京のガキどもとは異質だ。早速綽名が付いた。“北京”だ。そのころ悪ガキの旗頭になっていた志賀君の命名だったと記憶している。そのうち山田君の“おかーちゃま”の頻度が激しくなり“北京チャマ”に発展、最終的には「チャマ」に落ち着いた。面と向かっては言わないが、今での彼の話をする場合はチャマ、チャマと準固有名詞として使われている。山田君には非常に気の毒ではあったが、成績もよく、後にみんなのあこがれ?だった東大に見事合格し、軍配は彼に上がった。

僕のあだ名は「すいみんニャロー」
 クラスがグルーミーに感じたもとはいろいろとあるが、その一つが僕に与えられた称号である。兎に角、学科嫌いでうっぷんを晴らそうとした悪ガキどもはすぐに別名を付ける。先生であろうと仲間であろうとお構いなしだ。
 大体、身体的欠陥、人格的欠陥を突いたものが多いが、手早く遅れずに付ける。それには鋭い観察力が不可欠だ。その意味ではクラスの悪ガキは天才的といえるのではないか。僕もそれを警戒し、大人しくして志賀君や一方の名付けの名手・河合(哲夫)君などにはたまにごまを摺り、標的になるのを避けていた。
 ところが2年の一学期がまだ進まない時期に僕をさして仲間が「すいみんニャロー」と呼ぶではないか。ついに僕に別名が付いてしまった。どうやら僕の教室内の態度を見て取っての仕儀だったようだ。
 何の授業だったか忘れたが、前夜の勉強に加えて山手線の殺人的混雑を乗り越えて登校し、ついこっくり、こっくりしてしまった。早速、先生に指された。質問が分からずしばし沈黙。済みませんと言っておけばよかったものが、連日の疲れについ“夜眠れず睡眠不足です”と答えてしまった。腐っても・・の心境で‘勉強や混雑’は沽券に関わるので絶対口にしなかったが、それが1つの材料になった。そして英語の時間、多分、藤塚先生(ハンニャ)の時間だったと思う。当時最も外人らしい発音をされておられることで評判だった先生が「狭い」という意味の単語narrowの発音を聞かれた。多分僕が指されたと思う。スペル(つづり)より発音に気をとたれていたので強勢(ストレス)のある母音のアの発音はaとeの付いたもので、ただのアではないことだけは知っていた。だから僕の答は「ニャロウ」。ところが突然、クラス内に爆笑が起こった。間違いかなと思ったが、先生も軽くニャロウ気味に発音されてホッとした。ところがその発音が綽名の材料になったのだ。
 綽名を作り、流行らせるのは素早いものだ。僕の綽名は次の日から使われだした。志賀君や河合君らがその呼び名で名指しをしてくれたことで判った。
 そもそも綽名はなんで付けるのだろう。先生の場合はある意味で畏敬の念の裏返しとも取れるのだが、同僚の場合はどうなのか。「チャマ」の場合は明らかに敵対行為に対する決め付け。僕の場合は・・・。個人的な結論は区別というか、差別の一種、島国根性の一つで人を見下して優越感を味わう日本人の特性、“いじめそのもの”と感じた次第である。ただ、同類と信じていた仲間からの‘仕打ち’に寂しい思いをし、兄の病気(骨髄炎)の再々発が重なってかなり落ち込み、稲田君宅などを訪問する‘放浪の旅’に走ることになる。

クラスの変わり種に“戦犯”呼ばわり
 2年C組には悪ガキやチャマのほか変わった連中が結構いた。勿論、成績優秀な連中も多かったが、過去のいいことはすぐ忘れる。バイオリンを一緒に習った山口裕之君以外は今もって忘却の闇の中に消えたままだ。その代わり幾人かの変わり種の名前はよく覚えている。その一人が小川尚君だった。当時教室の座席は自由意志でどこでも座れたが、1回座ってしまうとしばらくは定席となっていた。これまた1学期の授業が始まってまもなくのこと、僕が窓際から3列目の後ろから3番目、窓に近い2列目の後ろから2番目、つまり斜め後ろに小川君が座っていた。これも1学期が始まってまもなくだった。彼から“君はどこ出身”。‘僕は大連生まれ’と答えた途端、彼は何と言ったか?“お前は戦犯だ”。ものすごい剣幕で意表を突かれたが、‘まだ子どもだぜ’と僕。彼はすかさず“満州にいたやつはみんな戦犯だ”と言う。
 これには返答のしようもなかった。当時は既に紹介済みだが、東京裁判(太平洋戦争の責任を問う戦争犯罪人に対する極東国際軍事裁判)の模様が連日新聞の紙面をにぎわしていた。僕は殺人的通学の混雑でへとへとで、難しい問題など考える余裕はなかったが、早熟な連中には勉強よりも社会事象に興味を持ち、お互い考えたことを議論しあっていた。佐藤絢一郎君(病気で1年あとに卒業)や柏倉敏之君、小川尚君などがその最たるものだった。その中の一人から戦犯呼ばわりされたのである。僕の答は‘へぇ〜’しかなかった。しかし、やっぱり気になった。家に帰って‘俺、戦犯だってよ’と言おうと考えたが、あまりにも馬鹿馬鹿しいのでそれはやめた。でも、なぜ彼は軽々しく僕を戦犯ときめつけたのだろうか。幼い僕なりに結論づけた。やっぱり、‘中国侵略’を扱った東京裁判や一族郎党は悪で粛清すべきというソビエト等の革命思想(復讐を怖れた日本の戦国時代の根絶やしに似る)の短絡以外にない。‘彼は案外単純なやつ’と思い、以後、彼とは口を利かないことにした。

大シェンを泣かせた“しおのせんべい”
 小川君の僕に対する放言があってまもなく“事件”が起きた。漢文の時間、担当は大シェンこと、福島(正義)先生は鐘が鳴ってすぐ教室に入ってこられた。普段、チェンじゃないか、チェンじゃないかといわれてよく怒られていたので赤み顔がおおかったが、この時ははじめから紅潮しておられたのを覚えている。先生は持ってこられた紙を取り出して“この組のものから‘しおのせんべい’という名前で手紙をいただいた”。先生のこの発言にすかさず‘ハイ’といって手を挙げて立ち上がったものがいる。あの小川君だ。‘僕が書いたんです’と彼。もう65年も前のことだが、どちらかというと、俺が書いたんだ、いや告発したんだというような誇らしげな態度に思われた。
 しかし、先生はそれを無視して‘しおのせんべい’の手紙を読み続けた。いま朧気ながら頭にある先生の読み上げたものの中身のあらすじみたいなものはこうだ。‘先生の授業は高圧的だ。指されて答えなかったり、間違ったりするとすぐチェン、チェンと怒鳴って怒る。いまは民主主義の時代、やめてもらいたい’。
 先生はところどころで自分の意見を挟まれた。“僕はきつい訛りが抜けないのでそのように聞こえるかも知れないが、決してひどく怒ってばかりいるのではない”など。真顔や苦笑しながら話された。教室内は静まり返っていた。
 五分か六分たって授業に戻ったが、僕はその後、先生のチェンを聞くことはなくなった。後に高校二年の時、福島先生は高木先生(サンジャク)とととに僕のF組の担任をされたが、名物だった発声?は全くなく、何かあると高木先生をたてておられた。小川君は得意満面だったかも知れないが、大チェンの由来である大先生とチェンが消え去って寂しい思いがする。むしろ、GHQが禁じた戦中の授業担当(うわさでは教練か国民学校での修身に当たるものを教えられていたと聞く)につけ込んで投書まがいの手紙を出したのではないかと卑劣さのにおいを感じる。

“ゾウ”さんが‘おしおき’の連発
 学校の職員室にも急激な民主化が押し寄せて共産党シンパや党員の方も増えてこられたようで先生方に動揺や不安もかなりあったのではないか。新制中学に行かれた佐川先生がまだおられた時なので4月の終わりか5月の初夏の頃だったと思う。そのある日。
 2時限か3時限の田崎先生(ゾウさん)の授業が始まろうとしていたそのとき、僕はやや遅れてというか最後の入室となった。何かあったのだろう、みんなが突然爆笑する。僕もつられて笑ってしまった。そうするとゾウさん、僕に‘君か、廊下に立っていろ’といわれた。僕は言われたとおり廊下に立っていた。そのときに佐川先生が通られた。小声で‘どうしたの’と問われた。僕は‘何か分からないのですが、立っていろといわれて立っています’。
 ‘先生は誰’。‘田崎先生です’と僕。佐川先生は頑張りなさい、といって立ち去った。2〜3分たって教室のドアが開き、ゾウさんが入って来いと言う。
 教室に入りかけた途端、また、爆笑が起こった。とゾウさん、振り向くやいなや僕の頬に往復ビンタを食らわした。そして、廊下に立っていろとの命令だ。授業が終わる寸前に呼び戻された。ゾウさんは僕に“この件、僕は責任を持つからな”といって立ち去った。僕は何が何やら分からなかったが、どうやら誰かがゾウさんに悪戯をしたらしい。ただ、黒板消しをドアの上に挟んだか、何か投げたものがゾウさんに当たったのか、真相は分からない。この時期にビンタなどあり得ないと思っていた甘さもあるが、なぜ僕だけ立たされたのか、今もって分からない。
 ただ、相良君がすぐあとにゾウさんの授業を筆記したノートを貸してくれた。悔しい思いの中で非常に嬉しかった。彼への感謝の念は今でも続いている。
ゾウさんの‘おしおき’が僕に対してだけなら大した話題にはならないが、それがあとあとまで起こるから事件になる。僕へのおしおきのあと、しばらくたってY君、それからO(オー)君と同じC組でゾウさんからビンタを食らったのである。そして、ほかの組でもゾウさんのビンタを食らったのは、名前は分からないが2人おり、都合、5人がゾウさんのビンタをいただいたことになる。
 この件について僕には後日談がある。数日後、1週間も経たないうちに親父が学校に呼ばれた。クラスの担任は新制中学に移られた佐久間先生(ジャガイモ)から1年の時の担任だった小川貫道先生に変わっていた。
小川先生からの伝言を聞いた親父は‘分かった’といっただけだった。親父一人で先生に 会って帰ってきたが、ただ一言、‘置いてもらうよう頼んできたよ’と僕に言っただけだった。どうやら通学も大変だし、転校を仄めかされたらしいが、親父は断固断ったようだ。それにしても先生の“責任がある”ということがこれだったとは空しい感じを覚えた。

混声四部合唱でコンクール出場
 本来の国語、数学、英語など学科の勉強がおろそかになっていた反動なのか、音楽班の練習には熱を入れて参加した。夏に入る前だったと思う。毎日新聞の主宰か共催でコンクールを立ち上げるという。名称は「東日本音楽合唱コンクール」で、その学生の部に“混声四部合唱”で参加することになった。僕ら2年や3年の一部にまだ声変わりのしないものが10人前後いるため当時の音楽班担当の平瀬志富先生が決めたそうである。
 それは2011年5月発行の城北会誌の第59号に先輩で音楽評論家をされている宇野功さん(1949=昭和24年卒)が特集で書かれている。その宇野さんの文章もさることながら10頁の写真に引きつけられた。平瀬先生のタクトを振る写真に僕らが載っている。北条君や奈須野君、八木君、前川君、竹本君、原(亨)君、桑島君など同級生、先輩の小林さん、大橋さん、白根さん等の顔が見える。第1次予選会の模様と思ったが、背景の扉がお粗末だし、指揮者の前にオルガンがあるので恐らく練習風景だろうと思う。六十数年たって古くもこんな珍しいものに接するとは考えてみなかったことである。多分、第一回というので毎日新聞が練習風景を出場校を回って撮っていったのではないかと推測する。
 混声四部合唱といえばボーイソプラノ、ボーイアルト、テノール、それにバスの4パートで僕はボーイアルトに属した。歌の題名は「森の歌」というものだった。作詞、作曲はそう有名な人でなかったので忘れてしまった。宇野さんもいっているように男子だけの混声4部合唱はあとにも先にも僕等しかないと言われているように、すぐ何とか使える歌がなかなかないということを当時ちらっと聞いたことを覚えている。

 さて合唱コンクールの第1次予選は東京都立九段高校の講堂で行われた。あそこは戦火での都心でも奇跡的に焼け残ったところである。勿論、ものが極端に不足しているとき、普段の通学服で舞台に上がった。当時を思い出して見るが、結構練習の成果が出ていたような気がする。
 第2次予選は当時、東京では芸能音楽の舞台としては代表格だった東京・竹橋の共立講堂で行われることになっている。やはり子ども心に目の色が変わる。出番の数日前、白髪の老人が現れた。同じ新宿区牛込に住む有名な作曲家・外山国彦さんだった。彼のアドバイスはもっと個人個人が離れてグループを大きく見せないといけない、というものだった。そのため、距離間を置いて練習を重ねた。また、舞台では学生服で統一しようということになった。
 僕は親父の知り合いで長男の方が着ておられるというのでお借りすることにした。少しだぶついていたが、そうおかしくはなかった。
 そして、本番当日を迎えた。何番目だったか忘れたが、出番になって舞台に上がって練習どおり配置に付いた。ところが、である。隣の声が空気中に消えて僕の耳に伝わってこないではないか。あとで聞いてみると誰もがそうだったという。見えるのは平瀬先生のタクトだけ。終わる前に勝負は付いていた。落選である。近隣で、お互いに頑張ろうと励まし合った都立六中(高)のグループはウエーバー作曲の「魔弾の射手」にある『狩人の合唱』で見事パスした。この落選で僕は音楽班から次第に遠のくようになった。
 これにも後日談がある。今から30年ほど前になる。1982年、青森県の八戸市に居た頃、N響の仕事でこられた指揮者で作曲家の外山雄三氏と会食する機会を得た。たまたま僕が昔、合唱をやっていて毎日新聞の第一回コンクールに出て歌ったことがある、と話を持ち出した。すると外山氏は“それは僕らの学校が優勝したときだな”といって、彼が教育大附属高校の出身であることを明かした。1931年の5月の生まれだから、僕らより3年上ということで彼の話は嘘ではない。優勝校は調べりゃ分かるが、悔しいので調べたくない。まあ、彼の言うとおりに了解しようと思った途端、彼の父・国彦氏に指導してもらったことを思い出した。一瞬‘あのとき図られたのか’と思ったが遠い昔のこと、別の話題に切り替えた。

クラスに通学系グループ誕生
 2年の1学期中間考査の終わるころにはC組のグループの再編がみられた。志賀、河合グループに新たに山手線グループが誕生した。目黒から通う北条義和君や前川正泰君、大田区からの和泉良一君など新宿駅の南から省線を使って通う連中が融合し始めた。それに僕や世田谷からの大野勝男君が加わった。僕は二足の草鞋をはいていた。
 ついでに僕の付き合い相手には確か、海外から引き揚げてきたと聞いている山本卓弘君、C組きっての論陣を張る柏倉敏之君がいた。2人は当時猛烈に勢力を広げかけていた左翼進歩思想にやや傾倒していた。ある日、2人から‘森君、きょう昼休み行ってみないか’と誘いがかかった。行き先は新宿区百人町のシチズン時計の事務所。ここでの会合だ。ここで当時勢いのあった共産党の細胞を立ち上げる話だった。うろ覚えだが、柏倉君が何か短く喋ったようだ。僕や山本君は一言も発せず、そのまま引き揚げた。数日後再び誘いがかかった。僕は断った。当時勢いを得ている共産党に反発したといえば聞こえはいいが、前回の会合で何か猛烈に‘使い走り’されそうな予感を覚えたからだ。学業ですら怠け者なのに到底期待に添えない。その結果は厳しい‘お仕置き’が待っている、そう予想した。このこと以来両君との接触はほとんどしなかった。山本君と再会したのはそれから30年余り経った確か昭和53年か54年だった。彼と名刺の交換をした。何と三菱キャタピラーの重役の肩書きが付いているではないか。彼は一言‘今はアメリカの戦略推進の立場にいるよ’と言うだけだったが、僕には分かった。華麗なる転身と僕には映った。

先生の「出身校はどこ?」発言にショック
 山手線グループは余り威張るものはいなかった。北条(義和)君はピアノの名手で、先輩の小林さんと並ぶほどの技を持っていると感じた。和泉(遼一)君は確か日蓮宗のお寺の住職の倅(せがれ)で明るかったが、授業中こそこそと話かけてくる癖があった。こんなことがあった。ある時、新制中学の校長に行かれる前のウスバカこと教頭の碓井孝二先生の物理の時間だった。幅広い物理の実験室を教室兼用で使っていたので横列は長かったが、浅く6列ほどしかなかった。僕は5列目の先生の前にいた。和泉君は僕の斜め右後ろにいて、盛んに僕に囁きかけてくる。先生のいうことを聞けるものでない。余りしつこいので後ろを向いた途端、先生に指されてしまった。
 ‘そこのもの、そうそう、そこのお前だ’。ウスバカという贈り名だけあって、人を少しバカにしたような口調で普段あまり要領を得ない発言をすると言われていた。そのウスバカ先生に後ろを振り向いただけで指されてしまったのである。前をむいていたが、和泉君のささやきが気になり先生の話は頭に入っていない。先生は何か質問をしたが、誰も手を挙げないので僕が格好の餌食となったのだ。
 ‘分かりません’と僕。だって質問そのものが耳に入っていないのでこういう答えしかなかった。
 ‘ほう、分からないか’と先生。続けて‘君の出身校はどこだ?’
‘はい、目黒区の田道国民学校です’
 ‘ほう、聞いたことのない学校だな’先生の問い糾(ただ)しはそこで終わったが、素性の分からない学校から出来の悪い奴が来たな、というなんともいえない表情をされていた。ウスバカにバカにされた?
 それにしても、聞いたことがないという表現に多少抵抗がある。あの学校から四中に入ったのは昭和8年の創立以来、僕が初めてなんだから、当然な話である。なんで出身校を聞くのだ?と思う。でも、その反面、初ものの立場なら‘流石いい学校だ’と言われなかった我が身の哀れさ、忸怩たるものを感じる。ただ、長ずるにつれ、よきにつけ悪しきにつけウスバカ先生の発言が分かるような気がしてきた。伝統という価値は重い、伝統のないところはしっかりしなければ駄目だ、このように解釈することにしている。

Morrisは‘モリ’にあらず
 2学期は9月1日(木=検索調査)に始まった。記憶では夏休みの宿題はハンニャ(藤塚武雄先生)の英語で冊子のホームワークだけだった。借家故に同居家族を受け入れ、狭くなった住まいのむさ苦しさ。兄の間歇的発作(骨髄炎で足の骨に残って出られない小さな腐骨が時折暴れ出す、猛烈に痛いらしい)の影響もあって放浪癖が止まず、机に向かう気力はあまりなかった。しかし、夏休みも終わりに近づいて何となく英語の冊子のページをめくると2,3興味のある問題があり、珍しくテーブルに向かい、何とかやっつけ仕事ながら終えた。最後に記名。何を当時考えたのか、恐らく新進気鋭のハンニャ氏に注目されたいと思ったのだろう、T.Morrisと書いて提出した。
 先生の次の授業時間にホームワークが返却された。ところが、先生が呼んだのは「森」の名前でない。何と言った?“モリス”だ。一堂、静まり返ったあと爆笑。僕もとまどったが、なるほど、あの綴りではモリスしか読めない。顔をやや赤らめて照れながら受け取りに行った。先生もいくらか微笑んで小言も言わず返してくれた。やはり、Morrisはモリスでモリとはならない。今にして思えば僕は‘何と稚拙ないたずらをしたんだ?’と悔いが残る。藤塚先生も来られて間もないころのこと。いたずらガキには英語の教師として当然当たり前の対応ではありますね。
 藤塚先生が着任されたのはこの年、昭和22年4月。青山学院(専)のご出身で、藤村、島田、岩野の各先生、いや、誰よりも生(なま)の英語らしいしゃべり方をされていた。僕もそうだし、生徒の誰もが思っていた。ある時GHQ傘下のCIEから佐官級の偉い外人が四中に尋ねて見えた。教育関係の現場視察ということで、その応対には藤塚先生の、僕らの英語の授業に白羽の矢が立った。四中では外国人の発音にもっとも近いという評判だった藤塚先生だったが、終始、日本語中心に通訳を通して応対された。
 終わって、悪ガキどもが騒ぎ出した。‘ハンニャの英語、外人には全く通じなかった。あれはニセ英語だ’という中傷だ。それには僕はあまり乗らなかった。相手は誰であれ、公式の、あるいは準公式の視察である。周りの日本人が理解できる応答が当然必要である。あとで正直な先生は‘いくつか聞き取れないところもあったね’と発音の違いで理解を超えたことを言われたが、母国語での対応は“三好清海入道”、つまり正解だった。(注・清海の清は青と思っていたが、辞書によると、真田十勇士の三好は清海とある。当時読んだマンガでは青だったのでは)。 時が経って3年半後に先生は思いがけない出来事で苦労される。昭和25年5月25日早朝に発生した改造校舎の火災の時の当直教師をされていたのである。この火災については後にもう少し詳しく触れることにする。

新宿駅前で“初回赤い羽根”の募金活動
 昭和22年の秋を迎えて新生日本社会を支える新たな動きが出てきた。皆さんご存じの赤い羽根募金運動。その第一回の活動に僕らも協力することになった。どういう訳で僕たちが参加することになったのか、詳しく覚えていないが、恐らく社会科の校外活動の一つだったと思う。
 10月1日、募金活動スタートの日に僕らは新宿駅前に立った。当時、既に南口、西口があったから正確に言えば東口の駅前となる。いまは立派な駅の建物に入っており、そのすぐ前の円形の広場(サーカス)が若い人たちを中心にした待ち合わせの場所になっているが、当時は派出所など含めてそんな綺麗な光景ではさらさらない。廃墟の跡にやや復興の足踏みがみられているという程度だった。今は駅舎に収まっている派出所も、当時は東口を出たところの右手にぽつんと一軒家の交番として立っていた。今の場所よりは道路の方に寄っていた。道を挟んで駅正面には食料品専門の二幸(にこう)が既に営業していたように思う。
 意外な感じがするのは「道路」。なぜか道幅は当時のものとほとんど変わっていないようである。勿論、がたぴしだったが、歩道も道路の両側にあった。
 それに当時は都電11号線の2本のレールが走っていて、一段差のあるプラットホームもあった。その後、昭和30年代に都電が撤去されるが、その分だけ車の通行に役立った程度であったように思う。
 なぜ、新宿駅に僕らが行くことになったのか定かではない。ただ、当時は占領下2年が経ち、東京の新宿や上野といった繁華街には颯爽としたGI(アメリカ兵)がいつもかなり行き来していた。彼らは気前がよかった。そんなことも募金の拠点の一つとして新宿駅前が選ばれた一因でもあるようだ。
 クラスも数グループに分かれた筈で、当然、南口や西口に行っていた連中がいたと思う。
僕ら8人から10人ほどが新宿でも最も人の行き来の激しい東口で、赤く染めた鶏の羽根をいっぱい刺したボール紙を数部手に持ち通行人に募金を呼びかけた。現在の高野フルーツや中村屋より斜め駅寄りの位置取りで歩道の道路際(ぎわ)。当時の交番の斜め前だった。みんな恥じらいながらも声を出していた。僕は喋るのが苦手だし人一倍恥ずかしがりやと自認していたので、できれば人の陰で黙っていようと思った。ところが、そうは行かなかった。仲間に山口裕之君がいたのが不幸?だった。彼曰く“森、お前も何かしゃべれよ。これは課外授業だからな”。遂に喋らざるを得ない事態となった。顔を紅潮しながら喋った文句は・・・‘募金をお願いします。皆さんの心遣いで困っている人が再生できるのです’だった。これには直ちに山口君に噛みつかれた。“‘再生’じゃなくて‘更正’だろ”ああ、そうか、と僕は久しぶりに赤い舌を出した。
 当時新宿は3つのマーケットがあった。東口は尾津組、南口が安田組、西口は和田組で、香具師(ヤシ)あがり。恐らく廃墟にたちまち唾を付け、市場を開いたように思う。当時は相当の羽振りを利かしていて、形(なり)の貧しいのは一般庶民、身だしなみのいいのは子分のヤクザ(ご存知だろうが、ならず者が賭場でよくやるオイチョウ(=8の数)株のぶっつり、8・9・3=0役立たずからきているそうな)ということがよく言われた。
 新宿通りの人出はまずまずだったが、募金に協力してくれた人はそれほどいなかった。たしか気前のいいアメリカ兵が当時は高価なお金=あの国会議事堂をヘルメット姿の米兵がにらみつけ、全体で「米国」の文字を象形化した当時評判の拾圓紙幣をおぼえたての‘どうも’と言って募金箱に入れてくれ、僕らはいまとなっては恥ずかしい言葉、ギブミー・チョコレートなどでならされている‘サンキュー・ベリマッチ’で答えていたように思う。午前中だったか、立って募金していた僕らに羽織袴の恰幅のいい親父さんが現れた。尾津組の親分で、確か尾津安之助(やすのすけ)氏と言われたと思う。町の顔役が当時の町内会長で、募金という町内会の仕事を手伝っている僕らの労をねぎらいに見えたらしい。当時の盛り場新宿も3つの組があって、チンピラ同士のけんかや刃傷沙汰が絶えなかったが、そんなフシを思わせない尾津氏の物腰に今でも僕の頭脳にハテナ?ハテナ?のマークが付いている。

2学期中間テストの珍事(ヤマカンの巻)
 募金活動を終えると、まもなく2学期の中間考査が行われた。相変わらず怠け者で、稲田君の家を尋ねては‘今度はどの辺が出るのかなぁ’などと聞きまくって、‘こうらしい’という範疇のものだけ、教科書を開けてオサライをした。“普段から目を通しておけばいいのに”というのが、いつもの思いで、覚えようとしても次から次へと頭から逃げていく。最後は“えい、糞くらえ!”と腹を括ることになる。
 そうした中で、不思議に頭に入れたものがあった。スズメ(平賀幸五郎先生)氏の古文である。元来国語は苦手である。それに輪をかけて漢文や古文は出来れば取りたくない科目である。だが、捨てるわけに行かない。基幹科目をある程度で見切りをつけ、やはりいやな学科でも目を通さなければ、という気分で古文の教材を取り出した。
 平賀先生は新井白石の「折たく柴の記」か江戸時代と思われる人物が書いた随筆の抄文を教材に使われていた。その冊子をめくると、見事なものだ。鉛筆で手を入れた形跡がほとんどない。ところどころに一か所か二か所ルビを振るような形で添え書きをしている。全く僕の勉強への態度がうかがえない。
 ところが、試験範囲と指定されたところの終わりの近くに全面鉛筆で書き込んだ部分が見つかった。僕の筆跡に間違いない。
 いやぁ、天の救いだ。これを覚えていこう、二頁にわたる文章の行を丁寧に紙に書きながら暗記していった。既に腹を括ることは決めている。ほかが出たら完敗、ゼロを覚悟の勉強だ。それに文章そのものがそれほど退屈しない。すらすらスムーズに頭に入る。この部分はすっかりモノにした。
 さて、翌日の古文の試験の時間、まあ先生も甘く採点されるだろう、難しければゲタを履かせるだろう、など思いながら、試験問題を見た。
 いやぁ驚きだ。前夜必死に勉強をした二頁の文章が問題の全部になっている。付け刃だが、覚えたばかりだから新鮮だ。問いに対して筆(鉛筆)がすらすら運ぶ。これほど楽なテストは近年まれである。悪い癖だが、見直さずに答案用紙を提出した。

2学期中間テストの珍事(フロックの最高点)
 数日後、恐らく米田先生だったと思う。国語の授業が始まって10分も経っていないころ、教室の前のドアが開いた。平賀先生である。
 “試験の採点が終わったので報告する”と言うなり“1番零点、2番5点、3番零点・・・”と零点が続く。満点は50点。今の記憶では10点はいない。普段成績のいい奴も振るわない。かなり厳しい採点だ。この調子では俺も零点か5点だなぁ、と暗い気分になる。30番代になってようやく20点が出た。すごい。いよいよ僕の番だ。不安と少しの期待でドキドキ。43番・48点。一瞬、エッ、そのあと安堵の胸を撫で下ろした。色々な感情が交差する。やっぱり勉強してよかった、という気持ち、先生の言ったとおり鉛筆書きを忠実に覚えて答案に書いたのだから高得点は当然だ、でも、どの部分で2点減点されたのだろうか。虫のいい話である。そのあと反省らしい気分が出てくる。よくヤマ勘が当たったな。そうだよ。考えてみると実のある勉強を積み上げた結果ではない。にわか勉強にすぎない。もしヤマが当たらなかったらどうだったろう。僕も零点だ。零点や5点が圧倒的多数なら恥じることもない、など勝手気儘な解釈をしながらその日は静かにしていた。だって普段成績の悪い奴がはしゃいだら、それこそ嫌がらせの反撃を受けるのは必至だからだ。
 平賀先生は5クラスのうち3クラスの古文の授業を担当されていた。他のクラスの情報や噂によると、僕の48点が最高得点だったらしい。150人の頂点だ。この最高点は別の意味がある。これは僕の当て推量でもある。先生側の問題だ。テストの結果が零点や5点、20点止まりでは決してよい問題とはいえないのである。逆に普通ではあまり事前に触れることが少ない教材から問題を出すが、それでもテストで満点近い結果を残すものがいる。これは先生の指導の良き現れという評価になる。僕の場合は先生の言われる解釈を忠実に再現したものであまり自慢できるものではないが、低レベルの採点続きの中で僕のフロックの点に平賀先生もホッとされただろうし、同時に自信を持たれたのではないかと思う。それがあの異例ともいえる別の先生(前出の米田先生)の授業時間に割り込んでテストの結果を報告されたのであろう。
 しかし、にわか付け刃はもろくも崩れる。2学期の定期試験で僕の古文は惨憺たるものだった。それでも国語(現代)や漢文は3(普通)だったが、古文は確か4を頂いたように思う。

先生の思いを踏みにじる
 古文の珍事?これについては後日譚がある。
3年になってジゾウ(伊藤甕雄先生=物理)氏が担任のF組になった。上が卒業されて教室も固定してきた。部屋は碓井先生に出身校を聞かれ、いやな思いをした旧物理教室である。今度は前とは逆で、北側に教壇があった。北条君やお寺の息子・和泉君や前川君などほぼ山手線グループは一緒だった。
 僕は5列の内の4列目、和泉君は斜め右後ろにいる。
 平賀先生は前年と違って現代国語を担当された。ある時の国語の授業で先生が何か質問された。そのちょっと前から和泉君が何か分からない問いかけをしてきた。今様ツイッターである。僕が、斜め後ろを振り向いた途端、“森君はどう思う?”と先生の言葉が飛んできた。今ならどういうことですか?と聞くところだが、四中受験時など生来取ってきた固有の態度「分からないときにはすぐノーと返事を」で、たちまち‘分かりません’と答えてしまった。
 先生は“そうか森君が分からないようじゃ、みんな分からないな”と言われて答を述べられた。劣等生の僕だったが、先生の思いを裏切って惨めな気分になった。そんな結末をもたらした和泉君を恨んだりもした。ただ、今の時点で思うと先生は‘怠け者の森’をご存知で指された感じもしなくはない。
先生は卒業してからも僕のことを覚えてくださったようで、他界される数年前、新宿のクラブでお会いしたとき“君は確か東北のNHKに居ったようだね”と話されたことがあり、担任になって下さったことがないのに気にかけて頂いたことを知った。感無量である。

相変わらず悪い東京の食糧事情
 僕の家は近所にいる山形の担ぎ屋さんからヤミ米が入っていたが、そこに衝撃的な事件が起こる。たしか22年の夏だったと思う。ヤミ米の一斉摘発である。
 新聞に載った上野駅構内の強烈な写真が今でも頭に残る。折角仕入れてやっと終着駅にたどり着いた途端、有無を言わさず召し上げられるのである。
 たった1枚の写真の中に捕まらないように逃げ惑う者、棍棒を持って?追いかける者、あっちこっちに捨てられたヤミ米の袋など暗澹とさせる光景が収まっている。これからはヤミ米は家(うち)にもう来ないのではないかと不安にかられた。
 ところが、数日後、あの担ぎの上野さんがなにがしかの袋入のお米を持って現れた。‘なぁ〜に、ヤバイと思って途中下車したンだよ’と庄内弁でその間のいきさつをまくし立てた。さすがは担ぎ屋のベテラン、情報を確実に掴んでいたらしい。しかし、その後ヤミ米の運びは次第に減ってきたし、蓄えがあった親父のフトコロ具合も兄の治療費の支払いで細くなっていた。
 (何分、軍医あがりの近所の黒木さんに支払う往診代もバカにならない。また、兄の体内に注射した総計5000万単位のペニシリン、これは、戦後復員したあと米軍のLST(戦車揚陸艇)に雇われ、この艦艇に乗り込んでいた兄の中学時代の同級生・海兵あがりの武田泰忠さんを通じて仕入れたものだが、これも相当な額になる。兄を助けようとする親心は良く分かるが、このことが森家の財政を圧迫し、後刻僕の進学に多大の影響を与えた。)
 僕の家はまだましのほうだが、大勢の都民の台所は恐らく火の車そのものだったであろう。勿論、大阪など非常な空爆に見舞われ、廃墟と化した地方の大都市も同じような状態だったろう。当時の新聞記事などから容易に推測できる。

息をつないだ米軍物資の配給
 見かねたマ司令部=GHQが窮余の一策を講じた。緊急物資の放出、配給である。小麦粉、バター、脱脂粉乳、トウモロコシ、ジャガイモの粉末などなど。全て縦30から40センチ、直径20センチの円筒形の缶に入っていた。カンの表面はどす黒い濃い緑色。当時、隣の米軍エビス・キャンプを覗くとよく見られた色である。そこに黒で英語の文字が色々書いてあったが、いま頭に残っているのはrationの単語だけだ。やはり米軍が戦地で使っていた食材で、それを飢えに苦しんでいる僕ら首都の日本人に放出してくれたのだ。いまはアメリカに複雑な思いが錯綜するが、当時は毛が生えたばかりの子どもだけに手放しで喜び、アリガタイと感謝した。
 配給は町内会の事務所で行われた。家から10分ほど歩く。山手線の外側を恵比寿駅と目黒駅を結ぶ道路のほぼ真ん中、いまは自動車教習所のある近所である。その近所には苦い思い出の春日神社の境内がある。大連から上京して田道国民学校に転校すると毎日か、週に2、3回は朝6時に起きて、この境内に早起き体操をしに来なければならなかった。怠け者の僕はそれが苦手だった。でも、さぼると出席の印が貰えず、あとで学校に行けば先生に叱られる。かつては苦行の思い、戦後は配給取り、家と町内会を結ぶ道は決してよき径(みち)ではなかった。
 休みの日の配給は僕も母親に付いて行った。妹も一緒の時もあった。分配は町内会の有力者が担当。母親も戦争末期から町内会の活動に協力していたから顔見知りの仲だ。配給は1人に付きなんぼである。我が家は5人暮らしだから5人前、僕が付いて行ったときは計算より多いときがほとんどだ。
 ‘かあちゃん、少し多いよ’と僕。‘黙って受け取りな’と母親。どうやらなじみの母に免じてあまいお手盛りがあったように思う。ヤクザのやり方くさいが、人間の情があっていい、それぐらいあっていいと思っている。
 ただ、主食、準主食の配給は大いに救われたが、それだけで生きるのはむりなことは皆さん、即ご存知だろう。野菜など副食が欠かせないからだ。

ラジオが叫ぶ“農家の皆さんこんばんは”
 当時の娯楽と言えば映画が既に復活し大衆娯楽の最先端を行っていた。しかし、入場料を払わなければならない。小遣いも乏しい生徒の分際では当時の最高の娯楽は「ラジオ」を聞くことだった。しかし、当時ラジオはNHKの前身・社団法人日本放送協会の出す電波が唯一のものだった。ラジオ第1放送がメインで戦前からあったラジオ第2は復活したものの午後からは休みだった。ただ、占領軍向けのラジオ放送があり、よりにぎやかだった。
 学校の勉強がしんどいから、勢いラジオの声に耳を傾けた。そのラジオが夜の、いまで言うゴールデンタイムに新番組“農村に送る夕べ”?が登場した。この時、海沼実氏の音羽ゆりかご会があったかどうかは分からないが、彼に育てられた童謡の歌手で売れっ子の川田正子や孝子姉妹がふんだんに登場し、人気番組となった。どんな番組だったか、思い出せない。番組内容は兎も角、ここで取り上げたのは、この当時、農業というか、農村というか、農家というか、この分野が重要なポイントを握っていたのである。
 既に農地解放が行われて、何十万という水呑百姓が農地を手に入れ地主となった。ちなみにある年表によると、第1回農地買収が22年3月末に行われて不在地主から、まず12万ヘクタールの耕地が政府に買い上げられた。
 食糧事情逼迫の折から今や農業は国の基幹産業の最右翼であり、猛烈に増えた新地主を督励して食糧増産を進める、こんなねらいが番組にはあったろうし、僕らも‘早く食い物のもとをウウンと作ってひもじい思いをなくして欲しい’と切に願っていた。特に近郊農業は後回しになり、とても都会の消費者に回らない。自家用に栽培した作物を狙え!近郊の農家をアタックする買い出し部隊が秋には最盛期を迎える。

学業よりも食い扶持探しに翻弄
 米軍の戦時食の放出や自作農の増加で食糧事情が多少は好転したものの疎開から帰京する人たちも多く、東京都心の食生活は相変わらず悪い。僕は貧しいながら弁当は母親が作ってくれたものを持っていった。ただ、昼食の時間になると、教室から出ていくものがいた。何人かは覚えていない。
 勿論、高木明二君(専門学校校長・章氏の御曹司)のように艶のある顔をしていたのは稀で、いま思うとさえた顔色をしたものはほとんどいなかった。それでも僕らガキは親の脛をかじっているものはまだましだ。晴れて有名大学の入試に合格しても入学を諦めたり、学業そっち除けで食い扶持確保に駆けずり回らなければならなかったりした。
 僕の兄の友人で近江さんという東大の学生がいた。よく僕の家にきては兄などと麻雀をしていた。彼もまた日中は秋葉原の野天でハサミ売りのアルバイトに専念していた。東大の学生帽を被っているのをウリにして‘切れるハサミはいかがですか’と売っていたそうだ。
僕は両親がいるのでそれほど追いつめられていなかったが、ある時家の隣近所のガキどもと買い出しに行こうということで話がまとまった。親に話したら早速反応があった。親父が怒って顔を引っぱたき、足蹴をしながら‘俺はお前たちに不自由はさせていない’と怒鳴り散らした。僕が縮こまっているのを見て母が同情し、‘みんなを助けようとしてくれるんだよね。行って来な’といってかなり高級な、とっておきの反物を渡してくれた。そして‘みんなの行くところに付いて行きなさい’と言いながら、僕の行き先の分として当時、埼玉県の越ヶ谷に住む甘粕四郎氏を尋ねるよう手配をしてくれた。地図は貰ったが、紹介状を書いてくれたのか、電話を掛けてくれたのか、いまは定かでない。
 甘粕さんは親父と同じ東亜同文書院の県費給付生、県立津中学校の同級生だったが、親父が中途退学したもののすぐ専検に受かったため甘粕さんは親父の一級下だった。そんな訳で家族ぐるみの付き合いをしていたが、戦後、埼玉県の東部に引き揚げた。甘粕家のご長男は現代史で有名な甘粕事件の甘粕正彦憲兵大尉、2番目のお兄さん二郎氏は戦後長く三菱信託銀行の社長か頭取をされていた。四郎氏も海外(支那や満州、いまの中国)でいくつかの会社の役員をされていたと聞く。
 さて、出掛ける当日、早朝に僕を含め4人が集まった。尋ね先を持ち寄ることになっていたが、僕のほか3人は目的地なし。やみくもにぶち当たろうという算段だ。僕と同じあまり頭を使わず出来の悪い連中だが、これには失望した。でも、そう言っておれない。皆は僕の越ヶ谷でいいから行こうという。
 結局、浅草経由、京成電車で越ヶ谷に向かった。僕は腹の虫が収まらなかったが、それにまして不安で落ち着かない。子どものころ2、3回お会いしたが、行って会ってくれるだろうか、心が落ち着かない。幸いなこと、甘粕さんは家に居られた。子どものころにお会いしたときと同じスマイルで迎えてくれ内心ホットした。母から預かったものを渡して目的を告げた。
 農家が多い越ヶ谷といっても会社の役員をされた甘粕さんが鍬を取っている訳ではない。早速、甘粕さんが、数件の農家を案内してくれることになった。農家も自家用に取っている作物だからあまり手放したくない。‘ここのところあまり出来がよくないし’とか‘もう、もって行かれたからいいのないよ’とか言われながら買い物の交渉を進めた。その甲斐あってか、みんな大きなリュックサックいっぱいと手提げ袋を両手に持つほどの作物(僕はジャガイモ中心)を仕入れて帰還した。帰り道、皆に甘粕さんの住所を教え、お礼状を書いてね、と頼んだが、果たして3人は約束を果たしたであろうか?
 家に帰ると母が待っていて喜んでくれた。親父は黙っていた。僕の感想は。
 そうですね、机に向かってばかりの勉強より身になる体験をしたかなぁ〜という気分でいる。

寿産院(新宿区)の新生児大量餓死事件
 食糧不足が続くなかショッキングな事件が起こった。昭和22年、この年の10月半ば、東京地方裁判所の山口判事(良忠氏、辞書で検索)が栄養失調で死亡した。法の威信に徹してヤミ米を拒んだための結末だった。
 当時の巷間伝わる反応はさまざま。判事という肩書き故に死の道を取らざるを得なかったのはなんとも可哀想とか、なにもそんなに突っ張らなくても、ほかの判事だって食べているのにとか、同情論が圧倒的に多かったようだが、法を守ったのは流石に法の番人というもの、反面、堅物過ぎて愚かな生き方という厳しい見方も若干あったように思う。
 事情が変化しないまま年が明けて昭和23年の1月、新生児を食い物にする衝撃的な事件が起こった。世にいう寿(ことぶき)産院新生児大量餓死事件である。しかも、事件の舞台が四中のある新宿区内というから一層驚きもした。野次馬根性が加速する。記憶にある事件の中身はこうだ。寿産院と近所の葬儀屋が結託し、生まれた赤ちゃんを多数お金を取って貰い受けたのはいいが食事を与えず、都合103人の新生児を餓死させたというものだ。この事件で産婆の院長と夫、それに葬儀屋が早稲田警察署に逮捕された。早稲田署は当時四中が間借りをしていた原町小学校の傍、旧都電若松町の曲がり角にあった。警察では重要な犯人(マスコミでは後に容疑者と呼んでいる)は報道陣に面通し?をしている。この寿産院事件でも捕まった3人は翌日、多分検察庁送りのときと思うが、この時にこの面通しが行われた。早稲田署の前は恐らく百人を超える記者やカメラマンがカメラの放列を敷いて待ちかまえている。午後2時ごろだったと思う。五段ほどの石段の上の扉が開かれ、3人が出てきた。産婆の院長はショールを肩に掛けていた。3人ともうつむいている。すかさず、あちらこちらから罵声の嵐。‘顔を上げろ’‘悪いことをしやがってなんだ。顔を上げろ’。異口同音の声が重なって轟音となり、一瞬虚を突かれて3人は顔を上げた。そこを捉えたカメラのフラッシュ、フラッシュ、フラッシュの波。さすがと思ったものの僕は当時まだ心は純真無垢。何だ、汚いやりかただな、報道陣はえげつない。最低だ、と心を痛め、こんな輩とは決別だと誓った。ところがそれから約10年後、自ら記者の世界に飛び込むとは・・・。人生とはなんとも皮肉なものである。

報道等に見る事件の詳報
 極端な都会の食糧難で起きた寿産院事件。もう少し詳しく知りたい、との思いで探してみた。それがあった。パソコン情報である。諸兄姉の中にも好奇心旺盛の方も居られる筈だ。かなりの長文なので要約して書き留めておきたい。
 いまをさかのぼること60余年前。昭和23年1月15日、もらい子を次々に死亡させた疑いで、新宿区柳町の寿産院の院長で牛込産婆会会長の石川みゆきと夫の石川猛、それに同区榎町の葬儀社経営の長崎龍太郎(社長)の3人が逮捕された。
 事件としては3日前の12日夜、葬儀屋の長崎社長が寿産院から4人の赤ちゃんの遺体を運んでいるところを非常警戒中の早稲田警察の署員に見つけられたことから始まった。
 石川夫妻は昭和22年7月から新聞や雑誌に広告を出し、1人につき5000円から6000円の養育費を取って赤ん坊をもらい受け、逮捕の時点では39人を死亡させていた。長崎社長は死んだ赤ちゃんを1人500円で埋葬するのを請け負っていた。逮捕当日の午前にも5人の遺体が近くの国立第一病院に運ばれ、当時の小児科部長の診断では、3人が肺炎や栄養失調で死亡、2人は凍死で、その日の午後、信濃町の病院で解剖した結果、胃の中が空(カラ)だったことが分かった。警察が寿産院を捜索したときは新たに7人のもらいっ子の赤ちゃんと赤ちゃんの遺体1体が3畳間の竹製ベッドの中で寝かされていたという。翌16日の新聞を見て預けた母親2人が引き取りにきたそうだ。
 その後、17日の正午までに子どもを心配して寿産院に駆けつけた母親は10人で、ほとんどがお妾(めかけ)さんと女給(ウエイトレスあるいはホステス?)だった。しかし、多くの子どもの母親が病院に残したのは仮名かニセの住所で、被害者の母親への連絡はお手上げ状態だったという。
 16日の調べでみゆき容疑者は殺意を認め、警察は夫婦を殺人罪、葬儀屋の長崎社長に殺人幇助罪を適用することを決めた。みゆき容疑者は更にもらい子を養親に譲ることもしており、‘こちらは300円、こっちは器量がいいから500円頂きます’と子どもを物扱いしたというもらい受けた女性の証言もある。
 17日の夕刻までに寿産院が受けたもらい子の数は204人となった。しかし、証拠物件はみゆき容疑者の持っていた「預かり子台帳」と区役所の埋葬確認証の2つだけ。死亡した子の数は容疑者の台帳では69人、埋葬確認書では84人、医師の死亡診断書は74人とまちまちで、結局、区役所衛生課が受け取った死亡診断書の数から寿産院事件で死亡したのは103人に落ち着いた(当時の新聞などで覚えていた数が奇しくも一致)。また、養い親にもらわれていった子どもの数のほとんど=98人の落ち着き先も不明だったそうである。
 寿産院では正規のルートで配給された育児用の食品をヤミに横流ししていた。のちに逮捕された産婆見習いの女性は練乳30ポンド、粉ミルク1叺(かます)、砂糖、酒などが横流しされているのを見たと供述している。妻は鬼産婆と言う異名の主。夫は近所の薬局で‘子どもが死ぬと葬儀酒が2本くる。1本をヤミに流して、1本をわしがいただく’と豪語していたという。
 ところで、時代が時代、「第二の寿産院事件」が浮上する。新宿区戸塚町にあった淀橋産院での大量餓死事件、埋葬手続きの不備から遺体を強制解剖したところ死因が栄養失調と分かり、戸塚警察署が強制捜査、女性院主と医師が拘束された。近所の寺の住職によると、100個近くの骨を無縁塔に収めたと証言している。
 このパソコン情報では刑については触れていない。ただ、みゆき受刑者は昭和27年恩赦で出所、昭和44年には週刊誌に‘私は無実’と亡くなった夫に責任を押しつける証言をしている。
 もっと具体性のある話をお知りになりたいときはGoogleの昭和23年1月15日を検索、「誰か昭和を想わざる」の『新宿もらい子殺し』をお読み下さい。参考資料は1948年版朝日新聞東京版各記事など、と1969年「億万長者になっていた『寿産院事件の鬼婆』」。

小松先生(体育)のお小言に涙
 僕は勉強をするのが嫌なうえに体育が苦手であった。いまだに運動神経が鈍い。どうやら母親の胎内に9か月しかいなかった所為ではないかと狂信?している。それに当時の持病、駆けるとまもなく左の横っ腹が痛み出す。ちょうど右の盲腸と反対側で、僕はそのような症状を起こすと左盲腸、左盲腸といっていた。
 2年の体育の担当は小松利夫先生だった。小松先生は国立の東京体育専門学校=東京体専(東京教育大体育学部から今の筑波大体育群の前身)を出られた。教室の座学では、よく“体育は先天性体毒素の積極的除去のため”と繰り返された。つまり、人間には生まれつきからだに悪いものを持っているから体を動かすことによってそれを体外に追い払い健全な生活を守る、というお話だ。
 寒い時だったから2年の3学期だったと思う。小松先生の体育の時間がマラソンタイムになった。原町小学校を出て若松町を周り、河田町の電停を左折して東京女子医専の前をとおり、薬王寺町、柳町から学校に戻るというコースで、ちょうど4キロ=1里ほどの距離だったと思う。終始終わりの方だったが、河田町を回って女子医専に差しかかったところ、急に左の横っ腹が痛み出した。柳町まで走ったり、歩いたりしたが、校舎に向かう坂がきつい。最後はとうとう全部歩き通した。勿論ビリっ穴(けつ)である。校庭で待っていた小松先生にプールの北側にある鉄棒のある場所に連れて行かれた。
 いろいろ先生から言われたようだが、今覚えているのは‘男だ。もっと頑張らなきゃ駄目じゃないか’ということと‘これくらいの距離をこなせないようでは長生きできないぞ’の2つのフレーズ。僕は横っ腹が痛くて歩いたことの釈明をしたが、先生の話を黙って聞いていた。ただ、聞いているうちに涙が出てしくしく泣いていたのを思い出す。四中に入って学校で涙を流したのはこれ一度で、あとにも先にもない。
 いま思うと、先生のおっしゃるとおりだし、僕を見捨てないでくれた先生を思うと、実に不甲斐なさにとらわれるのである。

“斜横断”で下校の8人に出頭切符
 本当に中学2年は暗い、全く“つき”のない学年だった。僕らは知らぬ間に作られた法律や政令のわなに掛かってしまったのである。寿産院事件の熱(ほとぼり)も未ださめない冬の3学期のさなかだったと思う。北条君、和泉君、前川(正)君など僕らいわゆる山手線グループが間借りの校舎を出て集団下校の途についた。ちょうど午後2時半か3時ごろの時間だった。河田町からきて牛込柳町にほぼ直角にカーブしている若松町の交差点を渡り切ったところで若い巡査に呼び止められた。名前は忘れたが、苗字は宮崎と名乗った。宮崎巡査は‘君たち、今どこを渡った?’‘この道を横切りました’と僕ら。‘君たちはこの道を斜めに横断した。これは法や規則に違反する行為である’と巡査。そして交通違反をした証しとして各人に切符なるものを書き込んで渡し、‘3回切符を切られると前科一犯だ。警察署に講義を聴きに来れば違反行為は消える’といって数日後に早稲田署に出頭するように僕らに言いつけて去った。僕らは全く罪意識がないのに犯罪者にされ、帰り道は皆、憂鬱な気分で河田町の方にとぼとぼ歩き掛けた。誰かが突然声を出した。‘憎いのは宮崎某。悪人は宮崎某’。前川(正)君だ。口数は少ないが、時折、急所をついた冗談を飛ばして皆を笑わせるひょうきん者だ。彼の発声で辺りの空気はやや和んだ。
 出頭の日時についてははっきり覚えていない。しかし、学校に中途退出という断りをしたことがないので恐らく日曜日か休日だったとおもう。
 僕は家に帰って夕食時に出来事を家族に話した。病気が小康状態にある兄は僕の話を聞いて‘拓三、おまえは三分の一犯だ’という。僕が行きたくないというと、兄は‘おまえ、行かないと犯罪者になるぞ’。親父は‘家を汚す不心得者だ’いう。全く冷たい話だ。嫌だけど警察の講義を聴きに出掛けることにした。
 早稲田署の2階か3階の広い会議室には僕らの8人を含めて30人余りが集まっていた。署内広く集められたようでほかに馴染みはいない。中には八百屋、魚屋をはじめ奉公人や商店の従業員、勤め人、僕らと同じ生徒や学生も混じっていたに違いない。やがて署長の講話が始まった。署長の名前は聞いたが思い出せない。ただ、顔は映画に出てくるフランケンシュタインにすごく似ていた。署長の話は、正確に覚えていないが、道路の秩序ある行き来をするため通行人(歩行者)とバスや電車など車両についての法律とそれを実行する具体的なルールが決まって1月から適用されたことや、主な条文の内容説明。そして、それに違反すると罰則が適用されるなどお役所風というかお上風というか、そんな感じの語り口調で、淡々としかも長々と話が続けられた。でも中身は全然頭の中に残っていない。
ただ、強烈に覚えているものがある。話の途中だったか、終わりだったかに質問を受け付ける場面があった。‘(法律の)中身も全く知らないのに違反だ、警察に来いというのは納得が行かない’幾つかあった質問の最後。途端に署長の怒号が部屋いっぱいに響き渡った。‘違反している者が何をいうか、黙れ!’まだ、旧法(六法)時代の昭和23年早春の出来事である。

GHQの差し金?で作られた交通新法
 僕らが引っかかったのは昭和22年11月に公布された道路交通取締法とそれに基づいて12月に同じく公布された道路交通取締令で、昭和23年1月1日に施行された。僕らは施行後まもなく検挙されたことになる。新聞・ラジオだけというマスコミの希薄な中で、法や政令の中身を知らされないで不意打ちを食わされた格好だ。
 日本は道路事情の悪さを戦後も引き継いだ。東京など都会では舗装された道路もあったが、例えば僕の集団疎開先の旅館の脇を通る水戸・郡山間の主要道路も赤土がむき出しの土の道。全国のほとんどの道路は同じような状況だった。このような道路状況に一番苦虫を示したのは日本を支配する米軍をはじめ連合軍、つまりGHQ傘下の軍隊だ。兵士や兵站食糧を運ぶ大型トレーラーはいうに及ばず乗用車の通行すらままならない。昭和21年ごろから各地でも占領軍側の交通停滞問題が浮上、福岡県など数か所でGHQから即時改善せよ、とのお達しがきていたようだ。これを受けた日本政府の対応は、勿論、主要道路、いや、占領軍が必要とする、例えば基地の周辺の道路を急いで舗装すること、これが第一だが、次いで考えたのは歩行者の車道通行を極度に制限することだ。何故って、都会の道路だって米軍をはじめ占領軍の車両が頻繁に行き来するからだ。
 そのため、緊急の措置として取られたのが、僕の推測だが、道路交通取締法と道路交通取締令の公布だ。同法令は歩行者と車両の両方を対象にしたものだが、特に歩行者にはとても厳しい。規制の幾つかを挙げてみよう。
 その1つは、道路の左側歩道を通るのが原則だが、右側歩道を通らなければならないときはその歩道の左に寄って歩くこと(政令第8条)。
その2、歩行者は(道路と歩道がある場合)横断する場合のほかは車道に入ってはならない(第9条)。
 その3、車道の横断は横断歩道が付近にあるときは(そこまでいって)その横断歩道を渡らなければ行けない(第10条第1項)。
 その4、近くに横断歩道がないときは、交通の安全を確認してから最短距離を選んで車道を横断しなければならない(第10条第2項)。これが斜横断の禁止条項だ。
 その5、歩行者は諸車または軌道車(いわゆる路面電車のこと?)の直前または直後を横断してはならない(第11条)。
 最後の5番目の項目は歩行者の身の安全を考えたものとも取れるが、歩行者の行動の規制だし、場合によっては人身事故の免責とも受け取れる。
 それにこの道路交通取締令には罰則が設けられている(第57条)。
 改めていうが、僕らはその4の斜横断の禁止の網に引っかかったのだ。警察の講義聴講で放免となったが、もし訴追され有罪となれば1000円の罰金か科料を科せられる。余計なことだが、当時の1000円は2つの国公立大学の受験料に相当する子どもにとって非常に高い金額だ。
 以上のように、歩行者はがんじがらめ。俗にアメリカさんが来て自由になった、という至言?を真っ向から否定する反民主主義の最たるものと今でも思っている。歩行者に配慮という法の基本は道路交通法、昭和35年6月施行の法の成立まで待たなければならない。しかし、のちのこの新法は歩行者優先を謳ったが故に、逆に昨今の交通事情を悪化させている元凶の一つになっている。世の中、なかなか旨くいかないものとつくづく思う次第だ。

都立四高併設中学校に秋風吹く
 多事多難な中学2年の一年だったが、昭和23年3月、僕らはほとんど晴れて?2学年の学業を修了した。そして都立四高=東京都立第四高等学校という校名そのものの存在が既にやり玉に挙がっていた。今の皆さんはそれほど感じないかも知れないが、ナンバースクール、特に一高、四高のエリート意識に対する忌避感は相当強いものだった。一時も早い校名の変更が急がれた。既に触れているが、昭和23年4月の新学期のスタート時点で、ほかのナンバースクールは地名を次々と新しい校名にしていった。四高も2年の後半から、それに倣う風潮が漂っていた。そうなると新校舎はどこに定着するのかが差し当たっての焦点である。

移転先 戸山が原に内定し廃校なくなる
 校舎の移転先が内定したといっても僕らに正式に伝達された記憶がない。朝礼では四中の存続や敷地の確保などに尽力された石川先輩が二、三度見えて挨拶されたことは先に書いたが、僕が休みか遅刻したときは別として朝礼での報告がない。いつ決まりの契約が結ばれたのかも分からない。
 ただ、前年の秋だったと思うが、選定された新校歌の中に「戸山の森」と
いう表現が出ていたり、幾人かの先生が大体“旧陸軍の戸山が原に移るようだ”とにおわしたりし出した。かなりたって聞いた話では、旧陸軍戸山騎兵学校の跡地だと分かったが、正確な名称かどうかは分からない。ただ、あとで詳しく触れるが、跡地にコンクリートの飼い葉桶の壊れた瓦礫が散らばっていたことは事実である。これも新校地に決まってず〜っとあとになるが、僕らの同級生・天野義康君の親父さんが社長をしている富士山鉄道が戦後に払い下げを受けて所有していた土地で、例の新宿にあった都電13号線のプラットフォームから靖国通りまでの軌道敷地内の都有地と交換し、東京都の所有になったということを聞いた。
 兎も角、新しい場所がやっと内定し、廃校にならずに済んだと僕らは胸を撫で下ろした。よき歴史を刻んでくれた先輩方の努力のたまものと思っている。