終戦直後の風雪に耐えた名門校

                             昭和27 森 拓三

第五章  戸山高校併設中学校での3年生


都立四高から戸山高校の併設中学校へ
 都立四高併設中学校2年を修了した僕らは校名変更で都立戸山高校併設中学校3年生として昭和23年4月からの新学期のスタートを切った。
ここで屁理屈を言うわけではないが、学校の公式な文書とか後輩を含めた卒業後の多くの文集などの記録には、戸山高校のスタートは昭和24年4月と書かれている。しかし、僕らは新学期の始まった時点で都立四高が消え戸山高校の併設中学校の3年だ、ということを聞いている。口幅ったい言い方が許されるならば戸山高校が昭和24年4月にスタートしたと仮定したならば、僕らの存在は何なんだろうか。四高は既になく、戸山高校でなければ僕らは帰属先のない幽霊人口みたいなものになる。戦後の混乱期、曖昧なことは多々あるさ、とおっしゃる御仁も居られると思うが、ルーツを真剣に?辿ろうとするクソ真面目な者にとっては腑に落ちないところである。
 それは兎も角、都立戸山高校併設中学校3年が存在するものとして話を進めよう。
僕は、「先生の思いを踏みにじる」で触れたように3年はF組で、担任はジゾウさん(前出・伊藤甕雄先生)だった。2年次の通学グループや河合哲夫君、久保顕夫君が同クラスのほか、新たに横溝正夫君や伊藤成一君、高井良昌君などが加わった。2年と比べれば一クラス増えている。クラスの人数は約50人だから新入生時代より50人は増えたことになる。疎開者の帰還や海外からの引揚者の受け入れなどによったものだ。次の高校に進学すると8クラス400人近くに膨張する。

上背伸びてクラス2番のノッポに
 個人的なことだが、僕は背丈が相当伸びた。クラスの一番ノッポは荒木栄作君、それに次ぐ2番手が僕だ。何センチか忘れたが、160センチ前後はあったのではないか。9か月の早産児も勉強もろくにせずぶらぶらしてた所為なのか、家族からも‘大男、総身に知恵が回りかね’とからかわれもした。
 F組では通学グループのほか、特に横溝正夫君と仲良くなった。いや、仲良くして貰ったといった方がいいかも知れない。恰幅のいい彼はいつも陸軍軍人のカーキ色の上着を着用して学校に来ていた。教室では時々先生の言うことに頷きながらメモ取ったりしていたが、先生への質問など発言はほとんどせず、背筋を伸ばし、歩く時はゆっくりノッシ、ノッシと歩いていた。その様子から「ゾウ」さんという綽名がついた。本人も異論はなかったようだ。横溝君は学校からほど遠くない新宿区の旧高田老松町に住んでいた。時々、途中まで一緒に帰った。若松町の交差点を右折して坂道を下っていく彼の後ろ姿は今でも脳裏に刻まれている。当時僕は机に向かうよりは稲田君などの家を尋ねて、いわば耳学問で‘もの’を仕入れていた。学校では、よくゾウさんには僕の分からないことや聞き漏らしたことについて尋ねた。しかし、彼はいやがりもせず、答えてくれた。後年、そう今(2011年)から10年ほど前、彼と卒業後初めて会い、一緒の組でゴルフをすることになったとき彼は言った。‘森、君は頭がいいが、本当に勉強しなかったな’。頭がいいは別として、やはりゾウさんは当時の僕のことを的確に捉えていたんだなぁ、と感心した。

クラスの雑記帳にウザイ?な映画コメント
 もう1つ、クラスで新しいことは、誰かの発案だったとおもうが、クラスの雑記帳が設けられ、クラスメートが自由に意見を書き込むようになった。順番か、書きたい奴が書くのかは忘れたが、余り書かないと、いろいろ雑音が入ってくる。僕はだんまりを決め込んでいたが、‘おまえ、書かないのか’とうるさい。ある時、「ザ・グレート・ドルフィン・ストリート」という映画が上映されることになった。オーストラリアの海岸を舞台にした青春物語だったと思う。たしか、学校推奨映画でもあったようだ。そうでないと家の許可が得られないからだ。その映画を1人で観に行った。カラーで日頃薄暗い生活をしている僕にとっては明るく開放された気分になった。突然、これを書いてやろう、と気が乗ってきた。事前にノートを持ち帰っていたときなので帰宅するや否やノート書き始めた。どちらかというと文章が下手なので、まず考えることは映画の筋書きを書き込むこと。頭をひねる時間がなく簡単に書き始めることが出来るからだ。ところが書き出すとあら筋が(大学)ノートの1ページ半にもなった。それに海外の若者の青春は羨ましい、たしかそうだったと思う、というコメントを含めて2ページにもなった。こんなに長い作文は初めてだ。よく書いたと思う。翌日、学校に持っていったノートを返した。その夜、早速、河合(哲)君から電話が掛かってきた。‘森、おまえ映画配給会社から(宣伝費を)もらっているのか’。誠に痛烈な批判だった。現在、あの映画内容、僕が何を書いたかなど、すっかり忘れたが、河合君が電話を掛けてきたことやもう絶対書かないぞという決意をしたことだけは覚えている。

憲法学者・宮澤俊義先輩の怒り
 新しい日本国憲法が施行されてほぼ1年経った昭和23年の5月、梅雨に入るか入らないかのころだったと思う。東京帝国大学の法学部長・宮澤俊義教授をお招きして講演会が原町小学校の講堂で開かれた。宮澤教授はわが四中の先輩で、新憲法の制定に大変尽力されたことはご存知の方が多い筈だ。当時先生は教壇に立つ傍ら講演が引っ張りだこで、お呼びするのに1年以上掛かったという話を思い出した。
 会場の講堂兼屋内体育館は生徒のほか先生方でいっぱいだった。僕ら3年生は最低学年で一番前の5列か6列を取った。僕は体育館のドア側、舞台に向かって右端の方に座った。
 教授の講演が始まっても前の3列か4列目の真ん中からやや右の方が騒がしい。後ろを向いて喋っているのは平石(義郎)君だ。間髪を入れず、カミナリが落ちた。話が始まってそうは経っていない。
 “おい、君。人が話している時に何ということだ。君は自由と民主主義をはき違えている。さっさと外に出なさい”。もう一言、二言あったように思うが、記憶に定かでない。平石君らはそのままでいて、教授の話が続けられたが、僕は平石君の非礼の行為が頭にこびり付いて、肝心の教授の話が頭に全く入らず、慚愧に耐えない気持ちだけが残った。それから平石君と会っても口もきかなかった。あまり親しい関係になかったからだが、大人しい奴をつかまえては難癖をつけているという話が伝わって来ていた。やがて僕が標的になり、ひと騒ぎが持ち上がるのである。
 宮澤教授の講演の際の一件については後日譚がある。僕の兄が昭和25年4月に東京高校から旧制東大法学部に入学してまもなくのこと。憲法の授業に出たところ宮澤教授があの講演での一件に触れたそうである。自由と民主主義をはき違える一例として喋られたのではなかったかと思う。兄によると、母校の後輩には話を聞こうともいない不埒な奴がいた・・・ということだったが。宮澤教授はあの件が余程腹に据えかねたのだろう、2年も経っているのに・・・と思うのだが。

読まされた「自由と規律」の影響も
 蛇足だが、弁明をしておこう。僕らみんながみんな身勝手な野郎ばかりではなかった。学校側の配慮が大きいのだが、社会科の副読本で慶大教授・池田潔氏の「自由と規律」という新書本?を読まされた。池田氏がイギリスのイートン・スクールに留学していたころのパブリック・スクールの生活を中心に綴ったものである。自由の国・イギリスといえども子どもに対するしつけは厳しい。パブリック・スクールの生徒(全員寮生活)には規律ある態度が求められる。大体こんな根幹のストーリーだったと思う。
 僕らはまだ未熟も未熟な“青二才”だったのだろう。戦争に勝ったイギリスですらしつけや規律は厳しい。それを素直に受け入れた。先生に綽名をつけたり、隠れてヤジったりしたものはいるが、教室で暴れたり、先生に食ってかかるような‘ならず者’は皆無。強いて生徒の常道を踏み外しているのと思えるものは同学年の仲間では平石君ほか、H君、M君、S君など数人しか頭に出てこない。
 今の子どもならどうだろうか。数年前の週刊誌に修業式か家庭参観日のことだが、先生が喋ろうとすると“机をバタンバタンと叩いて、先生の言うことを聞かない。教室内は無秩序”といった記事を読んだことを思い出した。僕らがウブで今の子がよく?成長しているのだろうか。  
 長生きしすぎて異次元の世界に放り込まれたと思うのは間違いだろうか。

捜査1課長の話のオチに館内爆笑
 “宮澤憲法講話”のように当時、各界で活躍されている方を招いての講演会が幾つか催された。その中に東京警視庁(当時大阪にも警視庁があったようだ)捜査一課の野老山(ところやま)課長の講演がある。野呂山課長のご子息が僕らの1年上の先輩ということで、快諾していただいたそうだ。大分あとでご子息から聞いた話では、彼の父は忙しくていつ時間が取れるか分からず、講演が実現するのに1年近くかかったそうである。
 野老山課長は乱れに乱れている戦後の街の治安を維持するにはお巡りさんが絶対的に不足していると一般論を述べたあと、次のようなエピソードを紹介した。
 お巡りさんである課長のうちに留守だったか夜半に泥棒が入った。そしてものを唐草模様の大きな風呂敷にいっぱい詰めて去っていった。ところが、悪いことはできないもの。お巡りさんの職務質問・職質に引っかかってしまった。‘これはおまえのものか’、‘はい、そうです’。お巡りさんがふと風呂敷をみると、白抜きの文字が書いてある。「野」「老」「山」の三文字だ。
 これを正確に何と読むことは普通はできない。ところが、いくら戦後の乱世といっても警視庁の捜査一課長の名前と同じだ。講談か落語ではないが、警視総監の名前を知らないお巡りさんがいても不思議ではないが、捜査一課長の名前を知らない末端のお巡りさんはいない。
 ‘これ、おまえのものといったな’、‘はい’。‘ではいってみろ、名前は’
 ‘ノロヤマです’・・・この返事で盗人の運は尽きた。
 野老山課長の話とオチで、館内は爆笑、落語よりもオモシロイ、と激賞だったが、よく調べず生半可に喋るとけがをするという教訓ではある。

都電大久保車庫で和泉君あわや感電死
 僕ら山手線通学グループは夏休みを終わって2学期が始まった日、授業を終えて通学定期を買うため都電大久保車庫に寄った。停留所の抜弁天と明治通り際(きわ)の新田裏(しんでんうら)の間に停留所・大久保車庫前の前に事務所の草臥(くたび)れた建物があった。戦前からのものか戦災で焼けて応急措置でたてられたのか、また、1階建てか2階建てだったか記憶にない。そこに切符や定期券、回数券を扱う窓口があった。
 僕らは窓口に順番で並んでいた。近くの順番は誰かのあと北条君、和泉君と僕だったことは覚えている。恐らく雑談をしていた。と、突然、‘助けてくれ’という素っ頓狂な叫びが上がった。和泉君だ。裸線を持った彼の両手の親指の爪がスパークしている。しかし、早かった。隣にいた北条君がすかさず裸線をはたき落とした。瞬く間にスパークは消えた。和泉君はあわや感電死というところ一命を取り留めた。北条君の機転でみんなホットした。ただ、和泉君の両手の親指は爪の端が黄色く膨れて盛り上がっていた。辺りは爪の焦げる臭いが漂っていた。
 定期券発行の事務が遅くイライラしていた和泉君は目の前の壁に垂れ下がっていた裸線が目に留まったようだ。ちょうど釣り針の鍵形模様で繋がっていたのをみて‘はずしてみよう’と茶目っ気を出したのがあだになったらしい。
 和泉君は北条君に‘ありがとう。助かった’と礼を言ったが、理系の知識が豊富な北条君は‘あの裸線は3000ボルトの電気が走っている。助かってよかったな。でも気をつけなきゃ。裸線を甘く見ると飛んでもないことになる’と、いっぱしの蘊蓄(うんちく)を傾け、和泉君はウン、ウンと頷きながら神妙に聞いていた。

本当に3000ボルトの電圧だったの?
 当時、僕は不勉強で物理的というか科学的知識に欠けていたので北条君の言うことをなるほどと思っていたが、その後、少し知恵がつくにつれて少々疑問が生じた。おぼろげながらフレミングの法則などを思い出した。単純な発想だが、電気が流れているときには磁場ができて力を受ける。とすると電線は力によって何らかの動きをしなければならない。振動かうなりを上げるとか。3000ボルトの高圧となると、かなりの動きと音を発していたに違いない。ところが、いくら思い出そうとしても電線が振るえていたり、音を出していたりしたような状況は出てこない。和泉君も静かに横たわる(少したれていたかもしれない)裸線で、表向き電気が通っているような感じは僕もしなかった。だから和泉君は触ったのだと思う。少し理屈っぽくなるが、果たして3000ボルトはおろか1000ボルトの電気が流れていたのだろうか。あまりに静かな雰囲気にそれほどの高圧がかかっているとは僕にとってクエスチョンだ。恐らく通常の100ボルトを超えた電流だったとしても事務所内の電氣を賄う工業用の1ブランチ、そう200ボルトか300ボルトではなかったか、と思う。
 しかし、北条君の行動と発言は立派だった。和泉君を爪のやけどだけで救ったし、警告は僕に電氣への興味を持たせてくれたし、改めて怖い存在だと知らせてくれたからだ。

貴重な体験・解剖室の見学
 3年の秋を迎えたある日、生物の校外授業で近くの東京女子医科専門学校(東京女子医専)の解剖を見学することになった。人体の仕組みの勉強の一環だったと思う。
当初は解剖実験の様子を見学するということだったが、決めた日取りの日に生憎実験が行われなかった。日を改めるとしてもぎっしり詰まった時間割表の中では到底無理という先生(どの先生だったか覚えていない)の判断で、予定どおり校外授業は実施されることになった。
 解剖室はだだっ広く天井は高かった。それなのに何か薄暗い。部屋に入っていくと部屋の中央のやや南に白い楕円形の解剖台が3台か4台ほど並んでいた。ものがないときなので僕らは白衣は着て居らず、生物の先生だけが着用していた。入口から解剖台を左にみて進んで突き当たりを曲がるとすぐ右手に大きな仏壇があった。医専の先生がいたかどうかはっきりしないが、処置?に入る前にお灯明を上げて検体を慰霊するという話があったように思う。
 解剖台の左の奥に大きな長方形の桶が2台あって焦げ茶色の液体が満たされていた。その1台に裸の検体がうつぶせになって浮いていた。そして病院の洗面器のあのホルマリンの強烈な臭いが漂っていた。それに解剖台の1つに
解剖したまま片づけずに放置された献体が載っていた。臆病な僕は近づくことができず、遠くから眺めるだけだったが、肋骨や骨に付いた肉片が全て黒色に変色し異様な臭い、魚の腐ったにおいを発していた。
 今は献体を扱う白菊会というのがあって大学などの各医療機関に支部などがあるそうだが、当時の話では刑務所からのもらい下げもしていたようだ。
 こういう体験はその後、取材稼業でもなかったので貴重な経験だった。ただ、当時の魚の干物は質が悪く半ば腐った臭いをしていた。ちょうど解剖室で遭遇した献体の出す臭気とオーバーラップして、あのあとは、かなり長い間焼いためざしなど魚の干物は食べられなかったが。

校舎の屋上で一生に一度の殴り合い
 ついに対決の時が来た。宮澤先輩の行(くだり)で講演にケチをつけた平石君が、その後、僕に何かと難癖を付けにやってくる。その数、十(とう)と下らない。僕は引っ込み思案で、度胸がなく、おまけに腕力に恵まれていない。アとかソウとか適当に返事をするか、相手にしない素振りを見せてしのいだ。それがまた、彼には気に入らないのだ。終いに教室の机の傍にいた誰かが‘君、あれだけ絡まれて黙っているのか’と言いだした。周囲の声援?に臆病な僕もボルテージが上がり、とうとう堪忍袋の緒が切れた。
彼の嫌がらせに‘何だよ、やる気か’と言う僕に‘面白い。やろうじゃないか’と言う返事。普段の悪(わる)は余裕がある。
 とうとうshowdown(ショーダウン)、対決だ。場所は原町校舎の4階に当たる屋上で時間は昼休み。4時限終了の鐘が鳴って僕はすぐ屋上に上がった。僕には和泉君や北条君など5、6人が付いてきた。手伝うと言う訳でなく、どちらかと言うと野次馬気分のようだったのではないか。戦争に負けたといってもサムライ精神は抜けない。1対1の対決には助っ人はあってはならないという暗黙の掟?がある。
 彼も僕とほぼ同時に現れ、すぐに殴り合いが始まった。互いにコン畜生、などと発声しながら相手の顔に拳をぶつけ合った。だが、僕は体力がないし、けんかをしたことはないのですぐスタミナ切れ。僕は相手の目のところに3、4発喰らわしたが、10発ほどの強いパンチを顔中に受けた。
見守っていた和泉君らがついに仲介に入った。‘きょうはこれまで’と言って両者を引き離した。僕の顔は触ってみるとほぼ全体が腫れ上がっていた。一方の平石君は目の上が黒ずんでいたが、普段の顔と変わらなかった。
 和泉君らは「これ以上続けたら森が倒れ大問題になる」ととっさに判断したようだ。傍観者でいられない状況だったのは事実。僕は誰にも言わなかったが、担任のジゾウ氏=伊藤先生には通じていたらしい。
 翌日朝礼だったか昼の全校例会かどちらか、生徒が横一列に整列した際と思うが、伊藤先生がやってきた。まず一番ノッポの右の荒木君に何か二言三言、話したあと僕のところに来て開口一番。‘何かあったのかね’。腫れ上がった顔を見れば当然の質問かも知れない。‘柱に顔をぶっつけました。なにもありません’。‘そうか、気をつけないとね’と言って隣を素通りして去られた。
 バウト(bout)は完全に僕の負けだった。不思議と平石君も、あれ以来トゲが取れて僕とも穏やかに言葉を交わすようになった。やはり喧嘩をしてよかったのか?しかし、正義の積もりだったが、後味は非常に悪い。やめればよかったと反省しきりで、喧嘩はやめることにした。あれ以来、殴り合いの喧嘩をしたことはない。

F組にはレベルの高い集団も
 怠け者の僕を中心にした話をしてきたので、伊藤先生のクラスはさぞかし程度が低いと思われるかも知れないが、どうしてどうして、よく調べる、よく議論するレベルの高いものも何人かいた。特に司法に関係する職業の親を持つのが2人、小木裕君と前澤康成君だ。小木君のお父さんは偉い検事さんで前澤君の父親は忠成氏といって当時裁判所長だった。いわば2人はクラスの法曹集団の双璧だった。たしか最高裁判所も初代長官は三淵(みぶち)さんとおっしゃった、その三淵さんの登庁率が非常によくないという話からなんだ、かんだと議論に花が咲く。ことがあると、六法を持ち出し、ひとの顔を見ながら考える小木君の姿が今でも浮かぶ。僕も六法ぐらい知っていたが文字が細かいので読むことすら嫌気がさす。それなのに彼らはよくやる、というのが実感だった。でも彼らのお陰で耳学問が少しは増えた。

“三種の神器”そろい伝統校新生スタートへ
 新校歌に加え3年に入ると柏の葉4枚の新校章の制作が完了し新校地(新校舎建設予定地)が確定して、四中、四高の伝統を引き継いで戸山高校が名実ともに本格スタートした。ただ、場所は決まったけれど、校舎はまだである。また、戸山が原といってもどのような環境か分からない。ほどなく噂が流れてきた。
 敷地の北に学習院女子部の校舎があり、南側に都立で障害者の授産場(今の都立障害者職業訓練所)がある。早稲田大学(都の西北)より更に西。渋谷から池袋に通じる通称「明治通り」からやや奥まっている。国電の山手線高田馬場駅と新大久保駅の間だが、前者の方がかなり近い。学習院の北側に中学校(当時戸塚二中といっていたと記憶)、はす向かいに神社(諏訪神社)がある、といった情報である。それに、新校地には旧陸軍のだだっ広い厩舎が残っていて、瓦礫があちこち散らばっていて片づけるのは至難の業だという話もあった。あとの話になるが、中学4年、いや高校1年になってから僕らはその瓦礫の整理に駆り出されることになるのだが、まだ物資が極端に不足し、そう安々と校舎が手に入る訳には行かない時代だった。

昭和24年の幕開け
 平石事件が過ぎるとまもなく2学期の考査(定期試験)、勉強をしないから成績はぱっとしない。それでも中の下といったところか。親父は敗戦のショックもあり、第一、遅ればせながら期待していた兄が旧制東京高校に入学しているので、僕には勉強での小言はほとんどない。
 そうこうしているうちに年が明けた。だが、この年の正月前後のことは何故かすらすらと出てこない。それで年鑑をみてみると、昭和24年1月1日の出来事としてあった。GHQ総司令官のマッカーサー元帥の日本国民に対する念頭のメッセージで“日の丸の掲揚”を無制限に許可するとの声明である。
 そういえば、終戦直後しばらくは共産党に寛大だったGHQも2.1ゼネスト中止や占領政策?批判などで関係は徐々に冷え込んでいた。日の丸掲揚は共産党が一番忌み嫌うとことだ。なるほど。のちのレッドパージ(ヤマは翌年)の伏線があったのだ。
 僕はマッカーサーの年頭のメッセージより1月に行われた総選挙の方を強烈に覚えている。葉巻たばこをくわえる吉田(茂)氏率いる党が圧勝、多くの官僚出身者が新人で当選した。いわゆる保守系の大勝利で、今まで進められてきた民主化はこれからは後退するのではないか、年端もいかない青二才の分際で心配した。
 のちに首相になり所得倍増論をぶち上げた大蔵官僚の若い池田勇人氏が蔵相(大蔵大臣)になった。日本は大丈夫か?と思ったりもした。閣僚に官僚出身者が抜擢され、日本の戦後官僚政治がこの時始まったと僕は思った。やっぱりもっと若いときから勉強していい大学に入り官僚を目指せばよかった。今となっては遅すぎた目覚めと悔いが残った。

多事多難も多彩な年
 ちなみに年表をみると、昭和24年この年は多事多難というより多彩な年の感じがする。成人の日創設、学術会議スタート、東証と大証設立、1ドル360円の為替レート設定、69の新制国立大学設置、都の失業対策事業の日当245円でニコヨンの呼び名始まるなど初ものずくめ。事件も多い。東芝や国鉄の大量首切り、国鉄総裁失踪轢死の下山事件、東京の中央線無人電車暴走の三鷹事件、それに福島での松川事件、国外では外蒙古の収容所で同胞を酷使したとする吉村隊長による「暁に祈る」事件などなど。あの東大生社長が羽振りを効かした光クラブの格好よい話題もこの年、結局この年に行き詰まって山崎社長が自殺する。戦没学徒の「きけわだづみのこえ」発刊。
 明るい話では夏に「フジヤマのトビウオ」がロスの全米水上選手権大会で次々と新記録を打ち立てた。湯川博士がこの年ノーベル賞を受賞。
 世の中は教育の場を含めて急速に民主化が進められた。それを押し上げたのは新聞(朝日)に前々年、昭和22年6月から10月まで連載された石坂洋次郎作の小説「青い山脈」だそうである(この項は孫引き)。僕は勉強が好きになれないガキだったので、当時堅苦しいと思っていた新聞などは興味ある事件や写真ぐらいしか目を通さなかった。ましてやお高くお止まりする文芸物は連載小説を含めて素通りをしていた。ところがあとで触れるように、あることがきっかけで青い山脈に注目するようになる。

我が家の家計は下り坂
 戦後の日本経済は、昭和22年に経済安定本部ができたが、ちっとも改善されていない。むしろ悪化といった方がいいくらいに思う。
 年半ばにソ連からの引き揚げが再開され、その第1船高砂丸が舞鶴港に着いて共産党集団入党の騒ぎがあったことを思い出した。終戦直後から中国その他の地域からの引揚者が帰国、失礼ながらこんな小さな四島にぎゅうぎゅうに押し込まれてパンクしてしまうのではないかと思うことすらあった。首都東京をみると、国内の疎開先から戻る帰京も続いて人口は増えっぱなし。事実、東京の食糧事情は悪化してきていた。親父の特殊清算人(旧満州海運)の仕事も先が見えてきた。貯金も底が見えだして先行き不安が募り始めた。

卒業前の気分の変調、模型に思い入れ
 年が明けて3学期に入ると時が経つのは早い。2月に入るとすぐ卒業記念の写真撮影があった。原町校舎の玄関を入って中庭のグラウンドに抜けたところでA組からF組まで6組が次々と登場、僕らF組は勿論最後。カンソウラッキョウとジゾウ(平田巧校長と伊藤担任)が前列、僕は一番後ろの右端、隣が生徒のゾウさん、その隣が伊藤成一君だった。まもなく学期末の試験になる。まあ、学業の成績は友人の助けもあって可も不可もない、行き場もないから落第もないだろう、という状況になったとき我が身に変化が起こった。
平石君との殴り合い事件以来、仲介が遅かった通学グループとの違和感。音楽班の練習も芸大の前身・東京音楽学校から新着のダンディな伊波先生に何故か嫌気をさして遠のく。そしてあることに興味が変わっていた。
 そのあることとは電車や飛行機の模型である。ある時、東京駅前丸の内ビルに行った帰りに都電の5番線に乗るところを五反田行きの4番線に乗ったのがきっかけだ。家の近くの目黒駅に行くのに魚藍坂下で5番線に乗り換える必要があった。その魚藍坂下で降りたところ大きな(当時としては)模型店を発見。店のショーウインドウに釘付けになった。
レールを走る大きな電車の模型。今でいえばとても買える代物ではない。じゃ、学校の帰りに毎日見に来よう、となった。でも、どうやってここに来ればよいか。早速、家に帰って都電の経路を調べてみた。‘あった’と叫んだ。通学途中で魚藍坂下を通るルートを見つけたのだ。
 若松町から13号線で新宿へ。新宿から11号線の岩本町行きに乗り、大京町(と記憶しているが、あるいは四谷見附)で品川行きの1番線に乗り換え魚藍坂下に。あとは5番線で目黒駅に到着という算段だ。次の日から国電新宿経由の通学定期券を都電オンリーに代え、魚藍坂下参りを始めた。この一人旅はしばらく続くが、4年生、高校に進学するとやめた。高校2年になって大京町に住んでいた芦谷博幸君とクラスメートになって再開したが、この時は長続きはしなかった。成長したのかも知れない。模型に飽きてきたためかも知れない。

「青い山脈」ブームの前夜
 朝日新聞に連載の小説「青い山脈」を知らなかった僕がチョットしたきっかけで映画「青い山脈」の存在を知った。それは兄からである。月日の違いがあるかも知れないが、僕の聞いたのは2月か3月だったように思う。ちなみにものの資料によると、映画の公開は正編が7月19日、続編が1週間後の26日というから僕の思い違いがあるかもしれないが、以下のくだりは僕の脳裏に「早春の出来事」として残っているものだ。
 ‘拓三、おまえ、石坂の「青い山脈」知っているだろう。あれが映画になった。ところが、あそこに出てくる高校生(勿論旧制)の帽章がうちのものを使っているんだ。今自治会から映画会社に無断で使うのはけしからん、と抗議をしている。試写会でもして見せろ、とねじ込んでいるところだ。もし券でも貰えたら、おまえ行くか’。これが兄の話だ。
兄は、前年、旧制東京高校の合格、病気(骨髄炎)ととっぷり付き合う状態で、目指していた医者を断念し理乙(ドイツ語系)から文甲(英語の文系)に、いわゆる文転していた。病気も小康状態で2年次は高校の学生自治会の委員をしていた。その兄の自治会情報である。
 兄のいう自治会のクレームは映画に出てくる旧制高校生、ストーリーの背景からすれば弘前高校かと思われるが、池部良や伊豆肇の演ずるその旧制高校生が被る学帽の校章に旧制東京高校の校章が使われている、というものだ。よく細かいことに気がつくものだ、と感心したが、それを捉えてねじ込む根性にも驚いた。まあ実現はほぼ不可能と思ってはいたが・・・。
 その夢ごとき願いごとが現実になったのだ。試写会もある、券もくる。でもよく考えると、実現して当たり前の事情がある。当時は共産党が猛烈な勢いで勢力を拡張していた時代。東京高校の学生自治会もとっぷり「赤」に染まっていた。映画の今井正監督もその筋の人だ。どのような手を使って話しが進められたかは全く知らないが、話がうまく行って当然だったのだ。ただ兄の名誉?のために触れさしてもらうが、兄は細胞でもなく活動家でもなかった。強いていえば一時期流行った「ノンポリ」というやつだろう。だから、よく利用されなかったという思いの方が強い。
 映画「青い山脈」は東宝が松竹と争って映画化権を獲得したが、東宝では労働争議が長引いて思うように映画が作れず、当時独立プロが続々誕生、藤本真澄プロデューサーも独立、藤本プロとして東宝と共同制作した。監督は今井正氏。僕なんかには誰でもよかったが、当時としては起用に裏があったのではと思うフシを感じる。強いていえば民主化圧力か。
 兄は試写会に行ったらしい。僕はフロックの券で見に行ったかどうかは覚えていないが、1回以上は「青い山脈」の映画を見ている。
年輩の方はご承知だろうが、若い方のためにごく簡単に説明をすると、話は東北のある高等女学校で起こった男女関係の騒ぎを扱ったものである。女子高校生に送られたラブレターが本人に渡らず間違って学校側にわたる。その文面を職員会議で沼田校医が読むが、まず字が間違っている。あの難しい方の恋の字だがその恋がこれも難しい字の変にかわり、恋愛という真摯な感情をぶちこわしているとの説明で失笑、あるいはそれに近い笑い。それにこの文を読み上げる沼田校医の仕草で更に笑いを加速する。そのラブレターの受取人とみられる可憐な女学生(新人杉葉子演じる寺沢新子)がクラスメートたちからからかわれたりいびられたり。そうした中で半ばタブーとされた学内恋愛のタブー?が徐々に解かれてきて明るい男女関係が芽生えて行く。僕の頭に残る筋書きはこんなものだが、間違っていたら御免なさい。
 この映画は、爆発的な人気を起こした。映画そのものが純粋な恋愛を扱っていることへの共感もさることながら、当時、教育の民主化が急速に進んだ東京などの都会に比べていまだに民主化の遅れている地方・・・
 昭和22年の教育基本法や学校教育法も有名無実のところが多かったという現実(資料からのまとめ)を比べて驚きと滑稽さが人気を押し上げたと思う。
 今井正監督が地方教育の早い民主化を願った思いをこの映画に託したとも取れるが、そうみると面白くなくなる。やはり、当時人気絶頂の原節子の起用も好評の原因ではあったと思う。
 今でもよく伝わっている「恋愛の字の間違い」、映画の中身よりともすると有名な内容だが、木暮実千代が扮する田舎芸者(後注・梅太郎)が「竹の子先生・・・」と体をくねらし、串刺しを見ながらセリフをいう色っぽさが脳裏に焼き付いて離れない。
 また、寺沢新子を演じた当時新人の杉葉子も忘れられないキャラクターだ。
たしか彼女は国際結婚したのではないか、何年か経ってロサンゼルスにいる彼女のインタビュー番組を見たのを思い出した。
 親しい友人に‘杉葉子は清純でよかったね’といったら‘君の奥さん似ているね’といわれた。そうかな?そう、少しは似ているかも知れない。
 小説と映画に加えて映画の主題歌が作られた。ものの資料によると、発売は映画の公開をさかのぼること3か月というから、僕が高校生になった直後になるかも知れない。『若く明るい歌声に』で始まる主題歌「青い山脈」は人気歌手、藤山一郎と奈良光枝の2人で歌われた。これがまた、爆発的に受けた。
 映画は見られなくても歌はいまだに歌われている。歌番組のトリで歌われる合唱曲は「故郷(学校唱歌)」と双璧だ。西條八十作詞、服部良一作曲。歌を全曲眺めると「希望」「恋愛結婚」「学校の変革」が謳われ、総じて民主化がにじみ出ている。

古い上着(併設中学校)?とついにお別れ
 写真撮影に学期末考査(試験)が終わり、短い休みを経て3月、多分4日か10日前後、割合早い時期に僕らの卒業式、原則進級ならば終業式の筈だが中学3年卒業ということでこういう呼び方になった。どんな式だったか覚えているのはただ一つ。誰かが‘あれ、あれ’といって指をさしたからだ。
 その方向を見ると、僕らをにらみ、誰かの質問に怒鳴った男、例の早稲田警察署の署長だ。来賓の1人として招かれたのだ。あれ、あれの声に署長はこちらを振り向いた。その光景は今でも僕の目に焼き付いている。これで新しい学校制度のあだ花とみられていた併設中学校の終わりを告げた。あの時もそう感じたが、今でも寂寥感をひしひしと感じる。
 「青い山脈」の歌詞ではないが、たしかに併設中学校は古い上着の残骸だった。否が応でも勉強を強いる。旧制、特に僕らの学校は厳格な四中精神がそこかしこに残っていた。抜き打ちテスト、試験に習わないところからの出題、勉強しても届かず、必死に頑張る奴、逆に顎(あご)を出してふてくされる奴を生んだ。でも、旧制の精神、悪いところばかりでない。僕は別だが、勉強癖をつけてくれた。それと粘りと根性を身につけさせた。悪いこともあったが、いいことが断然多い。だからこそ上級学校の進学で評判になったのだ。それに文武両道の精神。終戦前はこの武は剣道など武道だったろうが、戦後の四中ではバレーボールなどの球技で対外試合によく勝ち、軟式テニスは昭和25年?だったか、国体で2位になったこともある。
 よく個性の尊重が民主主義の根幹という人がいるが、それは飛躍的な話で、個人の幸せとはあまり関係ない。例えばアスリート(運動選手)やピアニスト、芸術家などは若いうちに鍛えないと、とよくいわれる。しかし、過去僕の70年余を振り返ってマスコミの寵児となった人間はかなりいる。しかし、70歳以上の長寿を味わっているのは僅かだ。僕の知っているところでは90歳以上生きた人は指揮者の朝比奈隆とか、日本画家の上村松篁など僅かだ。やはり長生きした方がいい。それも健康で。大きなお世話という人が多いが、77年生きてくるとついちょっかいを出したくなる。
 僕の周辺にはとても優秀な人間がそれこそごまんといるが、死んでしまっては『去るものは日々に疎し』だ。ほとんどは1年を保たずに人の耳目から消え去っている。だから長生きがいい。それには若いときに苦労すること。特に大勢が嫌う数学を一生懸命こなすことだ。僕も後のまつりの方だが、舵取りを途中で代えたことによってようやく持ちこたえている現状だ。
 かくて終戦というか、敗戦後の激動に揺れながら生きてきた僕らの中学、併設中学校は昭和24年3月をもって終わった。だが、併設中学校の終焉はいろいろな意味で考えさせられる。
 旧制四中の猛勉、その流れを僅かながらも汲んでいた併設中学校の終わりは「鉄は熱いうちにきたえよ」の言葉にある人間陶冶の側面を失う。若いときに勉強をおろそかにした僕の反省からだ。また、修学期間を3年に細切れにした損失、五年間原則だった旧制中学で培われた人間関係はやはり厚い。勿論、新学制でも同窓会の延長があり、課外活動というか、クラブ活動を通じた長い付き合いも確かにある。しかし、普段お付き合いによる交友の深さは学校時代の長さには比べものにならない。余計な言い方をすれば絆の喪失。だから、極端に言えば併設中学校の終焉は、古来から尊重されてきた絆、その大切な日本のよき伝統との別れを告知したと、僕は自認している。
 近隣と疎遠、会社でのドライな付き合い、家族の絆のなさなどあらゆるつながりが欠落したり、薄くなったりしているす昨今の状況をみるとき、どちらがいいのか。今この世を去ったら僕は至らなかった無念さを残すだろう。
 4月(昭和24年)からは高校生になる。男女共学で僕らの仲間から松本孝君ら3人が高等女学校系の、たしか都立鷺宮高校に転校していった。