終戦直後の風雪に耐えた名門校
昭和27 森 拓三第六章 戸山高校1年生
下級生のいない高校生、晴れて?進学
昭和24年4月、僕らは併設中学校を卒業して、待望というかやっとというか晴れて高校生になった。味噌っ粕扱いからようやく正規の肩書を得た。自動車の運転に例えれば、仮免許から運転免許証を手にしたようなもの。だが、これまでと同じように後輩というか、下級生のいない高校生で、いわゆる末子(ばっし)から抜け出せるにはもう1年待たなければならないのである。しかし、大学に進学する一里塚に到達し、何やら薄っすらとした希望を感じないわけではなかった。
高校生活がスタート
昭和24年4月、新学期が始まると僕ら1年生のクラスはさらに2クラス増えて8クラスになり、クラス名もAからHとついた。生徒総数も1クラスが50人前後として400人前後になった。中学1年の入学のころと比べると格段の増加である。中学1年の時、同クラスだった高浜雄一君などはあとから入ってきた連中のほうが優秀だ、と言って憚らなかったが、どうして、どうして、つわものはかなりいた。僕の接した限りでは、安仁屋政彦君や守屋一彦君、黒河内康君、村上龍雄君、その他大勢の飛び抜けて優秀な人材が揃っていた。ただ、僕を含めて半数以上はガヤクラスであったことは認めざるを得ない。その比率の高いのが四中の歴史を濁したことは事実であろう。 勿論、あとから入学した同輩にも優れた人物が多い。中学1年2学期に秋田から転入した村岡茂生君や関弘君など枚挙に遑(いとま)がない。それにあとから転入したものは、僕らより難しい試験を突破したわけだから、昭和21年の新入生よりは出来のいいのは自明の理だ。まあ、生徒数の拡張で質のレベルアップが図られたと言えなくもない。
クラス担任の先生も確か原則2人となった。生徒が増えた結果、先生の数も増えて、ゆとりができたのかも知れない。例外で1クラス1人の担任となったところもあったように思う。記憶にあるのはニヤさんこと佐藤忠先生の担任のクラスだったように思う。
A組佐々木先生が担任に
僕はA組に組み込まれた。社会科の佐々木勘次郎先生と小川貫道先生が担任だったが、佐々木先生が主で、小川先生は副の役割だったようだ。
佐々木先生にはすでにバケツというあだ名が送られていたが、僕にはなぜ佐々木先生がバケツなのか分からなかったし、今でも疑問に思う。同じ社会科の中村先生の綽名がクリトンなら、先生の綽名は古代ギリシャの哲学者・プラトンかアリストテレスでよいのではないかと思ったりした。
佐々木先生は京都大学のご出身で、訛りというか話し方に特徴があった。今覚えているのは「なくなる」という発声が「な」が強く、そして高く、次の「く」が低く落としてやや弱く,あとの「なる」は普通の発音になる。僕らは、ふつう「なくなる」とほぼ平板にしゃべるのだから佐々木先生の発音は特異に聞こえた。関西の発音は大体しり上がりといわれている。あるいは先生は関西のご出身ではないのではないかとおもったが、あいにくお聞きする機会はなかった。細かい発声になぜこだわるのか、実は僕の苗字「もりくん」も大連時代は四国・九州の人が平板に発音するのに慣れていたが、東京に来てから「も」を強く高く、「り」の音程を落として呼ぶ人が多く、一時は違和感を持ったので、言葉の抑揚に敏感だったのかも知れない。
でも、僕にとっては忘れることができない先生の一人だ。まだ、新学期が始まって間もないころ、社会科の時間に用紙が配られ、いくつかの質問に回答するいわばアンケートが行われた。その中に尊敬する人物という項目があった。僕は当時、本もあまり読まなかったが、貧しさを超えて弁護士になり大統領に上り詰めた男、内戦に勝利を収めたが暗殺された男の話をある本で読んで頭から離れなかった。僕はその項目に「リンカーン」と書いた。
次の社会科の授業が終わって教室のドアを出たところで2、3人が佐々木先生を囲んだ。そのとき先生から意外な発言があった。
“森君、もう少し勉強すれば君の成績はかなり上がるよ”この一言が僕を動かした。ちゃらんぽらんな僕を見ていた人もいるんだな。僕も見込みがあるのか。プラス思考が僕に芽ばえた。勉強をし出したのである。
佐々木先生は生徒の面倒をよく見てくださり、ある日の昼食時、弁当を持ってこない生徒に自らのお弁当を食べさせることもされた。僕の耳には柴田先生も1クラス上の人にお弁当を食べさせたという話が届いている。
長髪族が急増
A組には横溝正夫君や入学時から一緒だった河合哲夫君も引き続き同じクラスとなった。当時座席が決まっていたかどうかは思い出せないが、教室の廊下側は縦3列で、ちょうど前から4番目の横列に横溝君と並んだ。もう一人は伴野矩文君で、一番の窓際。僕は真ん中で横溝君と伴野君に挟まれるいわばサンドウィッチの具の部分に当たる。この並びがあとで評判になる。
横溝君はその図体のでかいのを誇示しようとするためなのか、よく僕を横から手で押しつける。当然伴野君にぶつかる。最初のうちは黙って僕の体を体で受け止めていたが、2、3回目ごろから手で押し返す戦術に出た。押しくらまんじゅう、みたいなもんだが、僕だけが挟まれて痛い。“ゾウさん、痛いよう”と悲鳴を上げる僕。その回数が増えるにつれクラスの評判になった。
席を変えたらいいじゃないかというアドバイスもあったように思う。一時期、席はそれぞれの自由だったが、押しくらの時は許されたかどうか分からない。しかし、横溝君は僕にとって勉強の準参考書的存在で、離れるわけにはいかない、しばらくは悲鳴を続けていたことを思い出す。
さて、中学3年までは頭髪を伸ばす仲間はほとんど見られなかったが、高校1年生になると長髪が増えてきた。僕も走りではないが、この年、昭和24年の4月か5月に伸ばし始めた。動機は定かに覚えていないが、なめられないように大人っぽくしようというのがその一つではなかったかと思う。
伸ばし始めてしばらく経ち頭の髪が寄って鶏冠(とさか)みたいになったころ、異変が起きた。
数学の時間に黒板の問題、確か4問あったと思うが、全問、僕を含めて長髪族が当てられたのである。担当はニヤさん・佐藤忠先生である。1人、2人、3人、と指され、最後の1人の時に、僕と生徒を眺めまわしていた先生との目線が合った。そして、僕の名がコールされた。予期してなかった僕だが、このころ勉強、予習もするようになって、無事解答できた。誰かが小声で髪を伸ばしているやつだけが指されているぞ、としゃべっているのが聞こえた。それを聞いたか聞かなかったは知らないが、ごま塩頭でいがぐり坊主の佐藤先生は“君たち伸ばすの早いよ”とだけ言われた。
男女共学を初体験
GHQの指示に決まっているが、新しい憲法での男女平等によって教育基本法や学校教育法とやらで男女の差別撤廃、男女共学が教室の基本となった。すでに昭和22年の学制改革で新制中学では男女共学は実施されていたが、僕らの併設中学校は蚊帳の外だった。申し遅れたが、僕らのすぐ上の学年では昭和23年4月に2人の才媛を迎えていた。
僕らの学年は増えに増えて卒業時には生徒数が400人を超えたが、上の学年は300人ちょっとだから女子生徒が2人というのは本当に貴重な存在ともいえた。上の学年に入ったお2人はうわさに伝わるところでは優秀で、頑張られたせいもあって東大に入学された。
僕らの学年では昭和24年の新学期スタートの時点では2人、2年の1学期から1人の3人が机を並べた。最初のお2人とは接する機会がなかったが、風評ではおとなしい方たちながら男の生徒に伍して頑張っておられるようだった。2年から入られたKさんは2年、3年とクラスが一緒で、よく頑張られて東京理科大に進まれた。のちに3年のクラスメートのS君と一緒になられた。
今まで、男ばかりの小世界だったので、多少のさざ波はあったかも知れないが、それほど目立った動きはなかったように思う。むしろ、僕らの仲間で目覚めたものがいろいろ動き始めたのは5年になり、下級生に100人ほどの女子生徒が入学してきてからになる。
震えたオージーMPの突然の訪問
僕の目黒区三田の家は茶屋坂を挟んでエビス・キャンプと隣り合わせだった。そこは昔の海軍技術研究所で現在の防衛研究所である。終戦直後に米軍がここに進駐、1年ほどでイギリス兵、それほど間をおかずにオーストラリア兵のキャンプになった。茶屋坂の両脇は雑草が生えていて、格好の草原になっていた。最初の米軍駐留のころ、木曜日には臨検と称して一斉手入れがあり、近所の知り合いを含め何人かの女性が濃いグリーン色をした米軍のトラックに次々と放り込まれていた。米軍が離れてからは派手な臨検はなくなったが、彼ら進駐兵たちは日本の円を欲しがった。よくギブ・ミー・チューインガムとかチョコレートとか言って僕ら日本人がおねだり?する主な品物だったといわれているが、実はほかに欲しいものがあった。それはタバコだった。これが結構、進駐兵たちの商売?になった。
夜になるとあちこちでひそかな取引が始まる。そんな光景がグルカ兵に交代するまでしばらく続いた。
ある時、家の近くで通りがかった兄に話しかけてきたオーストラリア兵がいた。兄は結構キングズイングリッシュ(まだエリザベス女王は誕生していない)に通じていたのでその兵士と意思疎通ができて我が家に連れてきた。
兵士はレックスと言い、あのどでかいオーストラリア大陸から南に下がった島=タスマニア島の出身だった。20位の面長の青年で人懐っこかった。僕や妹にもハローとか言って声をかけてくれた。家ではレックスにお茶を進呈、これは紅茶と同族の日本の飲み物といった説明を兄はしていたようだ。でもただのお客さんではない。勿論、チョコレートやなにがしかの缶詰もあったがもっぱらレックスからタバコを仕入れていたようだ。当時、親父も母も兄もタバコを嗜んでいたが、日本のタバコは極端に手に入らない。戦後発売されたピースやコロナは一人ひと箱、タバコ屋に僕らも並んで買い求めたものである。20歳未満の喫煙は当時も禁じられていたが、僕らが受け取ってもすぐ母に渡すのでタバコ屋のおかみは何も言わずに売ってくれた。それでもタバコ不足は深刻で、我が家もニコチンのたまった“シケモク”を溜めては母などはそれをよく吸っていた。
だからレックスの出現は渡りに舟だった。レックスはその後度々我が家を訪れた。母もママさんと言われて悪い気分はしなかったようだ。そのレックスとの交易はどの位あったのだろうか。僕の目で見たものだけでも相当買い入れたようだ。イギリス製のもの、紙巻きたばこではネイビーカット、パイプタバコ兼用の手もみのものでは円形の缶に入ったロッグキャビン。ロッグ花瓶の缶などは小物入れに丁度よく、僕も消しゴムや短い鉛筆入れに使わしてもらった。勿論、レックスもなにがしかの対価を受け取っていたようだ。
レックスは真面目な男で、夜の街に繰り出すようではなさそうなのに何故日本円を欲しがるのか、僕は疑問だった。兄もそう感じたらしく、お金を何に使うのかと尋ねたことがあった。その答えは除隊したときにタスマニアにいる両親への日本の土産、それを買うためだと話していたという。
レックスとの付き合いが始まって3、4か月が経ったころ思わぬ闖(ちん)入者が突然現れた。オーストラリア軍の2人のMP(ミリタリーポリス)だった。彼らは、最近、軍需物資が横流しされているというので調査に来たとのこと。兄と僕がいたがもっぱら兄が応対した。いろいろ尋ねたり、台所等を調べたりしたあと、居間の八畳間にある水屋、いわゆるカバードの引き出しを開けた途端、にやりと笑った。したりやおうという顔。引き出しからポンポン缶を取り出しては畳の上に放り出してこれはなんだと兄に問いかけた。兄はレックスという兵士と昵懇になって家族ぐるみの付き合いで、彼が配給を受けた品物のプレゼントなんだと片言ながら説明していたようだった。
結局、兄も連行されず、ほっと胸をなでおろしたが、心胆凍りつく事件だった。やがてエビス・キャンプもグルカ兵の拠点となってレックスも除隊。故郷に帰る直前、あいさつに我が家を訪れ、両親にやがて会えるとうれしそうにしていた。だが、それ以来、レックスとは音信不通でいる。
新校舎造りへ馬小屋のがれきの整理
たしか2学期を待たずに初夏のころからだったと思う。僕らの時間表が変えられて水曜日の午後に3時限の体育の時間が並んだ。何なんだろうと体育の先生に尋ねた。イカポン氏こと伊原公男先生だった。答えは新校地となる戸山が原に行き新校地の整理を手伝うというものだった。そのために1週間の体育を水曜日の午後に集めたという。8クラスあるが、火、水、木に集中してグループ分けを行い、僕らのA組は水曜日となったわけだ。
昼食の弁当を原町小学校の間借り校舎で食べ、休む暇もなく大久保通りを若松町に出てまっすぐ進むと旧陸軍第一病院に突き当たる。そこを右折して通称・箱根山を通る。おそらく今の感染症研究所の横を歩いて戸山が原に到着という行程だった。グループで出かけたが、だれと一緒だったか、覚えていない。行き着いた戸山が原は惨憺たる状況だった。元の陸軍騎兵学校が使っていたという屋根つきの大きな厩舎、この建物の両側の壁沿いには、かいば桶に使われたとみられるコンクリートのがれきがぎっしりと並んでいる。それを僕らが外に出して厩舎跡をきれいにかたずけるのが仕事だ。工事現場で見られる猫車といわれる手押しの一輪車にがれきを積んで外の集積場に運び出して綺麗にする。1人でできないから2人か3人一組で取りかかった。コンクリートの残骸は3分の一か4分の一に砕かれていたが、一人ではとても持ちきれない。2人で持ち上げ、一輪車に乗せて持ち出す。今思うとよくもぎっくり腰にならなかったものだ。
各クラス3、4回戸山が原に通ったと思う。中には“こんなの体育じゃない”と言ってボイコットした連中もいた。特に体育部に入っているものがいっぱしの一家言を吐いた。僕は教室で体育用の軽装に代えて準備体操とか駆けっこなどをするのがあまり得意でないし、好きでなかったので、むしろ戸山が原に移動して、後片づけする方が気分転換にもなったので積極的に参加した。おかげでイカポン先生の覚えがよく、体育の成績の3項目か4項目のうち一つは4がついていた。
この労働奉仕も馬小屋が片付いたというのでやがて終わった。しばらくたって新校舎の建設が始まったという知らせを耳にする。
新校舎は馬小屋改造の粗製品
この年の秋も深まったころ新校舎が一部出来上がったという話が伝わってきた。10月の末か11月の半ばだったと思う。いくら戦争直後とはいえ、工事が少し早すぎるな、と思ったら、僕らが片付けたあとの馬小屋を利用して作られたにわか仕立ての建物だった。早速、放課後に見学に行った。粗製乱造でも自分たちの校舎ができたことは嬉しかった。新校舎は狭い職員室と確か6教室あったように思う。部屋は天井と壁にベニヤ板が張られていたが、新しいので馬小屋掃除のときのような暗さはなかった。廊下も仕切られ、大体普通の教室のように廊下と校庭の両側にちゃんとした窓がついていた。校舎の中でも一番西側、明治通りに近い教室だけ一風変わっていた。だだっ広いのである。一般の教室に使われたほか合同授業、例えば音楽の授業にも使われていたと記憶している。
この新校舎に誰が入るのか。まず白羽の矢が立ったのは、僕らより1年上の2年生で、彼らが最初に唾をつけることに決まった。3年生は受験を控えて引っ越しなど余計な雑務をかけたくないという配慮があったろうし、ちょうど2年生は僕らの8クラスと違って1学年6クラスで、6教室にすっぽり収まるという計算だったと思う。だから僕らが新校舎の恩恵を受けるのは年を越して昭和25年になってからである。
やはり旧制一高の威力
僕が高校1年になってから兄を苦しめた足に巣くう腐骨も暴れなくなった。
いつも兄の異常な足を見ていたのに今はどちらの足だったか迷う。ただ、ある時、注射器にひびが入っていたとみえ、動脈注射の際、注射器のガラスが割れて中の血の混じった薬液(もちろんペニシリン)の一部が2間(けん)も離れた部屋の向こう側の長押(なげし)まですっ飛んだ。その時の情景はよく覚えている。たしか医者(元軍医の黒木さん)は仰向きに寝ている兄の右側の脇に座って治療をしていた。ということは右足の動脈に注射したことになる。だから患部は右足ということになる。
その右足の腐骨がおとなしくなったことは、のちの診断で腐骨がだんだん小さくなって骨にできていた小さな穴から出て行ったことだと分かった。長かった治療がやっと終わりを告げたのである。梅雨時には兄も元気になり、大学受験に精を出し始めた。
とはいっても兄は自分の所属する旧制東京高校(文甲=英語系)でなく、もっぱら別のところに通った。それは駒場の旧制一高の教室だった。兄の友達で最上さんという方がおられた。たしか大連三中時代の同級生と聞いたように思うが、城西予備校時代(昭和20年)に知り合った人だったのか、定かではない。その最上さんが旧制一高に入っていて行動を共にしたのである。
最上さんが休んでも兄は一高の授業の潜りを続けた。そして僕らの前でよくおさらいをしていた。あるとき僕がなぜ一高に行くの?と聞いたら、東大の試験は一高流なのだ、傾向がつかめる、という答えが返ってきた。でも定期試験とか必要なときは東京高校に行ったようだが、一高通いが定番だった。
そのおかげで兄は最後の旧制東京大学法学部の入学試験に合格できた。兄貴は早速、東京高校文甲3年の担任に合格報告に行った。担任は四中・戸山で教鞭をとられた世界史担当の松浦高嶺先生のご父君だった。兄の話によると、松浦先生は“へ〜、きみがねぇ〜”と言ってしばらく絶句したそうである。そりゃそうだろう。兄より学校の成績のいい生徒がごろごろ落ちて成績のあまりよくない兄が受かるのでは松浦先生も首をかしげるのももっともである。その兄が受かるのは、伝統芸というか、やはり旧制一高の威力というものだろう。でも兄に自信があったかどうか?僕は家で履歴書を書いている兄を見た。聞いてみると、兄曰く、旧制高校を出ると副検事になる資格があるから落ちたら大学をあきらめて、その道に行く、だった。だから、そうは自信はなかったようだ。
論客“サトケン”と音楽教師との対決
場所は新校舎の大部屋、あのどでかい馬小屋の雰囲気が残っている大教室だ。記憶にあるのはみんなまだ外套、オーバーコートを着ていたのでおそらく寒い時期、1年の3学期ではないかと思う。ものが不自由な時代が続いており、くたびれた外套か、ないものは有り合わせのもので厚着をしていた。
だから3学期という推論が出てくるのだ。だが、ここで矛盾?がある。新校舎は2年生が使っていたはずなのだが・・・。そうそう、思い出し始めた。たしか、3学期は2年生と交代で僕らが新校舎の教室を当てがわれた。誰かが不平を言ったのではないかと思うが、がれき撤去の協力に対する論功行賞で、僕ら1年にも使わせてやろうという温情が先生方にあったのではないかと思う。
見出しの事件は、大教室での音楽の時間に起こった。音楽の先生は非常勤で来られた歌手の鈴木重教(しげのり)氏。テノール歌手だったか、バリトン歌手だったか、忘れてしまった。申し訳ない。丸顔だったが、両方の顎の筋肉が発達して浮き上がっていた。よっぽど練習や本番で歌われたことだろう。その鈴木先生が共産党批判らしいことをちらっと口にされた。定かではないが、部屋が寒い、こんなところで音楽を学習するのは不幸だ、と言われた序(つい)でのことだったと思う。党勢拡張して議席を増やしたのはいいが、大きいことは言っても(たとえばこの言葉は教室の改善など)何もこういうことはやらない、というような趣旨だったと思う。今思うと何か恨み節のようにも聞こえた。当時、いや当時も共産党は音楽家や芸能人を積極的に党員に勧誘していた。これは宣伝の表舞台で効果を発揮できる最高の手段だ、と僕らでも分かった。おそらく鈴木先生は勧誘を断ったか、党員になった同僚のせいで何かの邪魔をされたのかもしれない。かなり語気が強かった。
この言葉は僕には心地よく響いた。でも心配があった。これはあの論客“サトケン”が黙っちゃおらんなと思ったからだ。案の定“先生!”と言って手を挙げたのは“サトケン”こと、佐藤絢一郎君だった。佐藤君とは同じクラスになったことはないので、おそらく2クラス合同の音楽の時間だったと思う。
論争はどちらかと言うと先生側に軍配
佐藤君は党員ではないが、我々仲間うちでは進歩思想の持ち主だった。ただ、佐藤君の父君は共産党員だともっぱらの噂だった。だから鈴木発言に対しては当然佐藤君の反論がある、あってしかるべきだ、と僕は思ったし、皆もどういう事態になるか待っている状況だった。“はい、なんですか”との声に立ち上がった佐藤君、“佐藤絢一郎といいます。先生のお話に異論があります”と述べたあと持論を述べ出した。具体的なやり取りは頭にないが、サトケンは“政権を取るため今努力している。政権を取ってから民衆のための仕事ができる”。これに対し、先生は“大上段に政権奪取といっても困っている民衆を救わなきゃ党を離れてしまい、党政拡張もできない”。大まかにいうとこんなやり取りだった。結局、サトケンが引き下がって論争に終止符を打った。
僕は受け売りの理論を振りかざしたサトケンの負け、具体例を挙げた鈴木先生の勝ちと思うが、人によって違った。しかし、大勢は先生側だった。
それにしても、先生が教場で生徒と対決しえたのか。一つは鈴木先生が非常勤でサトケンはうるさ型だという認識がなく、自分の思いを率直に述べたこと。常勤の先生ならあえてサトケンとは議論をしなかったのではないか。
もう一つは昭和24年1月の総選挙で党勢を伸ばしたが、終戦直と違ってマッカーサー司令部に嫌われて一般の評価は下降気味で、やり口の評判が悪かったこと、先生の持論?のような意見が巷間でも受け入れられる素地が広がっていた。共産党批判はあちらこちらで聞かれ始めた。そんな背景もあったと思う。
そして、共産党は昭和25年6月のGHQからのレッドパージで国会の議席を全て失うことになる。
ちなみに進歩派の佐藤絢一郎君の消息をだいぶ経って聞いたところ、佐藤君は晩年、神戸市議会の当時の民社党所属の議席を何年も持ち続けて、保守的な論調に終始したそうだ。ノンポリの僕は変わらないが、若い時の急進派の行く末は本当に分からない、僕の不思議発見の一つである。
落ち込みが続く台所事情
目黒区三田の僕の家は借家だった。父親の三重県の津中時代の友人Yさんが家主であったが、疎開するので借りてくれないかと持ち込まれて、昭和19年に僕らが大連から引き上げて間もなく住まうことになった。だが、終戦後昭和22年ごろから“疎開した家族が東京に帰ってくるので返してほしい”という先方からの申し出が始まった。2部屋、次いで3部屋と明け渡し、同居人も持ち主の親類から鹿児島出身で3人家族のS氏、それにボクサー上がりの金融ブローカーと代わった。旧満洲海運の特殊精算人という親父の仕事も終わりに近づいていた。焦ったのだろうか。親父が最後の同居人だった金融ブローカーに引っかかってしまった。当時「平凡」などという若者向けの雑誌が少女を中心に爆発的な人気を集め、同種の本がいくつか出版された。その一つに「東京」というのがあった。この本は親父が昵懇だった同郷の三重県出身で神田・神保町で古本を主に扱う書店の主、Hさんが始めたと聞いている。ある時、親父が帰ってきて早速、同居の金融ブローカーに持ち込み、換金するよう交渉していた。額面は140万円、当時としてはとてつもない金額である。
2、3日親父はまだか、まだかと催促したが、もうちょっと待って、という返事だった。親父も訝(いぶか)ったのか、最後は頼りになる兄に相談し、兄は出かけた。帰ってきた兄は開口一番、“親父、バカだな、引っかかったよ。2階の男はパクリ屋だ”。僕は嫌な雰囲気ですぐ部屋を出た。2人が2階に駆け上がったが、もぬけの殻。金融ブローカーは家族ともども夜逃げしたあとであった。親父はそれから急速に気力がなえて行った。勿論、H氏とはその後、断絶の状態になったのは言うまでもない。
追い打ちかけた転居の連続
借家返還の要求も激しくなり、母は居座りを主張したが、先方が出した提訴が進むにつれ、親父もどこかへ移ることを考え出した。例のパクリ屋の事件で弱気になったことも影響している。家さがしは案外早かった。母が見つけ出したのである。
家の近くの交番で長く働いてこられた高松巡査が引退され、目黒区五本木に4部屋の家を購入された。そこに一緒に住まないかという申し出でがあったというのだ。困っていた時の救いの手、と親父も渡りに舟と母の提案を受け入れた。高松家とは母が終戦直前の防空訓練以来からのお付き合いであった。中古の家だが、1階の2部屋が高松家、2階の2部屋が僕らの家が使い、なにがしかの家賃をお払いするということだったが、金額は忘れた。
転居は高松家と同じだったのでおそらく巡査が退職された昭和24年の3月か4月だったと思われる。当初、互いにさびしくならないで済むからとなったが、高松家は2階で聞いていると巡査ご夫妻とご長男との諍(いさかい)が絶えず、半年を経て家を売らざるを得なくなった。買い取ったのはこれも奇しき因縁だが、親父の東亜同文書院の1年後輩の方だった。ご一緒に、と言っても先方は5、6人家族、とても一緒の住むことはできない。また転居しなければならなくなった。ところが、幸い近くに親父の津中時代の同級生Aさんが住んでおられて、部屋を貸してくれることになった。僕の高校1年の秋も詰まった11月ごろだった。親父はリヤカーを借りて引っ越し、妹は喜んでいたが、僕は少々こっぱずかしく親父と喧嘩しながら2往復ほどリヤカーの後押しを手伝った。思い出すのは親父の格好が嫌だったことだ。恐らく兄にペニシリンを運んでくれた大連三中の同級生の武田さんが兄にくれたあの海兵時代の萌黄色の作業衣、それを好んで着ていた。その作業衣姿でリヤカーを引くのは何ともみじめな感じ。そんなところに嫌気がさし、親父との言い争いになったと思う。兄はもっぱら駒場通いで日中はおらず、引っ越しは手伝わず、夜に帰り、朝食を済ませて出て行った。
初めて後輩を迎えた思い
サトケン・鈴木論争を終えて1年3学期は終了、記録はないが、佐々木勘次郎先生からのアドバイスで、家の環境が悪化しながらも少しずつ勉強に熱が入り始め、高校1年の時の成績はかなり向上した。これを受けて進級した昭和25年4月の新学期は過去3年、4年と様相が全く違っていた。
新制中学から初めての後輩となる400人の1年生を迎えたのである。さらに今までと違っていたのが一つある。僕の記憶にあるのは新学期の始業式が原町の中庭でなく、戸山が原のグラウンドで行われたのである。
朝礼台に上がった平田巧校長の訓辞というか挨拶は今も骨子だが、忘れない。
“今日、君たち1年生を迎えることができたが、君たちはよっぽど勉強しないと先輩たちにはとても追いつけない”、こういった趣旨のものだった。
この言葉に僕は“えっ”と思ったことを覚えている。なぜならば、後輩の1年生は9科目あるアチーブメントテストを勝ち抜いてきた猛者だと聞いていたからである。基本5科目のほかに体育、音楽、図工、家庭を満点を含め高得点を獲得した連中が目白押しというのに・・・。しかし、あとで聞いた話では、基本5科目が平均して後れている、ということをどなたかの先生に伺ったことがある。それが平田校長の“檄”の伏線にあったのだ。
後輩は400人といったが、男子は300人、女子が100人だった。この女子100人に国民学校の男女組だった少数のものしか経験のない朴訥?2年生の一部がときめいた。その1年下の女生徒ともお付き合いをし、その後ゴールインしたものも結構いた。
2年になった僕はF組で、大シェンこと福島正義先生と三尺さんの高木健二先生がダブルで担任になられた。仲間では目新しいところで三宅(旧姓高毛礼)眞君や林田耕太郎君、南条佑吉君それに芦谷博幸君や紅三点目の片山綾子さんと松野勉君らが加わった。このうち芦谷君は転校組だが、急速に仲良くなった。登下校のルート古川橋、魚籃坂下、目黒駅を一時的に復活したのも新宿区の大京町から通っていたからである。ルートに大京町の停留所を通っていたからである。彼はまた、のちに触れるクラブ活動の手引きをしてくれた男でもある。片山さんと松野君は席が近かったので(あるいは勝手に固まったのか)以後2年にわたり進学等の相談をし合ったりした。
僕の高校2年は家の現況を除いてまずまず順調な滑り出しだった。
家計をさらに圧迫した兄の下宿
僕の新学期とともに兄が姿を消した。A氏から借りた二部屋の家では1室を勉強部屋兼用の居間兼寝室にせざるを得なかった。兄はとても勉強する気にはなれないとこぼし、自分で貸間を見つけてきた。場所はなんと兄にとっては超一等地、本郷の東大正門前の3畳間であった。兄に賭ける?親父も、これから一家の大黒柱となる兄に期待を込めて了承した。家賃は教えてもらえなかったが、学生割引があったとしても3畳間としては当家にとってはかなり負担になる額だったと思う。気のいい兄は上機嫌で、家に立ち寄って“拓三、お前も来てみないか”というので国電のお茶の水駅から都電経由で兄の部屋を1回訪ねたことがある。聞いていた通りというか、それ以上に吃驚したのは、狭いが、道路を挟んで正門の真ん前、ほんの少し入ったところで勉学には最高の環境だった。それが、である。半年も経たないうちに兄は家に帰ってきた。僕は怖いけど一応頼りになる兄が帰ってきて心強かった。おそらく親父の懐具合が悪くなって呼び戻されたのだろうと思っていたが、さにあらず。後刻、妹から聞いた話では“兄ちゃんはね、勉強せず麻雀ばかりしていて家主に見つかり、追い出されたのよ”ということだった。兄は終戦直後から友人や親父とよく麻雀をやっていた。儲け頭ではないが、かなり腕が良い方だった。上海仕込みの親譲りだったのだろうか。僕はまだ子供だ、子供だと言われてもっぱらそばで見ている番だった。兄もせっかちだったのか、人が牌を投げるのが遅いと“ハーリー・スロー(Hurry throw)、ハーリー・スロー”を連発していた。ハリーは「急げ」だが、ハーと伸ばすと、きつくは感じないらしく、兄なりに婉曲な言い回しをしていた。だから麻雀をすることにそれほどの罪悪感はなかったと思う。しかし、東大の正門に貸間を持つ家主は、勤勉な学生を望んでいたろうし、代々その種の人種が借りていたに違いない。今の世の中と同様、便利のいい場所なら、借り手はすぐ見つかる、といったわけで兄の下宿も終わりを告げた。でも、兄の弁護をすれば、親父の懐を十分知っていて、少しは家賃の足しにと麻雀に励んだと思うのだが・・・。
しかし、間もなく親父の仕事は終わり、兄の下宿代で家計はますます窮屈の一途をたどることになる。