終戦直後の風雪に耐えた名門校

                             昭和27 森 拓三

第七章 新校舎全焼し分散授業へ、そして高校卒業


信じられない!新校舎が火災で消滅
 いや、四中、四高、戸山高はよほどついていない。神に見放されてしもうた。二度目の火災、業火に見舞われたのである。
 忘れもしない昭和25年5月25日の朝6時のラジオのニュース。“けさ未明、東京・新宿区にある都立戸山高校の校舎から火が出て校舎1棟が全焼しました・・・”。“エッ”、火の気がないのに本当に焼けたの?が実感だった。6時のニュースの時はまだ布団に横たわっていたが、間もなく通学の準備のため起きるところだった。金に詰まってきたので新聞は取らず、もっぱら情報はラジオに頼っていた。“信じられないけれど、見てくる”と言っていつもよりやや早めに家を出た。この時は多分東横線で渋谷に出て山手線で高田馬場に行き歩いて校舎に急行した。明治通りから校庭への坂道を登りかけると、あの火事場特有のきな臭さが鼻をついてきた。登りつめて目にしたもの、がれきの原っぱと化した校舎のあと。残っているのは半ば焼け焦げた長押(なげし)がついたままでいる玄関の柱だけ。まだあちらこちらには白い湯気みたいな煙が立ち上っていた。よく火事場の消火のあとに見られる光景だ。柱の手前横には藤塚先生が立っておられた。当夜の当直番。ダークスーツというか暗色系のジャンパーを着ておられた先生、顔はやや青ざめ多少震えておられたのを思い出す。そばには私服の刑事だろう。先生に尋ねているようで、先生はもみ手のような動きをしながら話をされていた。その姿は今でも脳裏から離れない。
 普段火の気のないところなのになぜ焼けた。不審火である。一時放火説が出た。出来の悪い奴が学校を恨んでやったか、それとも失恋した奴が腹いせに火をつけたか。いずれの説も消えていった。数日後、異変が起こった。
 仲良くしていた人見君が突然姿を消した。人見君はガキ大将風で、僕を子分のように“タクゾー”“タクゾー”と呼んでは威張っていた。その人見君がいなくなったのだ。やがて「噂」が僕の耳に届いた。
 校舎の火災は失火によると結論づけられた。火元は最東端の部屋にあった木製のごみ箱、そこに入れたタバコの吸い殻が発火源というのだ。その煙草を吸って入れたのが人見君らしい、という話だった。この話は裏を取ったわけではない。人見君が少年院に行ったのか、どの学校に行ったのか、その後の消息は今もって僕は分からない。ただ、ごみ箱に火の残っているタバコを入れればまだ梅雨の前、紙くずに燃え移ればそれは大ごとになる。なぜって壁は燃えやすいベニヤ板張りで火が教室に広がれば延焼は容易だ。馬小屋当時の屋根とベニヤ板の天井の間が格好の煙突になって燃え広がる、建物の材質から焼け跡にほぼ何も大きな障害物もなく焼け落ちたのは当然と納得した。
 しかし、そんな悠長なことは言っておられない。この先、僕らはどうなるのか、それが緊急の問題なのである。

3か所での分散授業と廃校論の再燃
 校舎の火事で再びジプシー生活、校舎を間借りしての授業を受けることになった。戸山高はこれまでの原町小学校と新宿区内にある四谷第四小学校と富久小学校の3校に分散することになった。僕ら2年の8クラスは富久小学校を当てがわれた。1年、3年はよく覚えていないが、おそらく1年生は四谷第四、3年生は原町小じゃなかったかと思う。僕のF組は3階の突き当たりでだだっ広い理科室が教室だった。教壇に向かって左端の窓のひと枠が
 割れていたが、なかなか直してくれず、左後ろ隅のものが新聞紙などを持ち込んで張ったが、風が強くすぐはがれ、嘆いていたことを思い出す。
 今と違って父兄もママゴン、パパゴンはおらず、大きいお兄ちゃんが来て子供の教育に悪影響を及ぼすという話は寡聞にして聞かず、全くなかったようだ。それよりも、出来のいい?お兄ちゃんと一緒で子供のためになるという声を耳にしたことを思い出す。
僕らに当てがわれた富久小学校は少し高台にあったようだが、見様によってはいいとも悪いとも取れる場所にあった。たしか靖国通りの延長線上にあって、道路の向かい側を新宿方面に歩いていくと新宿2丁目の赤線地帯の前を通る。丁度年頃になった僕らの仲間には好都合で、せっせと通うものもいたようだ。僕も2,3の武勇伝を聞かされたことがある。“うっかり入ってしまったと思い、足を組んで座り下を向いていると、何震えているのよ、男にしてあげるわよ、と言われた”といったやつ。ただ、そのような話も結果は聞かされなかった。何人かは富久小学校通いで男になったものがいたようだ。
 僕は当時くそ真面目で性行為をいやらしいと思っていたので、いつも道路の反対側を歩いて通学していたが、ある時、それも1回だけ帰りに赤線の前を通った。案の定だった。“兄さん、寄っていかない”“初心(うぶ)だわね”とか“お安くしておきますよ”などなど。僕は顔を赤らめ下を向いて足早にその場を去った。だから、あの富久小学校があの場所にあったということは人によっては好かったろうし、迷惑なところであったと思う。
ところで、戦災で校舎が焼けたときと同じように、今回の火事で噂の段階で廃校になるのではないかという話が再び出始めた。廃校になれば僕らはどこに行かされるのだろう、とか有名大学合格者を輩出するライバルの旧ナンバースクールはなくなれば喜ぶだろう、などといった疑心暗鬼の話も出ていた。
 しかし、今回はブルサギこと教頭の藤村先生が嘆いた昭和22年春とは違い有名大学、例えば東大に結構合格する先輩が多く、一橋大学や東京工業大学などの合格者も結構多かった。だから戸山高校は新制の中学生にもかなり人気があった。だから廃校論も間もなく消えて行った。3校分散授業になってたしか週2回ほどになった朝礼で、あの髭の石川栄耀先輩も二回みえられたように思うが、明るい反応の話だった。
 存続は決まったものの、ただ、なぜ不幸な出来事が四中、戸山高校に集中して起こるのは、その謎はいまだに解けていない。それにしても、生徒もさることながら一番迷惑を蒙ったのは先生方だ。分散された3校を駆けずり回って授業をこなされたことにただ、ただ感謝のみ。

誇るべき?高校での第2外国語への挑戦
 高校2年生になってある募集が始まった。学校で放課後にドイツ語とフランス語の課外授業を行うというのである。週1日、一回の開講。僕は基本の英語もろくすっぽできないくせにドイツ語に妙に惹(ひ)かれた。戦争中の枢軸国の仲間だったというなんとも表現できない愛着と言おうか、当時の戦闘機か爆撃機か忘れたが、ドイツの航空機メッサーシュミットということばなどは格好よくて惚れていた。それに兄がシューベルトの歌曲集「冬の旅」を買い込んで第一曲の“溢れる涙”を口ずさんでいたこともあってドイツ語が英語よりもなじめそうな感じがした。そこで早速、ドイツ語の補習講座を申し込んだ。入講料は先生へのお礼のみで額は忘れたが、安かった。
 ドイツ語の講師は三尺氏こと化学担当で僕らの担任の高木健二先生、フランス語は法政大学の岡田弘教授、岡田先生は四中のご出身と聞いていたが同窓会名簿で見当たらない。講座は4月の中旬ごろから始まった。
 ドイツ語はデル、デス、デム、デンに始まってzu+動詞原型のインフィニティフの練習まで行ったと思う。文法だけでは味気ないのでジャクさん時折、僕ら日本人に膾炙(かいしゃ)されている詩や歌詞などを引用して教えてくれた。例えばゲーテの野ばら=ハイデン・レェスラインとかカール・ブッセのイ(ユ)ーバー・デン・ベルゲン=山の彼方の空遠くなどだ。フランス語は太田富夫君らが聴講していたが、どんな内容だったか分からない。多分、オ・ネ・トー・プランタン、つまり「春です」ぐらいは教わっただろうと思う。
 ところが、そこに襲ってきたのが、不測の火災。結局、分散授業で生徒も先生も1か所に集合することが難しく4、5回の授業で閉講の憂き目に遭うことになった。
でも、いま振り返ってみると英語も勉強途中なのによくも第二外国語にチャレンジしたなあ、と思う。野蛮な行為?とはいえ、そのバイタリティーに自分や参加した聴講生にほとほと感心する次第である。

僕にとって幻の修学旅行
 校舎が火災に遭って生徒も先生も大変ショックを受けた。聞いてみなかったが、入学して2か月足らずで、いわばホームレスとなった新1年生の心中はいかばかりかと僕は思った。それに比べ、2年生は多少の癒しがあった。やがて夏になれば修学旅行が待っている。
 この修学旅行は僕らが高校1年になった昭和24年の新学期早々に企画されたと思う。毎月、月謝とともになにがしかの積立金を先生に届けていたことを覚えている。ただ、2年の新学期になると、最終確認が行われた。間もなく旅行計画を詰めなければならないからだ。おそらく生徒の中には旅行代金を積み立てたものの台所事情のよくないものも結構いた。
 僕の家もすでに何回か触れたように悪化の一途をたどった一人だった。“僕、修学旅行やめるよ”と言ったら、母は“そうか”と言ったきりだった。でも、積立金は当時としては相当な金額となっていて、積立金を母に全額返したときは“有難う”と一言だけだったが、うれしそうな顔をちらっと見せた。
 僕は修学旅行を断念したが、僕と同様、返還金を受け取った生徒はかなりいた。やはり復興は進んできているという巷の状況も未だしの感だった。
 結局、修学旅行に参加したのは400人中半数の200人前後だったと思う。
 修学旅行に参加していないのではっきりはしないが、夏休み直前の3泊4日の日程だったのではないか。というのは、帰ってきた旅行組から聞いた話が全く記憶にないからである。

着々成果が実る他流試合
 僕は中学生のころ原町小学校のコンクリート敷きの中庭でゴムまりの野球(チャンベース)を夕方になるまでやるほどこっていたが、その合間を縫って屋内体育館で放課後に行われていたバレーボール、バスケットボールやハンドボールのいわゆる体育系クラブの練習をよく見た。野球部の練習は加賀町のがれきに囲まれた校庭を使ってやっていたが、プールに行ったついでに2,3回ほど見に行ったりした。本当は入部して参加すべきだが、水泳すらかなづちと木づちの間で、運動神経が鈍いと自認していたのでそれだけはできなかった。
 でも、バレーボールで鮮やかに決まるスパイクやバスケットボールのランニングシュートなどを見て“スポーツはやはり速さだな”とそのスピード感に満足していた。そればかりではない。特に感心したのはバレーボール部の弓削田選手のジャンプ力だった。身の丈は当時の僕とほぼ同じだが、彼の身長の2倍ほどに達する跳躍力があった。その飛び方、最初はふわっと上がるが、そのあとが凄い。すごいスピードで上昇する。あのロケットの打ち上げと一緒だ。
 横道にややそれるが、長じて秋田での報道の仕事に就いたころの話。記者の肩書でもカメラを手に映像取材をしなければならない。道川海岸のロケット打ち上げ実験の撮影も仕事のうち。およそ1キロほど離れたところから当時としては一般的な動くカメラ・フィルモの望遠レンズで飛びだすところから青空に消えるところまで撮影しなければならない。僕も5、6度カメラを持たされた。案の定、最初は失敗した。ファインダーを覗いていたら、ふわっと上がったままその後、ロケットは消えていた。そこで思い出したのは弓削田選手のジャンプだ。その後は上がった瞬間に水平角度82°の方向に素早くカメラを上げる。そのスピードは勘だ。結果は最初を除いてバッチリ取れていた。ちなみに専門のカメラマンも失敗する。カッパ3型の夜間打ち上げの映像、カメラマンと撮ったが、古巣に保管されているのは僕が撮ったものだと信じて疑わない。ファインダーからのぞいて目に焼き付いた映像は寸分記憶と違っていないからだ。
 僕に教訓を与えてくれた弓削田選手は、学年が僕より1年上、慶応大学から女子バレーボールの鐘紡四日市のコーチや監督をされた方だ。弓削田さんの加わっていた戸山高のバレーボール部は連戦連勝、昭和25年には全国でも具体的な事実は記憶にないが、かなりいい成績を収めたと記憶している。25年といえば国体の軟式テニス、確かダブルスで準優勝?したといううろ覚えの記憶がある。

せめぎ合う体育系と文化系クラブ
 いつの時代もそうだが、クラブ予算の取り合いが毎年行われる。もともと器(うつわ)が少ないところに要求する額は多い。特に、体育部は道具を仕入れたり、練習場を借りたりするのに多くの金が要る。その基準はやはりどれだけ勝負を挑み、どれだけ勝つか、それが、勝負になる。大体、体育部内でおおよその配分を決めていたのが、ある時から文化部への侵食が行われるのである。
 古い話になるが、屋内体育館で自治会総会かクラブ総会が開かれた。恐らく僕が中学2年の時だっただろうか、バレー部キャプテンだったT主将が音楽班を名指しで非難した。当時、バレーボール部は都立城南高校など対外試合で圧勝していた。音楽班は名ばかりの者を含めて班員の数は多かったが、共立講堂での落選以来、対外的には赤城台高校や山脇学園の音楽部の交流程度、いわば部外者が見ると音楽好きなものの趣味程度と映ったのかもしれない。そこを突いたのがバレーボール部のT主将だ。“われわれは勝ち負けをかけて練習に励んでいる。道具も個人の持ち出しが多い。たまにはコートを借りなきゃならない。出費はかさむ。それに引き替え音楽班は趣味の者の集まりだ。楽譜を刷るぐらいで、そう金はかからない。クラブ費を(等分に?)配分するのはおかしい”。こんな趣旨の発言だったと思う。
 これに対し敢然と立ち向かったのは音楽班のSさんだった。音楽班のSと名乗ったうえで、音楽班はただの趣味で集まっているわけではない。対外的にコンクールにも出ている。相応の舞台も借りなければならない。クラブ費を配分しなくていいというのはあまりにもスポーツ部の身勝手だ、という意味のものだった。
 その年はどうだったか、すっかり記憶から消えている。ただ、これをきっかけに今までほぼ平等に分けられたクラブ費が、徐々に結果が分かるスポーツ各部、それも勝ちの多い優等部に傾斜して配分されるようになったようだ。

誘われて外事研究班に
 四中に入った時から音楽班に属していたが、中学2年の混成四部合唱で共立講堂に立って歌って以降、僕の合唱熱は急に冷えてしまった。名ばかりの部員というよりも脱落部員といった方がいいかもしれない。それに反して歌といえば兄が楽譜を仕入れてきたシューベルトの歌曲集に気を取られるようになった。ドイツ語の補習講座を受けるようになったのもそれが動機である。
 僕を外事研究班に誘ったのはF組同クラスの芦谷博幸君だった。一時、新宿区大京町住まいの芦谷君と帰りを一緒にしたこともあり、かっこいい名前のクラブを知った。それが外事研究班だった。 外事といっても外語、突き詰めていえば英語、その勉強会だった。教科書、副読本以外の英語の小冊子を選んで訳して英語力を深める?という趣旨の集まりだった。僕は芦谷君に“英語の分からない僕で大丈夫か”と尋ねたら芦谷君曰く“俺もできないから勉強しようと入ったんだ。(英語の)よくできる人たちだが、ミーティングは聞いてて納得だよ”と言ってくれた。
 ただ、英語といっても僕に対応できる能力があるかよ、と思った。何せ、中学に入学直後、親父と兄に三省堂のコンサイスの、英和辞書をAから叩き込まれた時期があったが、単調すぎて放棄、その後は右下がりで高校1年の時は英語の成績が3項目のうち4が一つしかない。3が並ぶ体たらくだった。
 しかし、芦谷君のことばに勇気づけられて外事研究班に入部した。

英語の達人の集まり
 この時のテキストは英国の作家、ロバート・ルイ(ス)・スティーブンソンの「自殺クラブ(The Suicide Club)」の研究社英文学小叢書版で、早速、神保町に買い求めに行った。スティーブンソンといえば、「宝島」、「ジキル博士とハイド氏」で当時有名だったが、なぜかスティーブンソンの自殺クラブが勉強会の教材となった。俗っぽい僕は、一瞬、変わっているな、と思ったが、年頃で自殺なるものにある程度興味もあったので、読むうちに自殺者の心理が少しでも分かればオモシロイ、と半ば読書の集いに期待をかけた。
でも、この本は英語の未熟な僕にとっては高級すぎた。まず、本文のっけの1ページから難解だ。名詞や名詞止めが「,コンマ」や「;セミコロン」、「:コロン」をつなぎに3分の2ページほどずらずらと並ぶ。覚えている英単語というか句は「ザ・プリンス・オブ・ボヘミア」の英文字ぐらいで、動詞があったかもはっきりしない。あったとしても文の最後の方にちらっと出てたかもしれない。それほど日本語で言えば体言止めのオンパレードだった。
 これは、参った。あやまるしかないと覚悟を決めて最初の読書会に臨んだ。しかし、それは杞憂だった。皆さん紳士で、ドシロウトの僕を温かく迎えてくれた。 自信のあるものはこれほど謙虚なものかと改めて感心した。
この勉強会で今でもお付き合いいただいている同級生の黒河内康君と初めて会話した。彼の姿は校庭や廊下でよく見かけたが、一緒のクラスになったことはなく、これまで口をきいたことがなかった。黒河内君はスラーッとして背が高く細身で長足だった。それ故にお下がり?のズボンから両足のくるぶしが出ていた。この姿が独特でなにものだろうと思うくらい、僕にとって異色の存在だった。彼は英語が堪能でよくできるという評判だった。その黒河内氏と話ができたのである。メンバーには同級生で内田洲治君、それに芦谷君に後刻俺の方が先に入部してるんだと言った河合哲夫君がいた。
 しかし、研究会をリードしていたのは最上級生の谷田昌夫氏や上村哲夫氏だった。お二人とも英語の達人で、特に谷田氏は会のリーダー格で英語のオーソリティ?と僕には映った。今ならペットボトルのお茶ぐらい出るか自前で用意するなりして勉強会が進められようが、当時はお茶どころか水もなかった。ある時、谷田キャプテンが“クラブ費がないのでねぇ〜、先生もほとんど呼べない”、とこぼしていた。そう言えば一度河辺(昌雄)先生らしい人を囲んでのミーティングがあったのをぼんやりと覚えている。

優秀な新入班員迎えながらあの火事が・・・
 おそらく僕の入部は高校1年の3学期末、それも春休みの直前だったように思う。4月に入って新入生を研究班に呼び込む勧誘の仕事をしたような記憶があるからだ。僕らの呼びかけでかなりの新入生が説明会?に来てくれた。進行役は度胸もあり押し出しの利く芦谷君だった。谷田リーダーも発言し、いくつかの質問を受け、説明会は終わった。果たしてどんな人物が入部してくるのか気がかりな部分があったが、次の集まりには結構、かなりの人数があったように思う。クラブ活動は概して会を重ねるごとに1抜け2抜けになっていく。外事研究班もご多分に漏れず、だ。しかし、優秀な後輩がとどまってくれた。何が優秀かはミーティングでの反応が第一、それに学校内の成績も加味されよう。当時は誰もかれも優秀だったようだが、覚えているのは本吉邦夫君と松香宏道君の二人。両氏とも僕の憧れの東大の文一に見事現役?で合格した。外事研究班も後輩の参加でステイタスが浮揚して行ったのは事実だ。
 ところが、である。後輩を迎えて間もなく、5月の下旬にあの校舎焼失の惨事に見舞われるのである。僕にとっても後輩にとっても数回、実質的に実のある読書会は3回か4回ぐらいだったと思う。3か所の分散授業でクラブ活動は一時、中断の憂き目に。これからと意気込んだ後輩には全く気の毒だった。それでもしばらく経ってミーティングは再開された。多分、3年生が通っていた原町小学校が会場だった。物ぐさの僕は億劫(おっくう)だったが、粘り屋の芦谷君に牽(ひ)かれて何回か通った。
 僕は、月とすっぽん、勉強会の下調べをしても辞書と首っ引きに時間を取られ、要約もろくにできなかった。スティーブンソンの本もペラペラとめくりながら拾い読みをする程度に終始した。ミーティングでの何がしかの話を聞いたりして僕なりに簡単にまとめ上げた。「自殺倶楽部」というのは自殺願望者の集まりである。しかし、臆病者ぞろいで自ら成し遂げることはできない。そこで、密かに人の手を借りる。集まりではトランプゲームで決着を付ける。スペードのクイーンを引いたものが犠牲者、スペードのエースを引いたものが実行者になる。それをあたかも自殺したかのように見せかける仕組みだ。面白かったのは、スペードのクイーンを引いたものが表面は喜んでいるものの手が震えている、というくだりだ。生への未練がのぞくというか、死に直面したものが“助けてぇ〜”と叫ぶ類(たぐい)と見た。人間の業だ。当時の僕が感じたことそのまま思い出しての記述だ。だが、正確に要約しているとはとても自信がない。怖いから、英文を読み返そうという気にはなれない。
 それでも僕の語学力というか英語力は少しは前進したように思う。あの「自殺倶楽部」の冒頭の1ページで見た「,」、「;」、「:」の使い方を知っただけでも大変な成果だった。

あっさり引き抜かれた弱さ
 外事研究班には女性も入部した。特にYさんとFさんは仲良く一緒にミーティングに来られた。ところが、2、3回出られて、姿が見られなくなった。丁度、学校の火災の直前からだと思う。その後、再開してからも見えない。僕らは中学1年の図工の時間に見たローマの武人アグリッパの石膏の胸像にそっくりの芦谷君をもじって“ごっつい顔の芦谷君に恐れをなして逃げて行ったんだ”などと冗談を言っていた。
 ところが、戸山高校を卒業して30年近く経って真相が判明した。
 実はYさんとFさんは“引き抜かれた”のである。それを漏らしたのは同級の石川正久君だ。彼によると、Fさんと付き合いたい?という同じクラスのS君に頼まれて一計を案じた。体育系のクラブになかったバドミントン部を作り、そこに入部を勧誘したそうである。石川君は、2人ともあっさり乗ってくれたというが、百戦錬磨?の石川君だ、どんな手練手管を使ったのか。彼は具体的な話はしないし、知る由もないが、僕は相当な手を使ったのではないかと今でも想像してやまない。だって、外事研究班もできるいい男が揃っていますからね。
 結局、石川君は功を奏し、2人はバドミントン部に入り、外事研究班から消えたのである。昭和24年に新聞部が創部され、「四高時鐘」という名の学生新聞を発行して活動が目立つ部が加わり、文系クラブも厚みを増したが、女生徒のヘッドハンティングの事件は、やはり、文は武に弱い、を実証した事件だった。ちなみにFさんは後程、S君と結ばれている。

多くの逸材を送り込んだ研究班
 後輩の入部で厚みを増した外事研究班だが、当面、僕ら高校生の目標は大学進学であった。当時は悔しい人もいるだろうが、東大に入学することが戸山高校など世間に一流と言われた都立の進学校の出来のいい、特に男性の連中の第一目標だった。勿論、優秀な人材が一橋大や物いじりの好きなものは東工大、湯川博士を慕って京都大に行ったり、中には朝永振一郎教授を信奉して東京教育大に行った成績1番か2番という超秀才もいた。でも東大病と言われても俗に出来のいい男たちにはやはり憧れの的は東大だった。それも新制になって文系なら東大文一(法経)、理系なら理一(理工)を目指すのが成績上位クラスの目標だった。都立一中の後身、日比谷高校では東大への希望者は浪人を含めて全員受けさせたそうである。戸山高校の場合はそうはいかない。担任からの選別指導が暗にあったからだ。その裏には教務主任・柴田先生などのサジェスチョンがあったと思う。そんなわけで戸山高校の場合は誰でも東大というわけではなかった。それでは何故東大を目指すのか。それは、まず、教授陣が豊かである、つまり優れた先生たちが揃っている。施設が古いけれども残っていてとてもいい、すなわち教育環境がいいということ。それに、卒業後の進路が安定している。などなど調査すればすべてAマークが記入されただたろう。今でも東大はそうだが、当時は他大学との格差は段違いに大きかった。出来のよさそうな生徒が目指すのも無理からぬところがあった。
 そんな孤高の東大に外事研究班から多数の人材を送り込んだ。
 まず、先輩の谷田キャプテンと上村先輩、同級の黒河内氏が文一、おそらく3人ともストレート、現役組だったと思う。理系では内田君が理一に入った。後輩ではすでに触れたが、本吉君と松香君が文一に合格した。芦谷氏はたしか医者になるというので、うろ覚えの?範囲だが、千葉大の医学進学課程に入り、そこから弘前大学医学部に進学した。そうなると僕だけみじめになる。他人(ひと)に責任をかぶせられないが、親父の失業の影響が大きく、卒業時に国立大1校の受験料500円は工面してもらったが、あえなく敗退。直後に家計を助けるため3か月ほどだがアルバイトをしたこともあったが、結局大学に届くまでには3年もかかってしまった。
 しかし、僕を除いて外事研究班は赫々たる実績を積み上げた。これは特筆しておくべきことだ。
 お断りしておくが、ここは進学そのもののコラムでない。私学を含む僕らの進学の実態は卒業時の進学全体像に譲る。

貴重なガンマの教え
 ガンマを逆に読めばマンガだ、と言って中学2年のころに先輩が檄(げき)を飛ばしたが、その裏返しは“怖い先生”である。そのイメージが付きまとっていた。僕だけではない。たいていの生徒はそういう感じを持っていたはずだ。幸か不幸か朝礼台で、あの“教務からのタッシ”と言う威厳ある姿を拝見する以外に授業などでガンマこと柴田先生に接することはなかった。ところが、高校2年の2学期にその機会がやってきたのである。2年の数学は幾何で、武藤先生が担当されていたが、その一部の授業を柴田先生が分担されることになった。
 地獄への逆落としか、とうとう鞭でたたかれる日が来たか、僕など劣等生は毎時間小言の二つや三つは言われるものと覚悟した。ところが、噂と現実は大違いだった。実に教え方がうまい。お体(どちらかの肺を摘出)のせいではないだろうがゆっくりとしゃべられる。秀才相手よりも出来の悪い連中向きの先生、と思ったくらいだ。問題はいつカミナリが落ちるかだ。やがて、その時がやってきた。4人が指されて黒板に出て問題を解くことになった。
 僕も指されて黒板と向き合った。解いているうちに一番左(黒板に向かって)のやつが、解いて戻った。ところが間違いを発見して黒板に戻ろうとしたとき、先生のカミナリがついに響いた。
 柴田先生「君、君、何処へ行くの?」。
 生徒「解いたのが間違っているので直しに行くのです」。
先生「席に戻りなさい。黒板に書いたものは答案。君、試験で答案を出したものを戻してもらい訂正してもう一度提出することができますか。下がっていなさい」。
 運動神経の鈍い僕は黒板の問題を解いている最中に耳にした。僕は何を思ったか、一歩下がって、解答をもう一度見直し、間違いのないことを確認して引き下がった。これが、先生に気に入れられたらしい。その後、クラス担任になってご指導を受けたことはなかったが、僕のことをよく覚えていられて、ご相談に伺うと親切にアドバイスして下さった。
もう一つ、先生の至言がある。
 「皆は8と−8とはただ−(マイナス)を付けただけじゃないか、というが、とんでもない。大違いだ。16も違うんだよ」。けだし名言だ。
 柴田先生をめぐる僕の2つの体験は一見、単純そうに見えるが、よく考えると深い意味合いを持つていることが分かる。そこには何十年と受験生を送り出してきた体験から得た先生の貴重な教訓がにじみでている。
 結論はケアレスミス、不注意は生死、いや合否を分ける、ということだ。
 どんな大学、有名校を含めて優秀な連中は文句なしに入試にパスをする。しかし、それは全体の受験者から見ればごく少数。あとは大勢のガヤが1、2点、あるいは多く見ても10点ほどの差が明暗を分ける。それは多くの場合ケアレスミスをなくせば6,7割はカバーできる。いわゆる有名進学校がなぜ有名大学への、例えば東大への合格者を多く出すのか、四中、四高,戸山高の場合はこのケアレスミスをしない、というガンマの教えを教室内で徹底したことも一因だ。これが初めて接した柴田先生の授業で直感した体験だった。
 しかし、分かってはいるもののすぐ対応できるものではない。浪人2年目の受験で誤りの轍を踏んでしまった。数学、当時は解析Tだったと思うが、9+3=13と勘違いし、なかなかルートが取れない。時間がどんどん立ってしまい、3問の問題はすべて完敗、この年1回だけの受験に失敗した。
 ケアレスミスをしないこと、これは頭で考えることはできるが、実践することは難しい。やはり、ツーカーで反応する、相撲取りのように体で覚えることが必要だ。ケアレスミスを絶対にしない、少なくとも数学の世界でしないという習慣を身に着けるには教室での授業で反復するしか方法はない。他力本願だが、中学の2年ごろから柴田先生の授業を受けられていたらなあ、というのが今もって心に去来する恨み節である。

心の先生でもあった柴田先生
 すでに触れたが、柴田先生は弁当を持ってこない生徒を昼休みに職員室?に呼び、ご自分の弁当を食べさせてくださったと聞いている。
 教え方は厳しいが、優しい心の持ち主でいられた。実はその片鱗と言えば大変失礼だが、僕もその気配りの恩恵を受けた一人である。卒業後のことなのであとでまた触れるが、先生の口添えで高校4年生と言われた補習科(佐藤忠先生の采配でたしか昭和27年春から浪人した連中の救済策で始まったと聞いている)に2学期から参加させていただいた。
昭和27年の卒業時には兄が旧制大学の3年、妹が高校3年を迎えるものの金策に行くと出かけた親父からの送金がなく、半ばやけっぱちの兄が“復員局に勤めるから大学を辞める”と言い出した。家族の“絆”を感じた?のか僕は“あんちゃん、やめることないよ。浪人の僕でよければ行くよ”と申し出た。すかさず“お前行くか”ということで4月から復員局のアルバイトに通うことになった。余計な話をもう少し続けるが、当時(昭和27年春)、僕の家は西武新宿線の野方駅の北口から歩いて8分ほどのところに間借りをしていた。復員局は国鉄中央線の市ヶ谷駅近くの市ヶ谷本村町(今は自衛隊があるが、当時は隣が大蔵省印刷局)にあった。仕事は昭和27年2月に成立した戦没者遺族年金弔慰金給付法の審査業務だった。給与は1か月5400円で半月ごとに半分の2700円が支払われる。台所の苦しい家計を助けるため僕は一計を案じた。定期券を買うと、西武線の野方駅と国電市ヶ谷駅間だと1か月360円かかるが、国電中野駅と市ヶ谷駅間だと140円で済む。僕は後者を選び、休みを除いて家から中野まで歩くことにした。大体36分はかかる。毎日、朝6時半に家を出て7時10分に中野着、それを辞めるまで3か月間、原則として続けた。ただ、栄養が伴わず風邪をひいたときは野方駅から高田馬場経由で職場に向かった。今ある記憶では6日である。
 柴田先生にお世話になったのはそのあとである。戸山の校舎に行って柴田先生にたまたまお会いした。「どうしている」とのお話で、斯く斯くしかじかとお話をした。その時に先生から補習科のお奨めがあった。補習科については卒業時に聞いていたが、その頃は貧乏極まってとても払えない金額の月謝だった。“国公立1校しか受けられませんが、レベルを下げようかと思っています”という僕のことばに柴田先生は「初志を貫くことだ。君は東大だったね。家で勉強するのは重いので補習科へ来たら」とおっしゃってくださった。僕が月謝の払える状態ではないと話すと、先生は「いいよ。佐藤先生に話しておくから」と言われた。のちに佐藤先生にお会いしたら「聞いているよ。困るんだがなあ」と言われながら入会を認めてくださった。
 でも、そんな柴田先生のご配慮に背いた僕は別の大学に落ち着くまでさらに2年半かかったのである。
 柴田先生とは、ご縁がなく、補習科でご指導を受けて以降お会いしていなかったが、約20年後に偶然お会いできた。昭和27年卒業生の集まり、パイラス会(昔四中の校章は数学で使われるギリシャ文字のπの腰?から下にかけて中という字をひっかけた格好で、四中は俗称パイ中とも言われた。その四中の最後という意味で同期会の名前が付いたと聞いている)で恩師の受付係を命ぜられた。そこに柴田先生が見えられた。
“先生,お久しぶりです。森です。先生のご高配に報えず、こんな体たらくで・・・”と僕。すかさず先生からは「いや、分を心得ることは立派なことだ」とおっしゃり、褒めてくださった。先生のおっしゃった言葉は含蓄のあるものだが、僕はほめてくださったものと永久に頭に留め置くことにしている。

案外早かった校舎の再建
 不慮の火災に二度も見舞われた母校の校舎の再建は意外と速かった。二度目の火災からほぼ半年後には一部だが、2階建ての校舎が出来上がった。前の馬小屋改造のベニヤ板校舎とは段違いに立派な鉄骨モルタル校舎だった。
初夏には朝鮮戦争が勃発し、いわゆる朝鮮特需で世の中、一部の分野はあぶく銭で盛況を極めていた。当時、日清何とかの若い宮島社長という人物が連日、新聞面のトップを賑わしていた。そういう特需景気に支えられたのかもしれない。その潤いのお蔭で校舎の建設は急ピッチで進められたのだろう。     
当時としてはクリーム色の壁が映える校舎、あのお粗末な馬小屋改造校舎
を見たことのある関係筋の上層部の哀れを誘ったからかもしれない。
 教室数は定かではない。ただ、一階の記憶だが、長い廊下が一本走っていた。だから、10教室か12教室はあったのではないか。次は、どのクラスが、初めて入室するかだが、僕ら富久小学校を間借りしている2年生が当てられたようにかすかな記憶がある。当時の3年生や1年生のことは記憶にない。なぜ僕らが、と言えば、登下校で新宿の繁華街を通る連中が多かったため、教育上の見地から移転が早まった可能性もある。僕らの落ち着く先は新装なった校舎1階東のどん詰まりの教室。誰かが柱か漆喰に学習院女子部と彫ったか書いただけで担任の大シェンが大いに怒り“誰とは言わないが不敬である”と声を張り上げていたことを思い出す。
 そういえば、現在と同様、学習院女子部はお隣の“ご近所さん”。ただ、わが校舎とあちらの校舎とは南北斜めに相当の距離があった。相手は女子生徒だが、こちらは男子生徒の多いいわゆる男子高、万一のトラブルを避けるための配慮があったのか、あるいはまた、大シェンの思いのごとく高貴と庶民の格差が裏にあったのか、その辺の事情は分からない。しかし、かなりのスペースが空いていたのは事実である。だからこそ、その後何回か知らないが、一部増築や改築が行い得たといえるだろう。

校舎のシンボルはラジアン池 
 専門家でないので、校舎のジオグラフィー(地図)などとても分からないが、現在、平成24年現在のモダーンな校舎から解きほぐすと、いくつか感覚的なことが言えそうだ。深井鑑一郎先生の胸像のある通称ラジアン池、その前身の旧ラジアン池はもうひと並び南にあった。その後ろ、東側に校舎の正門があった。前後するが、明治通りからの通学路はたしか桜並木があって会館か講堂ないし集会所風の建物があり、その一角に城北会の事務所もあった。したがって、その当時の通学路はさらに南側にずれていた。移った時西側にプールが完成近い状態だった。さらにプールの西、明治通りの脇には黒い瓦屋根の長細い廃屋があった。土地を交換した富士山鉄道(都と土地を交換した会社、同期の天野義康君の父君が社長をしていたとか)のものと聞いていたが、僕らの卒業まではそのままだった。また、明治通りを挟んで西側にある、早大、早稲田大学理工学部のさらに西か西のはずれかに射撃場があり、自衛隊の訓練の時のダダダダ・・・という発射音が聞かれて、結構耳障りだったことを覚えている。ちなみに馬小屋改造校舎は旧ラジアン池のさらにもう一つ南側にあった。そのためグラウンドは全くウナギの寝床を大きくした細長いものだったと記憶している。

ムトウさんの助言と即席効果
 2年の時の数学は幾何だった。柴田先生にも教わったが、メインの担当は武藤徹先生だった。私見になるが、よく出る幾何の問題は設問と結論が出ていてその間の経緯を類推して解明するのが圧倒的に多い。僕の感じでは数学というより論理的な思考を陶冶する道筋解明学と思い込んでいる。うまく糸口をつかむと簡単に解くことができるが、とっかかりが悪いと迷路に入ってしまう。僕などは問題を解くのに2日近くかかったことがざらにある。一筋縄ではいかない学問、直感力が勝負の世界だ。
 武藤先生の解き方は、まさに天衣無縫、僕らの手が届かない発想で難問を次々と解いていかれた。早くその真似ができるようになれないかと悔しがらせる巧みさがあった。
 先生はいとわず、よく質問に答えてくださった。教室内でも授業の進度が遅れるのも構わず、相手をされた。授業が終わると、よく先生を囲んだ。質問をよくする生徒がいる。うろ覚えだが、谷川譲君や山田良治君の顔が浮かぶ。僕は武藤先生に恐れをなしてあまり先生を囲むサークル?に参加しなかったが、2年の3学期も半ばを過ぎたころ、授業後のサークルに加わった。
勿論僕の発言は最後。参考書の幾何の問題に引っかかって苦悶していた時でもあった。幾何の問題を解くコツを先生に尋ねた。ところが僕の予想を超えて武藤先生のことばが振るっていた。
“森さんは直観力が優れているんですよ。場数を踏めば怖いものなしですよ”。武藤先生はみんなに“さん”づけされる。それはよしとして、僕に直観力がいいとは青天の霹靂、そして場数を踏めば、つまり問題をうんと解けばというアドバイス。この助言にすっかりまいってしまった。
そして一計を思いつき実行にかかることになる。

あんなエネルギーがグズにもあった
 3年の数学は当時の科目として「解析U」と決まっていた。本屋に駆けつけて買い求めたのは旺文社が出版した解析Uの参考書だった。早速、家に帰って参考書に向かった。恐らく解答編を含めて400ページ近くあったと思う。根っからグズの僕は計画性がなく緻密なプランなど作れない。何となく春休みの20日余りのうちに仕上げようと、すぐに1頁から白紙をそばに置き鉛筆を持ちながら本(参考書)を読み始めた。順序どおりに解説を読み問題があれば問題を解き、問題を解いても、また、壁にぶち当たった時も解答編を見て、しっかりと頭に入れた。たしか、第一章が三角法、次が順列・組み合わせ、さらに微分、積分、そして最後は確率・統計だったと思う。最初は途中で投げ出すか、中途で終わってしまうのではないかと思ったが、実際に取り掛かってみると案外スムーズに進められた。今思うと、新しいジャンルのせいか、次はなんだろうという好奇心が湧いてきていたからのようだ。
 とにかく20日以上かかると思っていたものが、18日ぐらいで完走した。
僕みたいなグズにもできるんだ、という自信が芽生えたが、それは慢心だったかもしれない。
3年の新学期が始まる前、2、3日で再び解析Uの参考書に目を通した。ひっかかって解答編一辺倒だった所は丹念に復習した。

総仕上げの最終学年に到達
 いよいよ1学期がスタート。クラスは社会と理科の選択によって分けられた。僕は地理と物理を選んでG組、河辺昌雄先生(英語)が担任のクラスに配属された。記憶にあるところではA組とB組は日本史と物理の選択で担任はそれぞれ平賀幸五郎先生(国語)と柴田治先生(数学)、C組とD組は日本史と地学でそれぞれ坂入一郎先生(数学)と田崎治泰先生(国語)、E組とF組は地理と地学を選んでそれぞれ中金武彦先生(東洋史)と平久保章先生(日本史)(E、Fの担任の先生はあるいは逆だったかも)、そして僕と同じ地理と物理を選んだクラスとしてH組があり、佐藤忠先生(数学)が担任だった。
 G組のクラスメートを見ると村上龍雄君や乙黒靖男君、別府輝彦君など理系志望者が多かった。僕はというと理系でも文系でもどちらでもよかった。
 では、なぜそんな選択をしたのか。青二才の発想で地理は世界を取り込んで範囲が広く、物理も理系の中心学科でいずれも歯ごたえがあると感じたためだった。それに当時、日本史が何となく嫌だったこともある。たしかにチャレンジ精神から出たものだが、身の程知らと言われれば、その通りということになる。その後の学習やテストなどで大変苦労した。
 そのうえ、地理担当の先生が日本史の平久保章先生。その平久保先生自身が“君たちは不幸だ。お門違いの日本史の先生に地理を教わるなんていいことはない”とのっけから冷や水をかけられた。どうやら前途多難な3年が始まった。

順調な数学も慢心の芽ばえ
 数学は解析Uで杉浦久男先生(別名コンニャク)だった。ところが、悪い先輩がいた。杉浦先生に指されたある先輩が黒板に行ったはいいが、すぐに“解らない”と言って自席に戻ったことを聞いてしまった。先生の言うことを分かっている僕はそれこそ慢心そのもの。ついにその真似をしてしまった。以後、先生から指してはもらえなかった。
また、先生が“こんなこと分かっていなけりゃ駄目だ”とおっしゃったのに対し“分かっている”と言って抵抗、“森君が分かっていてもほかの者が分からないとだめ”などと応酬したこともあった。
それでも、試験は毎回満点。中間テストや学期末テスト、それに小テストを含めて杉浦先生のもとで、たしか13回のテストを受けたが、いずれもフルマークだったと記憶している。
しかし、杉浦先生の査定は正しかった。それは通信簿に反映された。数学の評価は理解、技能、態度の3項目だったが、理解と技能は最高の5をいただいたが、態度は4だった。当時は試験の数字が一番と思っていたが、今では先生の評価を十分理解している。というのは、やはり練習の繰り返しでついてくる計算力が全く足りずに以後の入試のネックになったことを含め慢心に足を引っ張られたことが示されたからである。

入試前に家計はパニック状態
 先生へのことば使いがぞんざいになるほど家の経済は悪化の一途を辿っていた。親父が旧満洲系の会社の特殊精算人の仕事がなくなって収入がなくなり、貯金もほとんどなくなっていた。
当時、5人家族のうち妹は高校のソフトクラブの合宿所に泊まり込んでいて親父に母親と兄、それに僕の4人暮らしだった。住まいは転居を繰り返し、高校3年の時は中野区の野方に移っていた。元陸軍将官の結構大きなお宅で12畳ほどの応接間を一室間借りし、台所は使わせてもらった。家賃がどの程度だったか、教えてもらえなかったが、家主さんも生計の足しにと貸したものだと思う。それに兄が東大、僕が戸山高校の3年ということで、あるいは信用していただいたのかもしれない。しかし、家主の方がだんだん冷たくなっていった。僕には伝えられなかったが、おそらく家賃が未払いだったためだろう。ある時、僕は親父と喧嘩をした。金がない、と親父がぼやいたとき、僕は言った。“日雇いでもなんでもすればいいじゃないか”。僕のこのことばに親父は怒った。“お前らに傷つかないようにそういう仕事をしないでいるのに何を言うか”と言って僕に殴り掛かってきた。僕はとっさに親父の両手を掴んだ。と、どうだろう。親父はたちまちよろけてしまった。たまたま隣に兄の栄一がいた。“拓三、よせ”と言ってたしなめた。当時の僕は親に刃向うことはいけないことと思っていたので何かしらわめいても反撃する気はなかった。親父も手を放しながら僕を大きな声でなじっていた。それを聞いていたのだろう。数時間たって僕一人になったところで家主の元少将の夫人があるものをもって部屋の扉を開けた。夫人は品のいいおばあさんで穏やかな方だった。“これをお飲みなさいよ。受験勉強で疲れているでしょ”。それは紅茶茶碗に入れたミルクだった。それもただのミルクではない。家主は庭の片隅で山羊を飼っていた。その山羊のお乳である。
 冷静ならお断りすべきだったかもしれないが、当時は空腹気味のうえ、受験を控えている僕を遠くから見つめてくれた思いに胸が詰まった。それにミルクと言えば、戦争直後にスキムミルク(脱脂粉乳)を飲んで以来いただいた記憶がない。結構値段がはり、普段しょっちゅう飲める代物ではなかった。病弱な人間以外には接することはほとんどなかった。とっさに僕は“有難うございます。いただきます”と言って受け取った。そしてすぐに飲み干した。のちに聞いた話だが、山羊のお乳は牛乳より濃くて臭みがあるというが、いただいたミルクは濃厚だったが、臭みは全くなく、とても美味しかった。早速台所に行ってカップを洗い、お返しした。ニ、三言葉を交わしたと思うが、お金(家賃)の話などは記憶にない。さすがは将官の家庭は行き届いていると感心したのを覚えている。

僕の名を使い親父の金策の旅
 しばらくして、親父は“金策に行く”と言って、母と兄と僕の3人を残して故郷の三重県に旅立っていった。その後、どの程度、親父から仕送りがあったかはわからない。気丈な母は、すでに触れていること、つまり高校を卒業して一時務めるまで僕に何もお金のことはいわなかったからだが、僕が社会人になって10年ほどたったころ三重県のたしか妹のところを訪ねたとき、ある人物から強烈なことを聞かされた。
 その人物は親父の実姉の亭主、橋爪多喜郎氏。たまたまかち合っただけのこと(相手は僕の動静を知って会いに来たのかもしれない)だが、伯父から意外なことを聞いた。“拓三、君の親父は拓三が出世したら返すようにするからと言って親戚ぢゅう借りまくっていったんだぞ。そろそろ返していけや”。それこそ青天の霹靂。最初は、なぜ兄貴の名前を使わなかったのか腹が立ったが、冷静に考えてみると、受験勉強中の僕を使う方が借りやすい、親父がどんなやり取りをしたか全く知る由もないが、僕が都合のいい立場にあったのはうなずける。ただ、そうは言われてもどこからいくらという記録もない。また、親父の跡を遍歴する暇もない。申し訳ないが、うやむやになってしまっている。

荒(すさ)んでいく高3の学園生活
 家の状態が荒れていく中で僕の心情は勉強どころではなかった。親父に話したら“お前、学校に行けるだけでも幸せに思え”という答えが返ってきた。だから毎日、家で親父の顔を見るのが嫌だった。自然と体は戸外に行く。でも休日以外は学校に通った。というのも理由が一つあった。国民学校の卒業式で倒れたことには触れたが、その時に賞をもらった。皆勤賞ではなかったが、精勤賞をもらった。遅刻はしても毎日学校に通った証しである。それがとても嬉しかった。幼児期には何かあると、姉などが“あんたは月足らずやから”と盛んに言われた、その反動かもしれない。体はスポーツ部に入って挑戦するほどのものでないと自認するぐらい弱かったので、次善の段で遅刻するぐらいは“勘弁して”という気分があった。でも、生来頑固なのか、それより崩れることは己(おのれ)に許せなかった。今にして思えば当時あった唯一の粘りだったかもしれない。だから学校は決して休まない、遅刻はしても。その意地で学校へは通った。
 だが、勉強は教室内のみだった。よく原宿で降りて明治神宮のアヤメの園?に出向いた。時折、進学相談をしたいと言って同クラスのM君やKさんを誘っては迷惑をかけた。そのうちに親父が金策で故郷三重に出かけた。救いではあったが、崩れてしまったバランスを取り戻すことはできない。猛勉をしなければならない時期に頑張らず夏を過ぎるまでに合格の文字は遠くに行ってしまった。
 最近、平成23年1月になって珍しいものを発見した。高校3年時の通知表である。耐震改造のため本箱を整理していたら紺色の卒業アルバムに挟まっていたのである。65年ぶりの再会である。その中に担任の書く指導欄に何が・・・。河辺昌雄先生の書かれたのは「要注意」の3文字であった。先生には気付かれないようにしていたが、やはり先生には僕の怪しげな部分は察知されていたようである。

奇跡!模試の好成績に堕落の一途
 その年、昭和26年の9月になると、大学受験を控えて生徒の学力を試す第一回の学校内の模擬試験が行われた。当時を思い出すと、試験は8科目で基幹科目の国語、数学、英語は200点満点、社会と理科は2科目ずつで、各科100点満点という配点だった。そこで出てくるのが、各科どれだけ得点できるか、という得点予想だが、解析Uは勉強しているものの模試では数学の範囲は指定がなく無限の広さ、何が出るか分からない。英語はクラブ活動で多少自信が出てきているが、まともに勉強を始めたのはほんの少し前、特にコンポジション(作文)が駄目。国語に至っては本を読まないから読解力は弱い。せめて稼げるのは興味を持っている世界史と地理ぐらい。まあ半分の500点に近い点数だろうと予測を立てた。総じてにわか勉強しかしていないからお付き合い程度と開き直って試験に臨んだ。それが良かったのか、思ったよりかけた。今思うと、それはそうだというものがある。学校で習っているものの延長の問題が多かったからだ。あとは記憶力の問題。開き直っているから結構すらすらと思い出した。そうはいっても予想以上という域しか出ないものだった。
 試験が終わって二日か三日ぐらいたったころ、たしか2階の学習院側だった廊下の窓際の長押の部分に模試の成績が貼り出された。恐らく年3回の模試のうち1回目が新校舎で貼り出されたのは僕らの学年が最初だろう。点数も名前も朱色の筆文字だったか、点数は朱色、名前は黒だったか、定かではない。100人か120人ぐらいだったろうか、あるいはそれ以上だったか、成績優秀者の名前がずらりと並んだ。2階の教室はA組、B組、G組、H組と物理選択の4クラスに当てがわれていた。だから挟まれたB組、G組の連中は否応なしに見ざるを得ない。僕も野次馬気分で“番付”上位はどういう連中か目を向けた。そうしたら何か僕の名前らしい文字が目に入ってきた。それもかなり右側だ。“え、そんなことはありえない”と思いつつもう一度貼り紙を見た。「16番 630?点 森拓三」と確かに書いてある。総合点が630点という記憶と618点の数字が交錯してすぐあとも、僕の前の15番の人も名前が出てこないが、順番の16番は間違いない。“へぇ〜、あんなもので600点台も・・・”という気持ちの緩みが出てきた。
 番付表の張り出しがあって(クラスごとに)その日にのうちに担任の河辺先生から答案の返却と講評があった。
 いま記憶にあるのは、先生ご専門の英語で、文章の中のカッコに単語を埋める問題について正解はasだが、正解が意外と少ない、というものだった。
 僕はまぐれにも当たっていた。これが僕の点数を押し上げていた。
 それはともかく、この1回目の模試の結果が僕の安易な気持ちを増長させた。
大体、初回の問題は教室で習ったことが主体だそうだが、いま思うと過ちはそれで(教室の講義だけで)いけると過信したことだ。金がないから当時の受験誌だった「蛍雪時代」も目にしていなかったが、それでいいと自分で決め込んだのだ。そして、相変わらず、時折徘徊する習慣を続けた。

模試で現れた異才
 河辺先生の講評で僕の人生で後にも先にもこの時以外にない珍しいことが起こった。知識も経験も豊かな先生が、生徒にシャッポを脱いだのである。
 英語のエキスパートである河辺先生が脱帽したのは模擬試験で英語のコンポジション・作文の問題である生徒が使った単語について次のように切り出した。“すごい生徒がいるよ、この学校は。僕の知らない言葉を知っているんだよ”と発言、一時みんなが誰だ、誰だ、と顔を見合わせる事態になった。結局、僕らのクラスでないことが分かったが、真実はこうだ。
 作文の文章は忘れたが、「自由」という文字を英訳しなければならなかった。
僕らは[free]で済ませるのだが、その生徒は違っていた。[unfettered]という単語を使ったのである。僕も不勉強だが、世界史で奴隷が手枷、足枷をはめられているその「かせ」というのが英語でフェターということはおぼろげながら知っていた。しかし、彼はその言葉にunを付けて形容詞化して自由という意味で使ったのである。勿論、河辺先生は「枷」のfetterというのはご存じだったのだが、その単語が「自由」に化けるのはご存じなかったのである。
 河辺先生は講評の席でその生徒の名前は明かさなかったが、あとでA組の黒河内康君と判った。そんな生徒がいるの? しばし、さざ波が立ちながら、そのような異才と同じ屋根の下で勉強できるのを僕は誇らしく感じたものである。

慢心が招いた試験の結果
 1回目の模試の成績が予想以上によかったことが慢心を生んだ。授業には出ていたが、それ以上の受験勉強はしなかった。高を括ったのである。
 11月に入ったころだったろうか。2回目の模擬試験が行われた。前回の模試と比べ社会や理科はともかく基礎科目の、特に国語と英語の答案には筆が進まない。数学も解析Uだけではないのでそうは点が取れない。総体的にレベルが上がって歯が立たない。結果は散々だった。総合点は覚えていないが、順位は250番台だった。特に国語、現代国語はたしか夏目漱石の「硝子戸の中」から出題されたと今でも記憶に残っている。普段から本を読むのが嫌いなうえ国語には例の古文で好成績を取った以外は苦手意識を持ってきた。人間の心を穿つ設問にはシャッポを脱いだ。トンチンカンな答えを書いて零点しか返ってこなかった。ところがクラスメートだった守屋一彦君はできたという。すでに触れた守屋君の家を訪ねたのはこのころである。僕の分からなかった試験の設問(具体的な文言は覚えてい)で、死のうかどうか尋ねられた先生の返答を問う問題だったが、「生きていなさい」というのが正解。守屋君はそう書いた上に死のうかどうかという文句には迷いがある、迷っているうちは生(せい)を選ぶ、と説明してくれた。そこまで考えが及ばなかった僕は“さすが、守屋君”と敬服した。国語の力は月とすっぽん。その差は読書の量が歴然としている、よく勉強する彼とほとんど本を読まない僕との違いなのだが、今更どうすることもできない。やけのヤンパチで半ば勉強を放棄した。年が明けて3回目の模擬試験の結果は覚えていないほど2回目よりさらに下がってしまった。はっきりと覚えていないので後回しになったが、模試のトップは1回目が安仁屋政彦君、2回目か3回目はG組のクラスメートの関弘君だったようだ。また、守屋君は卒業式で総代になり、同級生皆の卒業証書を受けた。成績が400人余りの同級生のトップだった。

裏をかかれた進学適性検査
 当時、国公立大学を受験するにはもう一つの関門を潜らなければならなかった。進学適性検査である。僕らより2、3年前から始まったようだ。文字通り文系に適しているか理系に適しているかを見るテストで、その検査のための勉強はする必要はない。自然体でいいのだ、むしろ人物の生を映すのだからその方がいい、という説明を受けて僕も、そしてほとんどみんなも進学適性検査の準備勉強をしないで試験に臨んだ。100点満点で理系と文系の問題が50点ずつ配分された。受験場所は教室だったと思うが、定かではない。試験時間は何時間か忘れたが、時間が足りない。それにかなり難しい。
 さらに言えば準備勉強すればかなりの点数が取れる代物だった。例えば、理系では立体を作る展開図はどれかなどは勉強していればすぐに解けて次に移れるが、いろいろいじくると時間を食い、持ち時間が無くなってくる。忘れたが、文系でも勉強をしていれば解ける問題が結構あった。はっきりいうが、周りの連中を見ても顔色は誰もあまりよくない。
 数日後に結果が各生徒に知らされた。学校と個人だけで公表はされない。僕は100点満点で54点だった。他人が気になって聞いてみるのだが、あまりよくないよ、というのが多数であった。数字で表れたのは50点台だった。そのうちうわさが流れてきた。78点を取ったやつがいる。誰だ?細見(淳君)だ。どうも彼が全校で1番のようだ、というものだった。
 僕の54点の内訳ははっきり覚えていないが、文系より理系の方が4、5点多かったようだ。これもショックだった。文系を受けようとしていたから。あとで触れるが、受験校を決めるキーにもなった。
 この進学適性検査は大学や識者にも評判悪く、翌昭和27年度、つまり1年後のテストを終えて廃止された。

僕一人地獄?の大学入試初受験
 昭和27年1月になると志望校の最終決定の時期に入った。僕以外の皆はスベリ止めと称して本命校のほかに国立大の2期校や有名私立校など数校受験をほぼ決めていた。僕の場合、家計のパニック状態から国立大学1校分の受験料500円をねん出するのがやっとで、どの一校に絞るか日夜悩む日が続いた。戸山高校の後半から、不遜にも東京大学の文一(文科1類、進学先はほぼ法学部か経済学部)か理一(理科一類、進学先はほぼ理学部か工学部)だったが、進学適性検査の結果が前途を阻んだ。
 東大志望の連中に“進適50点台の前半では足切りにあって本番の入学試験が受けられない”といううわさが流れた。つまり、志望しても門前払いになる、ということだ。これは僕にとって厳しい話だ。虎の子の500円が場合によってはすっ飛んでしまう。試験を受けずに1年間棒に振って浪人生活を送ることになるからだ。考えた挙句、東大を断念することにした。
 さて、それではどの大学を受験すればいいのか。東大以外の1期校となると文系が一橋大学、理系だと東工大となる。よく僕に付き合ってくれたM君は東北大学を選択したが、僕は東京以外の土地で下宿生活を送る余裕がない。
いろいろ考えた末に進適の結果を尊重して理系の東工大を選んだ。
 東工大は伴野矩文君や山田良治君、中村義雄君、中山昌久君らが狙っていた。僕は心持ちやや舐めてかかっていたきらいがあったようだ。ところがとんでもない。特に専門であるべき数学と理科は歯が立たない。いま覚えているのは物理でパチンコの力学の問題が出て圧倒され1問も解けなかった。理系の大学では優しい問題が出ると思っていた国語の古文(源平の軍記物だったか)は解けなかった。山田良治君が物理の問題を解説してくれたが、理解にいまいちだった。伴野君は当時の週刊朝日に連載されていた吉川英治の新平家物語を読んでいたので助かったとたしか言っていた。彼は合格。中村君は東京教育大など3校に合格したと羨ましいことを言っていたが、結局、東工大を選んだようである。
 僕は当然?桜散る(不合格)だった。月並みに悔しい気持ちはあったが、もともと本命ではないので、それほどショックではなかった。ただ、あんな問題ができずに落ちてしまったことをふがいないと思ったし、1校しか受けられない貧乏を恨んだ。“皆は天国に行け、おれ一人地獄に行く”の初入試の体験だった。