終戦直後の風雪に耐えた名門校

                             昭和27 森 拓三

第八章 三年に及んだ浪人生活


続々届く友人たちの朗報
 借家住まいの家にいても詰まらないので日曜と祝日を除いて毎日学校には行った。掛け持ち受験の者が結構いて私大受験の2月から東大など一期校の受験が終わる3月上旬まで教室は歯が抜けた状態が続いていた。登校する度にどの大学に受かったなど吉報が相次いで聞かれた。勿論、入試に落ちた者もいるが、良い知らせの方が圧倒的に多かった。
 いま頭に残っている数字で正確ではないが、受験と合格発表の早い私大の主なものでは早稲田大学に合格したのは188人(正しくは188件かも知れない)という数字が去来する。勿論1人でいくつかの学部を受けていたり、国公立大との併願があるので実質早稲田大学に進学したのはずーっと減っている。慶応大学は四十数名、中央大学が二十数名という記憶がある。
 一方、合格発表の遅い東大には初年度、つまり現役では23、4名だったのではないかと思う。東大には、その後、一浪、二浪などを含めて、僕らの同じ学年で64名前後の者が合格していると思う。クラブ活動で一緒だった黒河内康君は東大文一と二期校の東京外大英米科に合格し東大を選んだと聞いた。また内田洲治君も東大理一に受かった。G組のクラスメートでは別府輝彦君や乙黒靖男君、村上龍雄君も東大の理科に入ったし、模試トップもマークした関弘君も東大理一に合格している。同じ国立でも一橋大や受験した東工大の合格者数は申し訳ないが、いまの頭に残っていない。
 僕だけ取り残された気分でいる中で嬉しかったことがある。たしか中学1年から高校1年まで4年間同じクラスだった久保顕夫君から東大の理一に合格したことを知らせる葉書をもらったことだ。また、文面には“・・・君には悪いけど、うれしいよ”と素直に書いてくれたことが励みになった。
 葉書と言えば、ある受験予備校(校名は忘れた)から合格者宛ての葉書を受け取ったことだ。“幾多の辛酸をなめ・・・”という冒頭の書き出しがいまでも忘れられない。
 一方、親父からは文句を言われた。本家?の森の系統で2人が東大理一に合格した。それで“お前は本家の面汚し”と言われた。黙って聞いていたが、次は頑張らないと何を言われるか分からない、と頭の片隅にしまい込んだ。

アルバイト先で得た教訓
 友だちの多くが大学生活や浪人生活を送り始めたが僕はやや遅れて5月1日からサラリーマン?生活を始めた。兄に代わって復員局で戦争で亡くなった方の遺族に対する資格審査をする仕事で、このことはほぼ毎日、野方の家から中野まで歩いて出勤したこと、月給5400円、3カ月でやめて母校の補習科に潜り込まれたことなどは柴田先生についての項目で書かせていただいた。
 ここでは市ヶ谷(復員局)での仕事についてもう少し触れてみたい。
 僕の所属は審査第三課といい、課長の下に課長補佐が四人いた。これら五人の人たちは軍人さんで佐官級だった。それ以下にはほとんど縁故だったが一般の人たちで、サラリーマン風の人あり、司法試験を狙っている人あり、良家の子女や結婚を控えた女性など千差万別だった。その中に夜学の大学に通っている学生も結構いた。早稲田大学(第二?学部)に通っている中島さんや法政大学に通っている板倉さんはいまでも覚えている。特に中島さんは正樹さんと言われたと思うが、戸山の同級生・中島秀樹君のお兄さんと分かり、よく話など相手していただいた。要するに係長以下は文民であった。
 僕は小原元少佐の課長補佐のお眼鏡にかなったようで、その配下の高橋係長(お名前は失念)が統率する第一係に配属された。戸山高校の前身が四中だと知っておられて買っていただいたそうだが、ここにも名門の影響があった。 
 この第1係は中国と四国、九州の3地区の担当で、戦没者や戦没者の遺族かどうか、年金弔慰金を受ける資格があるかどうか調べる部署だった。そのため、民法の身分法の勉強が第一の課題だった。半月ぐらいたって各県から遺族に関する資料が届き始めた。僕はどういうわけか、広島を重点に見る係となった。とにかくくる資料もくる資料も不備だらけ。高橋係長に言って広島県に何度か突き返した。18歳になったばかりでくそ真面目が災いした。ほどなく地元広島県からクレームがついた。“そんなこと言われても広島は原爆で資料はほとんど焼失している。これ以上は収集できない”というものだった。受験失敗もあって近視眼的になっていたことにその時ハッと気付いた。30歳になったばかりの人だろうか、横森さんという物知りがいた。彼から老荘(ご存じ中国の思想家老子と荘子)思想(性悪説とも)の一つだという「白馬非馬(白馬は馬にあらず)論」というのを教わった。
 上司の小原元少佐は首都防衛軍の高射砲班におられたという。戦いが押し詰まって敵機が来るにまかせるようになって高射砲の弾が当たらないという風評が流れた。そこである時、小原元少佐に“いくら高射砲を打っても外れてB29に当たらなかったそうですね”と尋ねた。少佐は温厚な方だったが少し気色ばまれて「そんなことはないよ。敵機との角度、とその速さ、方向をセットすれば三角法でちゃんと当たるんだよ」とはっきり言われた。僕はいい加減に質問してはいけないな、と反省した次第である。
 こんなこともあった。運動不足というので、お昼休みは中庭にあったバレーボールのコートで班ごとの試合をした。あるとき前衛の右にいてジャンプ、そしてアタックして降りたところ急所に電気が走った。ズボンのポケットに手をいれるとヌルヌルしている。手を出すと、手先が真っ赤に染まっている。早速、診療所に行って手当てをしてもらった。ジャンプした拍子に毛が包茎の表皮を切ってしまい出血したらしい。男のモノを看護師(昔は看護婦さんだった)がガーゼで包み始めたとき、僕は“出るものが出るようにして下さい”と言ってしまった。と3人いた看護師が突然笑い出した。僕はお小水が出るようにと言ったつもりがどうも誤解されたらしい。それはともかく、僕は、ある宗教の、いわゆる割礼を市ヶ谷で受け、「男」になった。
 しかし職場になじんでくるにつれて逆にこれでいいのかと思うようになった。中島さんや板倉さんを見ていてもやはり大学にはいかなければならない、という思いが募った。そして8月の中頃だったと思う。母親に復員局の仕事を辞めてもいいかと尋ねた。抵抗があるかと思ったが、母はやめていいよ、とあっさりと答えた。月5400円でも親父の仕送りも途絶えがち、大丈夫かとも思ったが、仕事を辞めることにした。そして、柴田先生に挨拶に伺ったところ4年生、補習科を紹介してくださったのである。

補習科初回の模試の順位も16番
 9月に入って初めて受ける補習科の授業は柴田先生の数学だった。僕は1分ほど先生よりあとに入室、後ろから入ったのだが、たちまち遅刻者は受ける資格はないよ、出ていきなさい、と言われた。僕は赤面しながら一番後ろの片隅の席で縮こまっていた。そのあと先生は何も言われず、それが救いだった。
 たしか10日ほど経って3年生恒例の模擬試験第一回目を迎えた。補習科の連中もこの試験に参加することになった。僕はアルバイト中、各科とも本格的な学習はしてこなかったし、当然、一夜漬けのにわか勉強をして試験に臨んだ。現役のころの気負いはなかったが、まあ、半分ほどはできたと思った。そして、成績上位の張り出しの日を迎えた。
 今度は、あきらめの気持ちから野次馬気分で張り出し表を見た。なんと僕の名前が出ているではないか。それも10番台。点数は忘れたが、よく見ると16番。何か思い当たる節がある。そうだよ、3年の時の初回模試の時も16番だった。その時、何か因縁というか運命的なものを感じた。しかし、生まれた日の3月14日はホワイトデーとかアインシュタインやバルトークが生まれた日、マルクスが亡くなった日(俗な話だが、“赤”になれない定め)など縁なもの奇なものはあるが、その後、身の回りで16という数字にはお目にかかったことはない。これから短い命の間にこの数字にお目にかかれるかどうか、吉か凶か、出会いを半ば期待したい。
 それはともかく16番という期待以上の成績だったが、この時、何を答えたか、これはということは一切記憶にない。自分のこと以外は、外事研究班(英語読書クラブ)に入会していた本吉邦夫君がトップだったことである。
 ただ、高を括った1年前とは気分は異なった。よーしやるぞ。という気持ちにはなっていた。ところが、親父からの仕送りがしばらく途絶えた。9月は僕の後半のサラリー(2700円)で何とか持たせたが、10月に入ってパニックに襲われた。お米も味噌も何もない。ほぼ2日間水だけで過ごした。でも、2日とも補習科の授業には通った。しかし、あの恵比寿駅の東側にある緩やかな坂道がそろそろと休み休みしか行き来できない。家に帰っても布団にもぐりこんで体から熱が逃げないようにした。もう半日何か食べなければ死ぬな、と思った時、親父から500円の電報為替が届いた。やっと命は救われた。だが勉強しようという思いは出鼻をくじかれた。

遂に一家は・・・・
 二日近く絶食状態が続いて間もなく母から東京から郷里に引き上げると聞かされた。遂に来たるべきものが来た。都落ちである。“兄(にい)ちゃんはどうするの”という問いに母は卒業まで東京に残るそうだという返事だった。もともと都落ちの話は兄も絡んでの話のようだった。“僕はどうなるんだ”と兄に聞いたところ、“俺と一緒に潜(もぐ)ればいい”という。“潜り?”。聞くと、表向きは宿泊者名は届けられないが、実際には寝場所に泊まることをいうそうだ。
 兄はかなり前から母を帰すため動いていたらしい。その点は、終戦直後のストラディバリウスのバイオリンの時といい、行きずりのオーストラリアの兵隊と仲良くなったケースといい、兄は何かしらの力を持っていた。しかし、お金も乏しい中でどうするか、知恵を絞ったり、関係筋に働きかけたりするのにやはり時間がかかったのだろう。それが10月の10日前後にようやく具体化したらしい。
 兄の話によると、東京学生会館の宿泊施設、つまり学生寮の宿泊資格を得たのでそこに泊まる。“お前はそこに俺と一緒に泊まる、お前は正規でないから潜る”、そういう説明だった。
 母については、三重県の郷里に先に帰り、宇治山田市(昭和30年に伊勢市と改名)にある母の兄嫁、僕の伯父・斎藤忠の妻の実家、川口家の家作に住み始めた。ここでは、実母、斎藤よしと養女に行った僕の姉が住んでいた。斎藤よしは幼少の僕らを大連で育てくれた祖母で、たしか80前後だったと思う。兄嫁の実家は宇治山田で大きな材木店を営んでいて、敷地内に家作も貸長屋や一戸建てなど10軒ほどはあった。その一軒の2階建ての家を借り、親父と祖母、それに姉も一緒に暮らすことになった。

ご存じ?学生寮は宮城(千代田の森)のうち
 母親が東京を離れたその日から兄と僕は東京学生会館の学生寮に住まい始めた。兄は正規の宿泊者。僕は“潜り”で。実はこの学生寮は宮城、広い意味での皇居内にあった。元近衛師団の建物(後註・今の日本武道館が建てられた場所)が利用されていたからである。あの二・二六事件の写真や映像に見られる茶色系のいかめしい三階?建ての建造物の一部か大部分が学生の宿泊施設に姿を変えたのである。東京の学生会館はその後、東京・新宿区の西武新宿線の下落合駅前に移ったが、それまで何年かは皇居の一部が東京の大学生の宿に提供された。これも戦後の民主化のお蔭?と言えるのではないか。
 学生寮は元近衛師団で使われていた事務室をベニヤ板?で仕切ったもののようだった。一つの事務室からは多分4部屋取れていたと思う。すでに触れたように、旧近衛師団の建物全部が学生寮に当てがわれたわけではないが、学生の宿泊用のにわか仕切りの部屋が5、60はあったのではないか。
 それを時流の「民主主義」的に東京都内の主な男子系の大学に平等に配分された。兄の属する東大をはじめ官学では一橋大学や東京工業大学、東京教育大学など。私学では早稲田、慶応、明治などの東京五大学に歴史の古い日本大学や拓殖大学まで数多くの大学の部屋が並んでいた。ただ、専門学校から昇格した新制大学の二期校などは名前の記憶がない。
 平等主義のため一つの大学は二部屋どまり、一部屋は両側に二段ベッドが二つずつで合計8人が定員だった。真ん中のスペースに学習机が4脚あったように思う。トイレや洗面所はもちろん部屋にはなく、部屋の外に出て用を足さねばならなかった。
 東大に割り当てられた二部屋のうち、兄は一部屋の住人となった。昭和二七年にもなると住宅事情はいくらか緩んできてお金を出しさえすれば確保できたが、貧乏書生にとっては依然きつい状況が続いていた。だから、たまたま空きがあって入れた兄はラッキーであった。しかし、僕はもともと資格がない幽霊人口だ。まさか、兄と毎晩抱き合って寝るわけにもいかない。

同室者の全面理解で“潜り”に
 兄があらかじめ手当てしてくれていたようで、初日、僕が補習科を終えて部屋に着いたときは、居られた同室や隣室の方が快く迎えてくれた。誰かが“君は四中か、頑張れよ”と言ってくださった。やはりここでも四中の看板が効いていた。
 兎に角、同居者の理解、それも全面理解がなければ“潜り”は成立しない。大げさだが、それは裏に暗黙の了解があってのこと。僕を常時泊めるため宿泊者の1人が一晩外泊を含めて抜ける。兄を含めての回しである。隣の部屋でも外泊者が出たときはその空きも使う。その結果、僕だけはベッドがドアの左手2階(段)に固定してもらえた。“受験勉強中”というのをみんなが大切にしてくれたからだ。
 こうした寝床の回し、机上の理論であるが、実際うまくいくかどうか。それが結構うまく回り始めたのである。というのはやはり都内に知り合いや親せきがいて食事に行ったついでに泊まったり、彼女とデートに出かけたり。実はあとのケースが結構多かった。相手は都内の女子大生がほとんど、東大生はやはりモテルということを如実に示していた。年頃の僕もやはり東大に入らねば・・・と思った。

多彩な同室者の方々
 東大と言っても所属する学部はバライエティに富んでいた。右の窓際一階のベッドの主、西山治氏は法学部で、兄とは旧制東京高校の出身で、今回兄の入寮について尽力してくださった方だ。その上の2階のベッドが文学部の白鳥邦夫氏。若き詩人を名乗り、よく詩を口ずさんでおられた。部屋の同僚からは“くんちゃん、くんちゃん”と呼ばれていた。のちに秋田県立能代高校の教職に就かれたと聞いた。
 僕の潜りのベッドの隣、左の窓際2階のベッドが理学部の原田氏、お名前は忘れて申し訳ないが、拓ちゃん、拓ちゃんといってよく話し相手になっていただいた。たしか天文学科といわれた。よくデートをされた方である。青二才の僕は生意気にも“勉強はしなくてもいいんですか”と聞いたことがある。その答えがフルっていた。“勉強?空を眺めて星座を覚えりゃそれだけよ”。当時は天体を探求するにも今のような最新鋭で超高度の望遠鏡などはとても存在しえなかった。それに原田氏自身、大学の勉強はしれたものという悟りがあったようだ。それなら、というわけでもないだろうが、彼女とデート三昧に徹したのかもしれない。
 同室には住職のご子息で力武さんという方がおられた。部屋の入口の右側、1階か2階かは忘れたが、そのベッドの主で、文学部のインド哲学科所属だった。一見いかめしい顔をされていたが、口は優しかった。ある時、床屋でポマードをつけすぎて髪がぴったり頭についてしまった。部屋を入ったところ、僕の頭を見た力武さんは“髪を下したの”と手でそる真似をされた。すぐ、間違いに気付いたようで、何も言われなかったが、お坊さんらしく僕が決意新たに坊主頭になったと一時は思われたらしい。その後の僕の迷走を思うとやはり決意が不足していたと思えてくる。
 東大の隣室には川上さんという方がおられた。明治学院高校を出られて法学部か文学部に入られた。痩せ顔で眼鏡をかけておられた川上さんは、よく僕に話しかけてくれたり、学生寮の地理を教えてくれたりした。僕は潜りなので寮の食堂に食べに行くのをためらっていると“遠慮しなくていいよ”と言って食堂に連れて行ってくれた。英語など2、3教えていただいたこともあったように思う。親切な方だった。

仮住まい千代田区一番町界隈
 今思うとなんと大変なところ(千代田の森)に一時的にしろ生活をしたものだと思うが、当時は畏れ多いという感情はたしかに持っていなかった。サンフランシスコ平和条約が締結されたあとアメリカ式民主主義がますます浸透し、昔のような上下の差別感はしだいに薄れてきていた。
 口幅ったい言い方なら、皇室と一般大衆との間に平準化が進んでいたというべきだろうが、実際には同居人?皇室のことは頭にはほとんどなかった。あるとすれば皇太子が昭和8年12月生まれで僕らと同学年、終戦直前に僕と同じ学童集団疎開で浜松や日光を転々とされ同じ苦しみを体験されていることへの共感はあったようだ。しかし、その程度のものだった。
 それに平日は補習科のある母校と元近衛師団の学生寮を行き来するだけで、隣人のことを考える余裕などさらさらない。目の前のニンジン(大学受験と合格)しか気になることはなかった。だから東京に居たといってもごくごく狭い範囲しか記憶にない。
その中で一番鮮明に残っているのは「田安門」で、その雄大なスケールは今でも目に浮かぶ。だが、大手を振って潜った覚えはなく、脇のくぐり戸を通ったことしか記憶がない。だから特別な場合は開くが、ほぼ常時閉まっていたような気もする。
 現在の首都・東京は縦横無尽に地下鉄が走っているが、当時あった地下鉄は渋谷と浅草を結ぶ銀座線だけで、池袋と東京駅経由で荻窪を結ぶ丸ノ内線が計画され、ものの情報によると1年前の昭和26年に池袋で起工式が行われたばかり。首都第2の地下鉄の利用はまだまだ先(2年後=昭和29年に池袋−御茶ノ水開通)のことだった。だから、当時の交通機関は『国電』(戦後間もなく鉄道省の廃止か分離で国鉄が誕生。『省線』の呼び名はこんな名前に)と都電、郊外の私鉄電車、それにいくつかの(乗合)バスが主な都民の足だった。自家用車やタクシーもあったが、庶民には高嶺の花だった。
 今の日本武道館をご存じの方なら、学生会館の寮から最短距離にある交通拠点は「九段下」だとお分かりいただけると思う。すでに触れたように、現在は東京メトロの地下鉄東西線、半蔵門線、それに都営地下鉄の3つの線が通って非常に便利だが、昭和27年の暮れの時点では地下鉄などありえず、九段下を通るのは都電11号線のみだった。あの新宿駅前と岩本町を結ぶ幹線電車だった。また、少し離れているが、国電の駅があった。市ヶ谷駅と飯田橋駅だ。僕は兄からもらう僅かな小遣いしかないので、できる限り安上がりの方策を考えた。当時の都電の定期は安かったが、学校の補習科に通うにはもう一つ、新宿と高田馬場の交通費が必要だ。そこで、市ヶ谷と高田馬場の定期を買い、市ヶ谷と学生会館の寮の間を歩くことにした。より近い飯田橋駅まで伸ばすとそれだけ、定期代が高くなるから市ヶ谷駅止まりにした。それに、市ヶ谷は高校を卒業して復員局にアルバイトをしたときの馴染みの駅でもある。こうしてしばらくは母校との“潜り”の生活を続けられることができた。

学生会館での見聞や思い出
 戸山高と仮住まいを往復する単調な行動に殺風景な寮の存在だったが、息抜きになる話もあった。寮生の中に私立T大学の入居者はいつも黒の羽織袴に同じ黒で油のにじんだ座布団帽をかぶっていた。夜ともなると、安い(質の悪い?)酒を飲んで大声でおだを上げ、手に木刀を持って寮の廊下じゅうを徘徊していた。
 11月を過ぎ、12月になると寮生活は寒さが堪える。トイレに行くのも大儀だ。頭のいい学生はビールか酒を飲んだあとの瓶に小水を入れて間に合わせるようになった。
ある時、T大学のバンカラがある国立大の部屋の入口前に並んでいたビール瓶を目にとめた。液体が入っている。これはシメタと思ったのだろう、瓶を持ち上げ飲みだした。ところが酔っていても飲んべーには区別ができる。途端に吐き出した。それからが大荒れだった、という。
 この時、僕はまだ外出中で事件に遭遇していなかった。理学部の原田さんから聞いた話だ。原田さんの話によると、2人の酔漢は怒り狂って国立大生の部屋のドアを開け、“瓶を並べたのは誰だ?”と大声で怒鳴る。“僕です”といった学生の頬っぺたをいきなり張る仕儀に出た。しかし、酔っていたのでたちまちほかの同室生に抑えられ、室外に追い出されてしまった、これが目撃者・原田さんの証言だった。この小事件はティーンエイジ後半の目には昭和27年当時のあわれな学生生活の一端がうかがえ、ペーソスの中に何かユーモラスさが滲み出ていてほぼ60年経過したいまも僕の頭からなかなか離れない。

素晴らしい味!構内特設夜店のラーメン
 もう一つ、学生会館の学生寮で忘れられないものがある。それは建物の空き地の一角に毎日店開きをする臨時のラーメン屋さんだ。昼は水道の蛇口と壊れかけた洗い場がある殺風景なところだが、辺りが暗くなるころきまって夫婦で現れ開店する。旦那は初老とも思えたが、終戦直後の苦労で実年より老けて見える人が多かったので、あるいは年の頃50前後だったかもしれない。連れあいは5歳ほど若く見えた。顔は思い出せないが、品のいいつつましやかな方だった。
 ある夜、隣の寮生の川上さんが“腹ごしらえに行こう”と誘ってくれた。それでラーメン屋を知ったのだが、その後、日中でもやってないか、行ったところ店はない。それで夜だけ開設する臨時のラーメン屋と知った。今様にいう屋台などではなかったように思う。
 ところでこの店が提供するラーメンが実に美味かったのだ。一杯30円で当時の学生や受験生にとっては決して安くはないが、当時の通り相場よりやや安めだったかもしれない。
 器はいまもよく使われている赤い円形の線が入ったものが使われていた。中身は、いまよりやや少ない中華めんに鳴門巻の一切れ、チャーシューの代りに薄いハム(今のものほど立派でない)、それにラーメンの命といわれるスープだった。当時、相変わらず欠食人間だったからかもしれないが、このスープが抜群にうまかった。口に合ったというか、あの感激した感触はそれ以後味わったことがない、といってもいい。それでは何かそうさせたのか。違いがあるとすれば、店の主のたった一つのしぐさが思いつく。彼はラーメンを客に差し出す前に必ず味の素の缶を取り出す。例の戦前からあった赤色のよく知れた代物だ。その缶の蓋を開け、なかの白い粉を耳かきの3倍ほどの匙で掬ってスープの中に入れていた。家で仕込んだスープも、とも思うが、大量に作るものは残ればやがて捨てなければならないし、それほど手をかけるわけにもいかない。そうなるとラーメン屋の隠し味はあの“白い粉”に落ち着く。それが味の素とすればまだ物不足の時代、何処から仕入れたか、聞きたいところだが、当時の僕は浅学菲才、頭の中は受験という範囲の狭いことだけ。生活に必要なことは眼中になく大きな穴の開いた網からポロポロ落ちていた。
 でも動物的感覚で中年の夫婦が醸し出したあのラーメンの、素晴らしい味覚は終生忘れることはできない。

新しい学生活動?セツルメントの動き
 僕は復員局のアルバイトのあと母校の補習科通いで、いわゆる外界との接触はほとんどなかった。大学受験に成功した同級生の動静も、久保顕夫君の“…嬉しいよ”という葉書をいただいた以外は直接接触する機会はなかった。補習科でも浮世話は“あさって”のものだったが、それでも僅かに漏れてくる話はあった。
 その中で聞こえてきたのは東大にセツルメントができたという話だった。何か海外で始まった貧者救済の学生活動をするというのである。貧乏人の僕は特に目を引かれた。進歩派というか、共産党の気(け)がかかっていると思ったが、あとで知ったところでは日本共産党が地域人民闘争の一環として全国学生セツルメント連合を立ち上げ、東大はその一ブランチだった。当時、僕は学生の社会活動で、そこで法律相談をすると聞いたのが最初だった。え?貧者の救済に法律相談、とやや違和感を感じたが、これものちのちに分かって納得した。つまりセツルメント発祥の地はイギリスで、その有名大学の学生が貧民街のセツルメント(社会福祉施設)に入り込んで医療相談や法律相談、それに貧しい子供への教育活動をしたことから法律相談の立派なセツルメント活動ということになった。僕はあの中学2年のころ新宿・百人町での細胞立ち上げの嫌な思いがあるので、共産党の一種の工作と聞いて落胆したが、このセツルメントの活動がいろいろな学生のサークル活動を生み出していたのも事実だった。
 晴れて大学に入学した同級生たちの中には社会に貢献するサークル活動に積極的に参加するものも多かった。
 そうした中で起こったのがあの惨劇だ。手塚直樹君が巻き込まれた箱根早雲山地すべり事故。僕の記憶ではサークル活動として手塚君が施設の子供たちを連れていったときに事故に遭遇した。14人と頭にあるが、多数の子供たちを中心に多数の死傷者を出した。手塚君は足(あるいは両足)を切断する重傷を負ったが、一命をとりとめたのはせめてもの幸いだった。

同級生はサークル活動
 手塚君以外にも別のサークル活動する友達がいた。たしか中学3年の時に一緒だった原亨君や亡くなった勝俣信郎君、佐藤賎夫君らは東京女子大や女子専門学校の女子学生とともに施設の慰問活動をしていた。脇道にそれるが、中学3年当時、原君のお母さんが原町の学校を訪ねてこられた。その直後の時間がブルサギ、藤村先生の英語の時間。遠慮そっちのけのブルサギ氏は授業ののっけから“原君”で始まった。すかさず続けて“君のお母さんは美人だな”。これには教室内にあちこちで薄笑いが起こった。僕も原君と一緒に原町校舎のアーケードに立っている女性を見た。僕もブルサギに言われてあの女の人と直感した。原君も一瞬顔をそむけたので間違いない。面長でつつましやかでたしかに美形とおぼろげながら目に浮かぶ。原君は怒るかもしれないが、彼のマスクは2枚目はだしだ。
 この原君のグループには補習科で仲良かった、いや仲良くしてもらった村岡茂生君が時折接触していた。その村岡君が僕の浪人一年目の最終段階で助けの手を差し伸べてくれた。

“音楽でメシが食えるか”の一喝で芸大断念
 とにかく浪人1年目、受験2年目には是非東大の文一(文科一類=当時は法経中心)に入りたいという願いが強く、その目標で勉強を続けていた。夏を過ぎたころ、1年先輩の音楽班仲間だった鞍掛昭二さんから東京芸術大学に昭和28年の新学期からが楽理科が設けられるという。芸大の音楽学部は声楽家であってもピアノが必修科目で、僕みたいなハーモニカとものにならなかったバイオリンでしか器楽の経験がないものには門前払いだった。それがピアノはない、学科の成績だけでいい、というのだ。これには僕の心に眠っていた夢が再び目覚めた。鞍掛さんは“一緒に受けよう”と誘ってくれた。そう、学力だけだったらなんとか行ける、と早速、電話で親父に相談した。
 ところが帰ってきた返事が冒頭の“バカヤロー、音楽でメシが食えるか”の一喝返事だった。そして、芸大を受けるなら受験料(500円)は一切出してやらない、といわれた。その強腰に音楽の道を行くという夢はたちまち砕けてしまった。鞍掛さんに早速お詫びをしたが、鞍掛さんは見事合格、音楽の教鞭をとられ、日本福祉大学のたしか名誉教授になられている。
 ちなみに当時の倍率はおよそ2倍だったが、希望者がウナギのぼりに増え、昭和50年代の記憶では36倍、全国でも最難関の学科になっている。
 僕は、浪人当初の予定どおり文一を目指し準備を進めていた。ところが昭和28年の正月を超えたころから困ったことが起きた。学生会館の学生寮で続けていた潜りの生活が限界に来たのである。そろそろ学生が最後の学期を迎えてそうは外泊は出来なくなったのである。僕は覚悟を決めた。

深い友情と温かい思いやり
 東京での生活を打ち切り、三重県の親元に引き上げ、そこで勉強する。僕はこれを村岡君に話した。村岡君からはすぐ反応が返ってきた。“いまは一番重要な時期だ。そんなことをしたらダメになる。ちょっと待てよ”という話だった。
 数日後、村岡君は僕の前にお金を置いて、“いろいろ要るだろうから。みんなからカンパしたものだ。使えよ”と言ってくれた。しめて4,300円余りあった。当時の金としては大金だ。聞くところによると、村岡君は“森が困っているから援助しよう”と同級生十数人に呼びかけて集めてくれそうだ。
 手持ちの金が枯渇しかかっていたので、ありがたく頂くことにしたが、彼も一浪の身、よく僕のことまで考えてくれたと涙が出た。
 昭和53年の暮れに同級生の石川正久君がクラブを開いたときに、そこで約30年後初めて会った安仁屋政彦君の初発声は“君が困っているというのでカンパしたよ”だった。僕はすぐに“あの時は本当にありがとうございました”とお礼を伝えた。どなたから、また、いくらいただいたか分からなかった不明な部分が分かりかけてきてよかったが、その後は、名乗ってくれた人はない。一時、村岡君が自腹を切ったのかと思わなくもなかったが、カンパしてくれたご足労も改めて分かり、ますます頭が下がる思いだった。
 さらに村岡君は親元に引き上げるのを止めてくれた。“いまが一番大切な時期、東京を離れたら絶対いけないよ”と言ってくれた。“よし、僕が頼んでみよう”と受験が終わる時までの寄宿先を決めてくれた。お世話になったのは町井俊一君のお宅だった。西武新宿線を挟んでかつて借家住まいをしていた野方駅の北側の将官家とは反対側の駅南の商店街が切れたところにあった。町井君とは確か高校2年の時にF組で一緒だったが、当時はあまりお付き合いはなかった。ただ、セツルメントのくだりで触れた原亨君や佐藤賎夫君、勝俣信郎君らのサークル活動の集いの場所に時々なっていて村岡君も時折顔を出して町井家とはなじみになっていたとのことだった。
 町井家はご両親と僕らと同じ四中のご出身で東大法学部学生のお兄さんと2人の弟さんがおられた。特に末の弟さんが高校受験を控えていた。そんな時期によく僕を迎えてくれたと思うが、町井家の朗らかな雰囲気と人助けをする思いやりがすんなり僕を受け入れてくださった。
 お父さんは元学校の先生だったが、保険の代理店を自宅でされていたが、午後はほとんど外交の仕事、でも豪快で明るく、帰宅すると、新潟弁というか長岡弁で人を笑い飛ばす冗談を度々話されていた。家庭の明るさはお父さんが醸し出されたようだ。また、町井家ではきちんとした「しきたり」があった。それはご商売に関係していると思われるが、来客があれば必ず在宅の家族が出て、玄関の板の間に正座し、迎えることだった。無粋で挨拶などお構いなしだった僕は“ハッ”とし、教えられた。
 お母さんはよく話をされる方で、これはと思う話題になると、“イヤ、ハー”という接頭辞がついて一気にしゃべられたが、全く退屈しない話術を持っておられた。主の留守中、大半の電話の代行をよくこなされていた。
 お兄さんは東大法学部在籍で将来は法曹界を目指されるということで、一見堅物のように見えそうだが、どうしてどうしてにこやかな表情で時々冗談を言っては笑わせておられた。お父さんの仕事の代行もお母さんともどもされておられた。
 町井(俊一)君とは囲炉裏を囲んで受験勉強をした。彼は頭がいいというか記憶力が抜群で、よく世界史の事項などを空で教わった。2人の弟さんもよく相手をして下さり、いま思うと逆に気を使っていただいたと申し訳ない気持ちもある。
 町井家にお世話になった2か月ほどの間にいろいろと初めての体験をさせていただいた。
 先ず、お米のご飯に牛乳をかけて食べること。僕は躊躇したが、“おいしいよ”といわれて口にした。それが予想外にうまい。バターをご飯に乗せたり、お味噌汁をご飯にかけて食べてはいたが、新たに牛乳をかけて食べるという食事方法が新たに加わった。
自転車に乗れるようになったのも町井家にお世話になっている時だった。2人の弟さんが近くの中野区立4中のグラウンドに連れて行っていただいて練習をした。荷物台を支えてもらい僕が跨いでサドルに腰掛けペダルを踏む、2、3回繰り返すうちに進むようになった。ペダルに左足を載せて乗ることはいまもできないが、十分に役に立つ。これも町井家にお世話になったおかげである。
 こうした町井家での恵まれた環境で勉強しながらこの年の受験に失敗した。数学が全滅して終わったことはすでに触れたが、国語力もお粗末だった。いまも頭に残る国語の問題がある。それは昭和28年、朝日新聞の正月元日号の冒頭1面を飾った三好達治氏の頌詩である。“憐れむべし、我が糊口にけがれたれば、一盞(いっさん)は我が腸(はらわた)に注ぐべし・・・”というくだりだった。その糊口とか一盞の意味を問うたり、60字か120字でまとめの短文を書くものだった。学生会館で新聞も読んだこともなかったので初対面だったが、あとで新聞の冒頭の詩と聞いて、しばし絶句、前年初入試の東工大の連載「新平家物語」の出題といい、世間の時流に疎いわが身を嘆かざるを得なかった。
 それにしても受験に失敗した現実。支えてくれた町井家の人々や村岡君、資金カンパをしてくれた皆さんになんといって詫びればいいか今もって言葉もない。
 町井家にはそのあと2回お世話になるが、本当にいいご家庭にお会いできた。時代が経って仕事で仙台にいたころ、お母さんがある団体のツアーで松島に来られた。団体では予定にないというので、小舟での“松島めぐり”にお誘いし、短い時間くつろいでいただいた。しかし、いまもって町井家には何もなしえないでいる。申し訳ない。

都落ちの二浪生活は神宮のお膝元で
 東大の受験が終わってまもなく合否の結果は兄に託して都を離れた。宇治山田市に住む親の元に行くためだった。余裕がないので東京駅から国鉄の鈍行に乗り名古屋、亀山経由参宮線の終着駅宇治山田に着いた。宇治山田では母の兄嫁の実家があり、老舗の材木店をその伯母の弟が経営しており、10軒近い家作があった。その一つに僕の両親と僕らを大連で育てた母方の祖母、それに伯父(母の兄)の元に養女に行った姉の4人が一つ屋根で過ごすことになった。2階建てで、5部屋か6部屋あり、兼用だったが、1部屋が勉強部屋に当てがわれた。
 当時親父は四日市市にある小規模の石油販売会社に職を得ていたが、上海で鍛えた麻雀を思い出したのか、会社の同僚相手に手合いをしているらしく、時折、徹夜麻雀なのか帰ってこない時があった。
 大事というか腫れ物にさわるように避けられたせいなのか恵まれていたせいもあって、山田での生活はあまり覚えていない。ただ、家の近くに外宮(豊受大神宮=伊勢神宮に祭られている神々の料理を作る神様とか)に二度ほど姉などとお参りした。ただ、宇治山田の中心から約1里=4キロメートル離れた伊勢神宮には二浪のショックで姉には怒鳴ったり、喧嘩をしたり、悪いことばかりが甦ってくる。
 ただ、はっきり覚えていることは、ひと冬火鉢一つで過ごせるほど温暖な気候だったことである。その山田も明けて間もなく離れることになった。親父の通勤に不便だということと、四日市に空き家が見つかったというのがその理由だった。結局、宇治山田在住は約8か月、ひとり寂しく受験勉強に明け暮れた。その受験関係では、確か最後となった進学適性検査(進適)の手続きをとりあえず津の三重県教育庁で済ませてきてくれたという記憶がある。
 ただし、実際に進適が行われたかどうかは定かではない。というのは、東大の受験は理一(理科一類)に願書を出したが、志望者が多くて足切りをするため英語と数学の1次試験を受けた記憶があるからである。

四日市入りは三浪決定後に
 四日市に移転するといっても受験シーズンが始まっていた。村岡君に電話で相談、やはり早めに上京した方がいい、ということで、再び町井家にお世話になることになった。そのため、四日市は素通りして上京した。
 東京では1年前と変わらず家族と一緒にもてなしていただいた。たしか、早めの都入りだったのでどこかの3回目の最終模擬試験を受けた。いま思うと、国語の問題がひどく難しかった、という記憶がある。
 やや不安で立ち向かった受験だったが、1次試験は自分では全正解と自信を持ったが、2次試験はそんなたやすいものではなかった。隣の席に奈良から来ていた同姓の森という受験生がいて話を交わすほどになった。彼は数学の問題を終わって“一応答えました”と言い、合格電報の手続きに行くというのでそのまま別れた。今回は合格発表を見に行ったが、彼は合格、僕は掲示板に名前はなかった。6問の数学が僕は全滅だった。
 ほかに受験してるところもなく3浪が決まってしまった。今更アルバイトという考えにもならないばかりか意地で突っ張る気持ちが出てきた。町井家のご家族や村岡君に深く詫びるのが精いっぱい。でも戸山高校には離京の前に出かけた。3年G組の河辺(昌雄)先生がご病気で、僕の内申書や受験手続きの面倒は漢文の守屋禎次先生が見てくださっていたので、お礼と引き続きお願いを乞うためだった。守屋先生にその時お会いできなかった。たしか守屋先生はすでに他校へ移られることが決まっておられたことだった。
 不合格の掲示板を見て数日後に親元に向かった。北帰行ならぬ南帰行で、いろいろと不十分だったことが頭によぎりながらの旅だった。
 親父が借りた四日市市の家というのは、いまはない関西線の小さな駅・午起(うまおこし)駅のそばにあった。すぐ脇に国道(23号線、俗称お伊勢街道)が走っていたが、歩道がなく交通が激しくて出入りは極めて危険だった。それに家そのものはプレハブというと聞こえがいいが、全くのバラック。それでも畳敷きの部屋が2部屋と台所、ふろ場のスペースと便所はあった。ガラ〜ンとしてそれこそ殺風景だった。乗合バスも四日市市営と三重交通?が通っていたが、四日市市の中心部に行くにはちょっと時間がかかった。だからそのバラックの家で受験勉強をする羽目になった。僕も多少おかしくなったが、母がよりひどかった。ある時、自分の髪をバッサリ切っておかっぱスタイルになった。そこへほぼ毎日来る行商のおばさんが現れてびっくり、
“大丈夫ですか”といって、そこそこに立ち去った。
 お江戸を離れるときに“今度こそは”と誓ったが、午起の僕の生活は夜こそ寝勉強(寝ながら横を向いて本を読む)はしたものの、昼間はあの決意は何処へやらで、ごろごろしていた。
 5月か6月だったと思う、親父の姉婿、つまり伯父が午起の家にやってきた。あとさきになったが、仕事についてしばらく経ってから“お前そろそろ借りた金を返したら”といったあの人物である。伯父は僕に“拓三、東大ばっかり狙わないで、もう少し目標を下げたらどうだ”と説教した。僕は悔しかったが、その場は我慢をして何も反論しなかった。でもその後しばらくは伯父の話が頭にこびりついて気が落ち着かず勉強にならなかった。その数週間経ったころだと思う、近くで大事故が発生した。石油タンク火災である。
 家のずうっと東側は伊勢湾の海だが、その海岸沿いに大協石油という石油会社の精油所があった。かなり大きい工場で、僕がいたころ、世界で有数、東洋一の精油装置○○○フードリーフロー?が設置されているという評判だった。その大協石油で石油タンクの一つが大音響とともに爆発炎上した。事故発生は夕方ごろだったと思う。噂では石油火災を消し止める装置は近いところで名古屋付近にしかない、それもいろいろ準備して広い道を選んでくると翌日の午後2時ごろしか着かないということだった。兎に角、石油のタンク火災は間欠的に火が轟音と共に吹き出す。東京の三田に住んでいたころ、エビスビールの工場でタンク火災を経験しているし、あの時よりも遠いのでやや心のゆとりがあった。特殊消火車も予想より早く着いて昼過ぎには鎮火状態になったと記憶している。

四日市中心部に転居
 大協石油の大事故があってまもなく7月に入り四日市の中心部に建てられていた市営住宅の募集が始まった。当時は四日市といっても市役所や図書館それに近鉄四日市駅の商店街を少し離れると田んぼが広がっていた。その田んぼを宅地に転用して建てられていた。早速応募して運よく入居することができた。どうやら、大協石油のタンク火災が手助けしてくれたようであった。
 確か3DKの規模だったと思う。兄と妹が家族に加わって5人家族となったが、兄は名古屋の商工会議所に勤めていたので家に帰ったり帰らなかったり。だから市営住宅は午起と比べたら天国だった。それに市の中心部に近いことも利点だった。特に図書館で勉強できる、というのが僕には魅力だった。ただ、町名がない全くの新地。市役所の係りの人がいくつかの候補名を入居者に見せて回って結局、曙町という町名に落ち着いた。名前のごとく黎明の希望が湧く感じがするが、実は致命的な欠陥があった。それは南東にあるI産業の吐き出す煙がとんでもないことを引き起こした。“四日市ぜんそく”である。海からの南東の風に乗って曙住宅にもろに直撃する。僕も何となく甘っちょろい臭いのする空気を吸わされたが、あの曙住宅に長くいた親父は結局“四日市ぜんそく”に蝕まれてしまった。
 親父は兄の家にいたので川崎市で荼毘に付されたが、そこの職員が親父の骨を見て、この人は薬をやっていたなと、僕につぶやいた。僕がいろいろと飲んだはずだ、というといや普通の薬ではないよ、といわれてしまった。よく見ると、親父の骨にこげ茶色の筋がついている。これは麻薬の経験者の証しというのだ。そういえば親父は四日市ぜんそくの治療で麻薬のコデインを飲んでいたときたことがある。薬でも麻薬は麻薬、なるほど死んでも跡が残るものだと肝に銘じた。
 僕はほぼ毎日四日市の図書館に通った。親切な司書が居たたからだが、もう一つ悪い癖が出た。図書館に行くと、受験とは関係のない本を選ぶ。まず、守屋さんという方の「工学概論」とかマックス・プランクの「ザ・クォンタム・セオリー(量子力学論)」など。現に必要とするもの以外の本を借り出して辞書と首っ引きで不毛の労力を消耗した。全く受験勉強そっちのけの毎日だった。
 幸いなのか不幸なのか自分には親からもらった記憶力が人よりわずかにいいような気が。逆に欠点もあって、兎に角、一度覚えてしまうとおさらいをするのが億劫になる。変てこな才能である。そんな暮らしを続けて年を越した。

浪人生活にやっと決着つく
 明けて昭和30年に入ると、四日市市役所から15日の成人式への招待状が来た。迷ったが、気分転換で出席することにした。当日、式の余興でクイズの出し物があった。みんな名乗り出ないので僕が手を挙げた。まあそんな難しくはないだろうと甘い考えもあったが、どうしてどうして全問不正解だった。恥をかいたが、幸い馴染みがいなかったのでそれがせめてもの救いだった。ただ、控えている受験の直前で、いやな感じがしなくはなかった。
 今回は東大文科一類のほかに二期校の東京外国語大学と横浜国立大学の理系を受けた。2期校も受験は一校が原則だったが、受験日が違えば受けられた。東大は足切りのため1次試験があったが、これは通ったものの2次試験はまたも門を閉ざされた。やはり数学が駄目だった。
 いま記憶があるのは数学の4次式で面積を求める問題。これに時間がとられてほかの問題になかなか手が回らず時間は刻々と経つ。途中でそれをぶん投げてほかの問題に取り掛かって挽回を図ったが、あぶはち取らず、完敗だった。4次式の問題は2つの頂点がx軸の2?と4?に接するとあるからa(x−2)2(x−4)2でaを決めれば簡単だった。その読みができなかったのは、いなか暮らしの結果だったのか。いや、結局、問題を解く回数不足、身から出たさびだった。横浜が駄目。結局、東京外国語大学にやっと救ってもらえた。
 長かった浪人生活、お世話になった方にやっとお礼が曲りなりのもできるようになったが、この年、昭和30年の3月には平田巧校長が都立戸山高校を去られた時でもある。僕らが都立第四中学校に入学したその直前に来られてそれから10年ほど僕は四中、四高、戸山高とご一緒だったことを思うと、実に感無量である。

執筆後記
 この拙文を書くようになったのは2012年5月のとりあえず本記が稿了した日から1年8か月前にさかのぼる。当時、数人で日本の外交の勉強会を開いていた席に城北会の多賀副会長がたまたま加わられた。その席で私は多少大げさだったが、“戦後、四中は二度も廃校の憂き目に遭ったんだよ”といったところ、多賀さんから“そんなこと若い者は全く知らない。森さん、そのいきさつを書いてよ”という依頼があった。“イヤ、私より詳しい人がいるよ”と断ったが、かねてから同窓会名簿で平田校長在位の時代の城北会の記録が白紙になっているのを気にしていたので、“そのほかの四中時代の出来事も面白いものがあるよ。それを加えていいのなら・・・”と言って私の知れる範囲のことと、何時ボケるかもわからないので私自身の私ごとも加えてもいいという条件?を呑んでいただき書き始めた。その後、外交の集いも20回ほど数えて、この拙稿もようやく着地に近い状態になった。そして、集いの都度、黒河内康、庄内正文、原田佳明、玉谷邦博の各氏、それに多賀副会長に分稿をお渡しし助言の数々を頂いた。そのおかげで、この拙文も14万5000文字を突破した。
 申し遅れたが、当初から、この文章は私の頭の中にある、つまり記憶に残っているものをそのまま書くという方針を固く守らせてもらった。何故と言えば70歳の半ばでいちいち調べる体力がなかったためで、集いの方々も認めてくださった。だから、拙文のほとんどは基本的に文献の裏付けをしないで済ませてきた。ただ、これはと思う事象で、僕の記憶がお粗末すぎるものは補強せざるを得なかった。それは4、5か所あると思う。例えば戦後の道路交通法規や寿産院事件などは何らかの文献を参考にさせていただき文章化した。
 この拙文は個人の過去の記憶の断片に過ぎない。特に冒頭から私ごとに始まり、160ページを超す文面の半分ほどは学校とはあまり関係のない事柄を書いたように思う。
 しかし、その個人的な要素が多い、あるいは多分に多いといった記述でも敗戦に打ちひしがれた首都・東京の厳しい社会現象をちらりとのぞかせたつもりである。例えば、食糧不足、金があっても物がないから買えないもどかしさや買い出し、学生帽をかぶった闇市でのはさみ売り、ストラディバリウスという超高級な楽器を手放さざるを得なかった音楽家の苦渋の選択、キャンプ地周辺のヤミ取引、宮城内にあった旧近衛師団の建物を学生寮に使えた開放感あふれる戦後のひと時、そして、敗戦ショックで呆けた主の家庭が、終戦後の復興の歩みとは逆に没落の過程を辿っていくさま、逆に敗戦直前に嫌いを避けて命からがら大連から日本の土を踏み得た厳しい状況の説明などなど、社会の歴史的一断面は覗いていただけると思う。
 ただ、度々述べてきたようにこの拙文は私の頭に残る記憶が軸になっている。メモはない。いまになってメモがあれば本当によいなぁ、と天を仰いで嘆息するのみだ。したがって中には私の思い違いもあろうし、その結果、誤りもあろうと思う。また、漏れたほかの出来事も沢山あると思う。もし、そのことに気付かれたらいずれも誤りをただし、新しい事実を提起して下さることをお願いします。大いに歓迎します。
 本記部分は生徒と浪人の時代の事柄を追ったが、本記をやや外れるとして触れたれなかった部分がある。考えようによっては一番貴重なものである。それを最後に紹介したい。
 それは、在学中にはあまり感じなかったというか、黒子をかぶっていたこと、卒業しなければ感じられないとても素晴らしいもの、「四中、四高、戸山高の校風のよさ」である。
 具体的には、そう中心になるのはやはり「絆」というべきものではないか。
 「絆」と言えば、抵抗感を持つ向きがかなり多いと思う。僕も幼少のころ、家族と一緒に食事をするのは当然なのだが、それを家族のつながりと思うことは恥ずかしくって嫌だった。国民学校の運動会で親父が応援に来てくれたのもこっぱずかしかった。中学生、高校生のころは独立心の芽ばえなのかやたらに家族の容喙が何となく気に入らなかった。
 だから、いまの人、特に若い人たちにはものすごい抵抗、受け入れがたい気持ちがあるのはよく分かる。しかし、僕は戸山高校を卒業してまもなく、と言っても大学生のころだから7年がたっているが、「絆」の有難さをじかに味わった。その絆の神様はブルサギこと藤村久雄先生である。
 僕は卒業後を考えて先生の資格を取ろうと思い、「教育実習」の教科も選択した。ご存じだろうが、教育実習には教生(きょうせい)として一般の高校に出向いて3日間生徒を教えなければならない。その行き先として戸山高校に僕ら3人を迎えてくれることになり、僕は短期間だったが後輩に英語を教える?ことができた。戸山高校には以前からつながりがあったという。それは僕の大学の前身だった専門学校の先輩だったことなどいろいろな事情があるが、やはり、藤村先生のお力添えの賜物である。大学の成績もさることながら僕が四中出身で“どんなものなのか見てみたい”というのもあったやに漏れ承っている。ブルサギさまさまである。
 漢字で「絆」と書くと仰々しいし、別世界のような感じはするが、心の問題で文字化すること自体が所詮余計なことと思っている。
 でも。僕は四中、いや四中の流れを汲む戸山高校の同窓生というだけでいろいろな影響を受けている。例えば、戸山の出でとか、さすが戸山高のご出身と言われることが結構ある。持ち上げられているのだが、気分は悪くない。
 逆に、嫌われることもある。戸山高のどこがいいんだ、記憶バカだとか誤解されながらののしられる?こともあった。別にこちらは自慢していないのにね。
 「絆」を心の問題と決めれば各人いろいろな形で影響は受けているのではないか。戦後、廃校にならずに済んだのも四中出身の先輩方の必死の活動の結果と後から聞いたし、会社や事業種系列で意気投合や世話のし合い、同窓会もその類だ。これからも絆、いいつながりはこれからさらに伸ばして行こうではありませんか。 完
                                     (2012年7月東京にて)