先生列傅(5)廣瀬先生  四高時鐘 第4号 1949年11月4日


1956年卒業アルバム

1960年発行先生列伝小冊子

 廣瀬先生は人望があると聞く、この度も先生列傅のこの次は廣瀬先生と伝え聞いたある生徒、早速やって来て「廣瀬さんのは、写眞の変りに漫画にして呉れ給え」と失礼なことをいう。

 「冗談いい給えな」と私はその男をきめつけたのであつたが――

 先生滋賀縣の産、太平記に出て來る非常に有名な土地だそうな「今はこんなにおとなしいが」とおつしゃる「小学校の時はずい分暴れたものだ、いたずらもケンカもした、それは相当勇ましかつたよ、そのころぼくは演劇が好きだった、学校の会ではいつも主役をやらせられたものだ。

 水曜会と言うのがあつて芝居をやるのだ、芝居の盛んな地方でね、毎週水曜が來るとやるから水曜会と言う、年に一回、盛大な学藝会をすることになって居た、二年のときは那須与市、三年の時は司令官をやったよ、はっきりおぼえて居る」

 大正十年ころで「日米戦己むを得ず」と言はれて居たころだそうな。「弁舌もさわやかだったよ」と更に先生は続ける。「中学は井伊大老で有名な彦根だったが、一、二年のころはよく弁論大会に出たものだ、今でも授業中に弁論口調が出て來て困ることがあるよ、しかし二年の終りころからだんだん大人しくなつて来た。利巧になったんだね、大人しくしていた方が得だと言う考へが出て來たんだね、数学はそのころから大好きだったな、中学を出て物理学校に入学してそして成城高校に行った、主に個人教授等をして劣等兒の救済に努力したものでした」本当の馬鹿でない限り救はれますよと先生は仰言つて笑つた。

 先生は常時、数学の面白い問題があるとそれをカードに書いて集めておられるそうだ。

 どんなつらいことでも事数学に関する限り、どんな無理をしても疲れを知らない程だと言われる、先日は二十日間で出版社に頼まれた問題集を殆ど飲まず食はずでやったが大したことは無かつたそうだ、そして先生はいみじくも結論されるのであつた。

 「趣味をもつてすれば大抵のことなら相当無理しても大丈夫ですよ、何事にも興味を持てばやり通せるものだ、マージャンでも何でも同じことですね」(ながとり)

広瀬芳樹先生 数学 戸山高校在職 1944〜59



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