先生列傳(6) 杉浦先生 四高時鐘 第5号 1949年12月22日


1960年発行先生列伝小冊子

1956年卒業アルバム

 「何でまたボクなどに決めたのだろうね」平ぼん過ぎて話すこともない、と先生は御謙遜なさる。けれど先生のいう平ぼん過ぎてとは断然平和過ぎての間違いだろうとボクは考え、平ぼんな波乱万丈というのも随分多いです、などと心中声変りの理屈を申し上げたのだが。

 先生は、不景気で就職難のひどかつた昭和六年に学校を卒業され風来坊六ケ月の後、ある保険会社(と聞き、したり顔にて、勧誘員を想像する不届き者、即刻転んで膝小僧でも擦むくべし、喝)に勤められることになり、そこで先生は計算器と算盤を前に終日統計々算をされることになつた。

 「ボクは他の先生方と少し違い、学校を出て七年余りも会社勤めをしてから教師になつたのだよ」学校の先生には余り見えない先生のお人柄は、そんな故為もあるのだろう。初めから教師志望だつた先生を、口さえあればの就職難が、保険会社の計算係にしてしまつたともいえる、 その後高円寺の基督教関係の女学校の先生となり、早稲田中学を経て、当時の四中に先生が来られたのは、昭和十六年、今を去る八年の昔、「あと二年で十年だ」と先生はおつしやる。

 「子供のころ、ボクはかなりわがままだつたそうで、食べ物の好き嫌いも多く、野菜類は殊に嫌いだつたが、四中に来てから生徒と那須に行つたりして、それも段々直つたようだ」ボクは子供のころ病的な人参嫌いだつたのを、想出していた。

 五つの時父上を亡くされそんなわがままも母上一人だつたからか先生は大変早婚だつたとか、「相談相手になる親せきが少かつたりしてね、そうして今では子供が六人もいます」と少年の如き含羞の御顔にておつしやるのだつた。

 奥様との御結婚は?
 「別に普通の結婚だね」
 奥様のことを何かと聞くと
 「ヤレヤレ」とお笑いになる。
御結婚前にあのその何か?(事の序いでに尋ね申したいのだがいくら先生が六人のお父上、と考えても矢張りいい憎い。
 「(説破)華々しいのはなかつたようだ。またあつても、ボクは余り何か話さない性質だから、いわないかも知れないね」このところ一寸氣に懸るお答である。

 「男の子を教えることは樂しいことだ、皆どんどん偉くなつて行くので、自分が取り残されてしまうような寂しさは辛いが、また別の喜びがあるもので、それは教師にしか解らないものかも知れないね」ボクはだれかが「大氣の層のように、暖かい静かな氣体が先生を取りまいている感じ」といつたのを想い出して、それを聞いた時の大げさな感じが全くおこらないのに氣が付いて、成る程と思つた。

 「静かに本が読めて勉強の時間もある、というのは、昔の教員生活、教師も今は大変だね」今後のことをお尋ねすると「これからも、ずつとここにいたいと思います、学校で迷惑しなければね」何年か後ボク等が卒業してしまつた後もずつと杉浦先生が四高におられるということが、先生が決して派手な方でないにも拘わらず、ボクには反つて力強く、懐かしく感じられるのであつた。(をがわ、あおき)

杉浦久男先生 数学 戸山高校在職 1941〜79


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