先生列傳(8)小川先生 戸山高校新聞 第11号 1950年7月25日
 「師の教眠きが故に輕からず」


1951年卒業アルバム

1956年卒業アルバム

 人々かねてより斯くこぼしあへり、師(小川先生の事)の講義の眠氣を催ほさしむる力の偉大なること、これを拂はんとして拂ひがたく摧かんとして摧きがたしと。

 これまことにしからん。

 しかりと謂へども師の講義眠きが故にかろからず。権威あり師に権威あり。不思議なる威厳なり。いずこより来たるか我れ知らず。されど、これ多くの試練を美しく耐へ経たる人の威厳ならん。師の郷里は茨城なり。御尊父は廣く蚕系業を営み、新らしき思想の人にして、村の青年会を、はじめて組織し、或ひは、村童共を集めてこれに教育を施せりといふ、即ち愛郷の士なり。又好学の人にしてとくに漢籍に親しむ。書物家に満つ。

 幼かりし師に既に論語考経の素読暗誦を強制す。師もとよりこれに従ふ。このこと師に與へたる影響甚大なり。この頃より師は文に親しむ。創作など書きて雑誌に投稿す。しばしば入選して誌上に発表せらるといふ。師これをかへりみていふ、嬉しかつたと。多く評論集を讀み、有島武郎を讀む。

 十七才の折、勉学のため單獨上京す。この頃家業きはめて振はざれば、師は自活しつつ、勉学に勵めり。アルバイトはあに戦後派の専賣ならんや。これ師にとりて苦難いばらの道を行くがごときなり。

 師このことを語りて、新聞配達はおろかありと凡ゆる仕事をなせりといふ。凡ゆる仕事とは如何なることなりやと問ふに、答へて曰く、凡ゆることなりと。まさに凡ゆることなるべし。

 師はここに至りて修養団なる学舎に学び、主に国漢学を專攻せり。又、宗アに入らんと思ひしことあるといふ。師の入るべき宗門は仏アが適当ならんか。僧形の師に風味あるべし。しかれども法華は不可。うちはだいこはいちじるしく師の風味をそこなふべし。

 ここにおかしきは。師が且つて獣醫たらんと思ひ立ちたることなり。嗚呼、師と獣醫との間に如何なる関係のあるや、我れ大いにいぶかりこのことを尋ねたるに師笑ひて語らず、我れこの詮索を断念す。

 一たびは獣醫たらんと思ひ立ちたれど、師は漢学への愛着止み難く、再びこの道に專心せんと決意するに至る。師、修養団の講師となる。

 師は趣味として繪畫を好めり。初めは日本畫を大いに好みたれど後に至りて、洋畫に心惹かるるようになれりという。しからば我れシユールなる作品を如何に思ふや問へば、面白しとは思へど、皆目判らぬなり、と答へり。

 映畫をも好めども、余り見ずといふ、最近は「きけわだつみの聲」を中途より見たりといふ。

 昭和十二年本校の教師となる。余りにも生徒の威儀正しきを見て大いに感激せりといふ。

 我れかねがね、師の所謂アプレゲールを観るに甚だ悲観的ならざるかを案じゐたれば、このことを問ふ。師答へて曰く、いつの時代にても青年こそは社会の推進力なれば、吾れ大いに期待すと、又いふ、欧陽明は「時処位」といふことをいへり、行動の規範はこの時、処、位を常に考へることによりて相対的に決まるべしと。

 又、若氣のあやまちと云ふことあり、このことを如何に思ふやと問ふに、師、かすかに笑ひて語りて云ふ、吾れ青年の頃血氣にはやることなければ、今に至りてこのことを大いに悔ゆ。正しきを行ふためにためらはざるはこれ青年の特質ならんと。我れこれらの答を聞きておどろき大いに安堵す。(をがわ)

小川貫道先生 国語 戸山高校在職 1937〜65


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