先生列傳(9) 伊藤先生 戸山高校新聞 第14号 1950年12月23日
 「郷里は御神職の家」


1951年卒業アルバム

1956年卒業アルバム

 私がこの学校に入つた当座ある上級生に先生のあだ名に就いて聞かされ、非常に感心してしまつたことを覚えている。

 だつて上手ではないか、試みに先生の御姿を、しづかに頭の中に浮べて見給へ、これは又なんと慈悲深げな「地蔵尊」の出来上ることだろう。当時中学一年生だつた私は階段の途中などで、化学の実験器具を抱えた白い上つぱり姿の先生を見るたびに感心してたものである。「このあだなは誰がつけたものかわからないが、昭和十九年、私がこの学校に来て、初めて号令台の上に上がつた時つけられたらしいです。私としては、まことどうももつたいない名前だと思つております。」

 もともと先生の家柄は神佛にゆかりがないわけではなく新潟の御生家は甕之舎といつて、代々御神酒造りの職にあり、先生の継がれた家は、同じく新潟の弥彦山の弥彦神社の神職であつた。それ故、今でも時々田舎に帰つて、神主になろうと考えることがあるそうである。新潟師範学校を卒業の後、物理検定試験に合格して昭和二年小学校の教員になられたといふから、随分長い教員生活である。その中で特に嬉しかつたこと、かなしかつたこと、驚いたことを尋ねると「一番悲しかつたのは、田舎で、まだ小学校を教えていた頃、自分の教え子が盗みを働いた時、嬉しいのは、自分の教えた生徒がほとんど高等学校に這入れた時、びつくりしたのは化学の実験で水素が爆発した時」だつたそうである。「廿三年も教員をしていると、段々職業的になつて純粋な感動も少なくなつて来ます。」と、先生は少しさびしそう。けれども私は覚えている。丁度中学三年のおわり、私達の級の記念写真を撮る時、Mといういたずらな生徒が、写真はとらぬとだゝをこね、そのあげく、髪をわざとくしやくしやにして、列に加り、担任のN先生も苦い顔をされていたが、伊藤先生は、「だれか、だれか、櫛があつたらMに貸してあげなさい。」とおろおろされていたことを。

 「私は今の学生を非常に可愛そうだと考へてます。又自由に就いては、丁度前の大戦後に今と同じような自由の空気があふれ、だんだん頽廃的になって遂にその反動として、国民がフアツシヨを支持してしまつたように思えるので、又そんなことが起こらねばと思つています。」先生のこのような言葉に、かの口吻突き出た生意気の生徒、何か反対したいところだが、ま、最期まで聞き給え「この学校の生徒に就いて今まで教へて来た田舎の学校の生徒よりも、たしかに素直でよいところがあると思つています。私が疎開先にまだ家族を残してある別居生活をつづけ、田舎に帰つて神主にならないのも今まで一緒に勉強して来た生徒に別れるのがつらい気がするからです。」人に信頼されることの重大さ、も一度考へて見る必要あるのではないか、勿論我人共に。最後になにかと不自由な先生の別居生活の解決が一日も早からんことを諸君と共に祈る。具体的には、住宅の宝くじの早く当るということ。(をがわ)

伊藤甕雄先生 化学 戸山高校在職 1944〜71


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