長い長い本校の歴史は一九五〇年は一つの新しいパーソナリティをもたらした。オオ“六三型”しかも麗しのノシまでつけて、時を同じく“パイオニヤー”和田先生が平田校長先生の懇望もだし難く、平和な生活からかしましき教員生活へとカムバックしてからはや二年にならんとすが、そのお守役たるや単に幾ばくかの女子にとどまらず、腕白小僧共のお守をもせねばならなかったとは何たる因縁か。エチケットを知らぬ筆者が“ゴメン”とばかり衛生室の高い敷居をまたげば立ち所に「ユウウツねえ」という先生は、読みかけていた「世界」十月号の手を休め次のような現代女性の今日に至る心の縮歴を承った。
関西の厳格な教育家の家庭に育った先生は、女学校のころ猛烈な文学少女で女子の最高学府女高師征服の野望にかられ遮二無二乙女心の青春を賭けて日夜勉強した所、哀れなるかな、二十世紀においてなお封建制などという怪物の存在したころの世の中とて、いざ受験というところで忽ち大喝一声「女の分ざいで」と父君にどやされたが、元来二束三文のオンチ文学少女ではなかった先生の強烈なファイトは遂に「家庭科ならば許す」との條件のもとで文科志望の文学少女の一番苦手な育児科へ泣く泣く入ったが、人間には順応性とやらがあるので入つた喜びはやはり大きく、十三年卒業後は名古屋で二年半、神戸で一年半、東京北野高校で二年(この時平田先生が同校の校長で、後和田先生が本校に来られた機縁となった)それから戦争中は難を逃れ、教員生活をやめ、戦後はお茶の水女子大の教育科で医学を一年、心理学を二年専攻され、たまたま本校の男女共学と共に再び先生稼業に戻ったわけ。
所で父君が俗にいうウバステ山大学に反対された原因はみな親心の徴れで、まず婚期がおくれる事、世の中に歓迎されないだろうという事も今は親の取越苦労だったと仰有る、前者についてはCIEにつとめている御主人が、奥さんに理解がありやりたいことをやらせておられるのだそうだ、だが良家の子女にとって恋愛結婚なんてとんでもない時代の事だったから、残念ながら見合結婚だそうだが僕等には恋愛結婚なさいとおっしゃる。後者については「今では女子も経済的に独立してこそ男女同権なの……そのために専問教育(大学)を……。と講義口調でいわれる先生の顔には自然と己の天職をエンジョイする気持が表れていた。「停年迄先生を。」と問うと「とんでもない、私の理想は幼稚園を経営する事です。あなたのお子さんをつれていらっしゃい。」と気の早い事である。教育は幼児期からである。
本校生徒の印象はと問うと「男子は外見は大人みたいだが純情で案外可愛い。女子はいわゆる少女的でもなく甘い所がない。」との言である。
ここでスポーツなら何でもの先生は男性チームをなでぎりにするとてラケットを携へテニスコートへ向われた。(T)
和田典子先生 家庭科 戸山高校在職 1950〜78