昨年まで先生列伝を書いていたO君達もめでたく卒業してしまい、今年からはいわゆる六三型のみになつてしまつたので列伝を書く人がいなくなつてしまつた。六?三型なら誰がやつたつて同じだという。そしてお鉢が私のところへ周つてきた。そのあげく校長先生だという。校長先生というと入学式の時の“のであります”調が思い出されてならない。私もあの日倒れかかつた組の一人である。
しかしこうなつたら仕方がない、単身でかけることに腹をきめた。下北沢で下車、徒歩十分と聞いていたのだが、夜だつたのでウロウロした結果、徒歩三十分位になつてしまった。
ようやくたどりつくと二階へ上れといわれた。どうも急な階段だつたが二階へ上り、まず事務的なことから質問を始めた。ところがここで私は一つ心配になつてきた。というのは私は家ではあまり座らないものだからこうやつてきちんと座つていると、だんだん足の感覚がなくなつてくる。先刻の急な階段のことが気になつてきた。下手すると帰りに階段で醜態を演じなければならぬかも知れぬ。だんだんいらいらしてきた。すると先生、私の心を見ぬかれたのか、あぐらをかけといわれた。やれ助かつたとばかり私は先生の前であぐらをかいてしまつたところで帰りに醜態を演じる心配が失せると、ようやく落ちついて御話しが聞けるようになつた。
先生は兵庫県の日本海側から十五里程奥へ入つたところでお生まれになられたそうだ。「何しろ十五里の山奥だから、相当大きくなるまで海を知らなかつたし、魚といえば干物位しかなかつた」と仰言つしやる。
二十一歳のときお国で小学校の先生をやつて以来の「良い先生になりたい」という考えは今でも変わりないそうだ。特に教科は数学で、これを選ばれた理由については、話せば長いいわれがあつて、それは今度の時に話そうといわれる。
少々愚問であつたかも知れないが、現在の校長のイスのすわり心地について質問すると「校長なんて態の良い小使で非常に束縛される。自分は前にもいつたように、数学の良い先生になりたいというのが一生の目的だつた」といわれた。「第一次大戦後友人が景気のよい仕事についていても、自分には自分の仕事がある、と考えていたから、少しもうらやましいと思つたことはなかつた」といわれるのだから、本当の教育家とでもいうべきであろうか。
大学へは少したつてから行かれたのだそうだが、「当時は四単位半とれば卒業できたのであるが、九単位とつて卒業した。というのも他の人のようにただ卒業すれば良いというのではなく、自分の進む道が決つていたからである」と語られるのを聞くと、先生は相当の努力家でもあられたに違いない。
最後に「先生は決してしかるようなことはしないから、たまには誰でも校長室へ遊びに来て欲しい」と仰言つた。こうして直接御話を聞いていると、入学式のとき等とは全然違つた感じでやさしい父親のような気さえしてくるのである。
ところで、かれこれ一時間も御邪魔していたであろうか、私は適当な時に腰を上げて帰路についた。あの急な階段を上つた時と下がつた時の二つの校長先生というものを考えながら。(K)
平田巧先生 校長 戸山高校在職 1946〜55