先生列傳(15)岩切先生 戸山高校新聞 第23号 1952年5月17日
 「坊やのよきパパ 体育、專門は劍道」



1984年卒業アルバム

   
1956年卒業アルバム

 先生のおこつた顔をあまり見たことがない。いつも我々には笑顔で接して下さる、いわば戸山高校のeのbである。
 先生は「体操の時間はね、学科で疲れた頭を直すような授業にして、のびのびと、楽しくやつて行こうじやないか」と云われたことがあつたが、ユーモラスな口調で競技を指導され、しかも着々と成果を上げられて行く先生は元気回復の妙技(?)をも心得て居られるらしい。

 「今までは体育は学問として考えられて來なかったが、今後は実際に学問の中に入れるようなものにしたい」と云うのが先生の念願だそうだ。体育できたえたねばり強さできつとなしとげられる事であろう。

 先生がお生まれになったのは南の国九州宮崎縣の青島だそうで眞偽の程は知らないが、青島の祖先はインドネシア人であつたと云われる。「道理で…」と先生の健康そうなお顔の理由もはつきりしたように思つた。

 ところで読者の皆さんは、先生はいくつ位だとお考えになりますか?記者の愚問に先生は中々はつきりお答えにならない。(近頃は数え年だの満だのと云うので忘れてしまわれたのではないかな)あのてこの手で攻めて、ようやく聞き出した所によれば、“伊原先生より五つ年上で、まだ三十には少し欠ける。あとは生徒の自由な判定にまかせる”だそうだ。

 一方、先生のおうちは、奥さんと坊やの三人生活、学校でのeの神は家庭においては、一人つ子の可愛い坊やのよきパパ(象徴)である。確か去年の運動会には坊やと奥さんも観に來られたのじゃなかつたかな?ともかく「子供は可愛いですよ」と語られる先生は子供好きに違いない。「親と云うものは子供を大変心配するものでネ、君達も親には心配をかけぬようにしなさいよ」と変な所で思いがけない御説教に会つてしまつた。やはり先生である。

 そこであわてゝ話題を変えて先生の専門についておたずねした所「専門は剣道だよ、どうも時代が惡かつたね」とおつしやる。

 授業は一週二十四時間、ひどい時には朝から五時間ぶつ通しである時もあるそうだ。

 「本校に來られる前は何処の学校に居られたのですか」と云う記者の質問には、「いやぶらぶらしていましたよ。ルンペンですな」とユーモアたつぷり答えられた。

 毎年行なわれる本校の運動会は、ほとんど練習無しで行なわれるが、それでも毎年良い成果をもたらせている。これには先生の努力に依るところが多い。それから今後行われる各種スポーツ大会も、先生の範疇にある訳だ。

 最後に先生の見た戸山高校生についておうかがいすると、「真面目で素直でよい生徒ばかりですよ、技能も決して他に劣る様なことはありませんね。」とまずおだてられたあと「しかしやれば出来るくせにやらない傾向にある。あれはいけませんね、改めるべきですよ」と云はれた。

 階段下のせまい部屋で、窓から入り込む夕日をあびながら心良く語られる先生のお顔はいよいよ黒味をおび健康そうに輝いている。

 今年も私達をよりよく指導して下さる様にお願いしておきました。(S)

岩切梅夫先生 体育 戸山高校在職 1949〜84


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