先生列傳(24)河邊先生 戸山高校新聞 第32号 1953年9月19日
 「楽しい先生稼業」


1960年発行先生列伝小冊子

1966年卒業アルバム

 噂というものは愉快なものだ。河邊先生がまだ外語在学中、同じクラスに赤尾某という男が居た。後年の旺文社ゝ長なのだが英語の出来が良くなくて、先生からしばしばノートなど借りたりしたと言うのである。又、先生がクラスの首席で二番が赤尾某だつたのだと言うまことしやかな別の噂もある。この話はほんとですかと聞いてみたらウフフフと笑い出された。全然初耳であつてかつデタラメも甚だしいそうである。第一その赤尾と言う人は居たが、イタリヤ語かなにかで、余りよく知らないそうだ。誰がそんなことを言い出すのかね、と、感心された風で又ウフフと笑い出された。事実無根ならば全く笑はせるが、どちらがまことしやかと言う事は別にして、噂としては前者の方がより面白味があるように思はれる。

 先生の経歴に就いては担任なさつてた旧三年のD組のクラス会誌に載つているので、それを紹介しよう。

 「一九〇八年二月二十一日東京の牛込に生れた(中略)今でもそうだが極めて内気な臆病なはにかみ屋だつたので学校の様に多勢の子供の中にでるのがいやでいやでたまらなかつた。得意な学課など勿論なかつた。一番嫌いな学課は唱歌で成績はいつも丙だつた。今でも音楽は好きだが自分で歌うのは大嫌いだ。小学校を卒業して京華商業学校に入つた(中略)
 僕自身は大変お恥しい次第だが一体何になるつもりか殆んど考えた事もなかつた。只学校にふらふら通つていた。別に英語が好きだつた訳ではない。卒業期になつたので一応受験勉強をした。当時一高と商大とが羨望の的だつた。然し数学に全然自信がなかつたから、一番数学の易しい学校に入つた(中略)
 卒業期になると第一次大戦後の不況期になつて実業界にはそろそろ就職難が兆し僕の様な人間は到底会社銀行などでは使つてくれそうもなかつたが教師の口は未だ多少あつたので卒業と同時に大阪の中学校に勤めた。さぞ諸君はがつかりするだろうが以上が僕の経歴である。

 然しそれから今日に至る迄やつぱりこの職業を他の職業と取換えようと思つた事は一度もない。教師の生活は心配ばかり多くてうれしかつた思い出など殆どないが無けなしの知恵をしぼつて教だんに立つている時が一番愉快な時でしようね(後略)」

 対談中先生はしきりに「ぐうたら」とか「ふらふら」とか云う形容詞を御自分に対して使われた。よく納得出来ないのだが相当神経質なことは確からしい。話ながら時々貧乏ゆすりをなさつた。指先などもぶるぶる震えているので、話がなくなつても失礼するきつかけが見つからないと、いつまでも長つ話をしてしまう僕は大いに気にしてしまつたのである。先に先生の経歴で借用したクラス会誌の扉には先生の写真があつてその下に我々にとつて

 もつとも得難いものは
 崇高にして偉大なる
 師と
 彼の心とである

と云う、女の子の作つた詩の文句みたようなのが書いてあるのだが、肝腎の写真の方が少々ピンボケの上、先生が眠むたげな顔にとれているのでちぐはぐな感じになつていた。しかし詩の文句も大げさすぎるように思われる。(おがわ)

河邊昌雄先生 英語 戸山高校在職 1947〜68



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