先生列傳(29)中金先生  戸山高校新聞 第38号 1954年6月22日
 「温い心の持主チューキン」


1956年卒業アルバム

1960年先生列伝小冊子

 昔懐しい市谷加賀町。昼下りにはあの四中大銀杏の木影が庭先に届こうという二十騎町で先生は少年時代を送られ、今も再びそこにお住居である。市谷小学校から開成中学校に進まれたがお父上が官吏であられた関係で熊本中学に転校、更に鹿児島高校、東大と進まれ、本校に着任されたのが今から丁度九年前の六月のこと。「早いものですね」とおつしやる。「世界にとつても、本校についてみても実にめまぐるしい九年間だつたからあつという間に過ぎてしまつた。」

 こう述懐される先生の眼鏡がキラリと光る。先生の歴史の授業で印象的なのは、トントントンと叩くように進むチョーク。キラリと光る眼鏡。「これは実にキ・・・」という慣用句。そして何よりも印象強いのが精密この上無い講義ノートであろう。先生は中学時代は実をいうと東洋史は余りお好きでなかつたという。ところが高校時代の先生に感化されて選んだのが、実に東洋史研究の道だつたのである。「専門は金の中期だろうつて?」いや、ちがいますよ。中国の宗教特に道教あたりに非常に興味があるんですがね。何しろ移り気なもんで、あれもやりたいこれもやりたいで何も出来ないでいます。」と大いに謙遜される。

 中金というのも珍しい姓だと思つておたずねすると、何でも愛知県の方には中金村という所があつて、そこから中金という姓が出たのだろうと説明して下さつた。「ナカガネというのはいいにくいんで専ら通称で通つていますね。時々父兄の方なんかでもチューキン先生は?などと訪ねて来られます。だけど僕のは通称でアダ名ではありませんよ。」とのこと。授業中でも忠勤とか金とかが出て来ると敢て念を押されるぐらいだ。

 最近の生徒についてお聞きしたら、「ずいぶん落着いて来ましたね。しかし昔と比べて常識的な生徒が多くなつた。戸山は他からよく予備校的といわれますが、最近はちがいますね。生徒はみんな美しい心を持つていて・・・・。只もつと学校を良くしようという気持ちを燃やさなくてはいけないな
それには、H・Rなんか活用してみんなで先生も交えて話し合い理解し合わなくていけないでしよう。受持の先生のお宅なんかに伺つて気軽に話し出来るようにしたいものです。」こう語られる先生はH・R・Tとしてもとつても良い先生である。

 中金先生がどんなに立派な先生であるか、僕なんかの拙い筆ではとても書き表せない。今度の金井君の事件でも、先頭に立つて山を歩いて探して下さつたし、先だつての修学旅行でのエピソードは朝日夕刊の“ひととき”欄で紹介されたから御存知の方もあるだろう。旅先で生徒の割つたガラス代を払つて下さつた。たつたこれだけの話であるが、汚れた社会に出た旅先での先生の美しい心は世の人の心をどんなにか打つたことであろう。

 ここで、先生の御健康と、そしてこれからもずつと戸山高で教えて下さることをお願いしておこう。(比)

中金武彦先生 世界史 戸山高校在職 1945〜64



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