先生列傳(33)野本先生 戸山高校新聞 第42号 19554年12月1日
 「素晴らしきもの“人間”」


1960年発行先生列伝小冊子

1956年卒業アルバム


 丁度先生の机の上に、前進座のプログラムが一部のつていたから良いようなものの、もしそれがなかつたとしたら、そそつかしい僕は先生が無趣味無道楽無味乾燥な人物と早合点したかも知れなかつた。なぜというに先生の書斎にはぎつしりと並べられた書物以外なんにもないからである。しかも本というのが殆ど国文学系統のものばかりなのだ。もつとも壁に張つてあるカレンダーの絵とおぼしき部分がわざわざ後に折り曲げられているのなんぞ先生のセンスの表れと見ることが出来るかも知れない。カレンダーの絵なんて大抵変なのばかりなのだから…

 まあそれはそうとして、和服姿の先生が本棚をバツクに、長火鉢に手をかざして坐つて居られる姿は、いかにも文士といつたタイプである。机の上に原稿用紙とペンでも添えたら、さしずめ僕たちは原稿の催促に来た本屋の小僧といつたところだろう、なぞとつまらない連想をしてニヤニヤしていたところが、着座してものの数分もたたないというのに、思わぬ一弾が飛んで来て僕たちは度肝を抜かれてしまつた。曰く

 「君たちはここへ来る迄に、どのようなことをテーマにしようと考えて来たかね?」
なにしろ、どうやら先生の顔と名前が一致する、というのと片や予備知識は名前だけ、といういとも怪しげな二人なのだから満足な返事が出来ずにいると「それではまだ新聞記者とはいえないね」と第二弾。続いて戸山高校新聞のマンネリズム化傾向を指摘されるやら、「“先生列伝”はこんな形式にしたらどうだい?」と自から紙に、それまでの会話を脚色?化してさし出されるやらで、いやはや始めから終りまで急所の押えられつぱなしのような目にあつた。

 「大学卒業後どこそこの出版社で国語の教科書の編さんを四年ばかりやつていたことがある。だからそういうこと(注?新聞編集)に興味があるんだ」とのこと。そんなわけだから、先生はありきたりな、戸籍調べ的な会話と文章を極度に避けられる風があつたので、うつかりした事をお聞きすると「型にはまつた質問だね」と体をかわされる。

 仕方がないので話題を転じ、やれ芸術だ宗教だと偉そうなことをしやべつて見た。「これは硬くて記事にならないね」を連発されながらもこういう問題には真面目に考えて下さる先生だつた。

 先生が国文学の道に入られたのは“人間という物を知る為”の一つの方法としてだそうだ。そして終始一貫人間を信頼し尊重しているのだともいわれた。それで僕は、しかし今の世の中を見ていると前途に希望が持てないといつたら驚かれた様子で
 「大きな歴史の流れを、一断面から見るとそういうことになるのだ。人類はたえず進歩発展している。弱さ、不完全さを断えず改善していくというところに人間の尊さがあるのだ」
と力説された。僕は強度の楽観論者と見てとつた。

 先生の趣味とおぼしきものは映画演劇であるようだが、これなぞも“人間という物を知る為”の一つの方法なのかも知れない。それはともかく歌舞伎なぞは学生のころからかなりお好きで、学生時代に三味線を一年位練習されたそうだ。「三味線が弾ける位でなくては歌舞伎の味は解らないかと思つてね」とかなんとかいわれていたようだが当の先生は、音楽的才能の欠乏に気付いたので止められたとのこと。

 四、五本目のタバコが短くなるころ、僕たちは先生のお宅を後に夕もやのけぶる町に出た。

 後日友人に聞いた話では先生にはこれというアダナもエピソードもないんだそうだ。しやべり方なんかもどちらかといえば物静かな先生は一見平凡に見えるのかも知れない。然し実際は広い見識と複雑な感情がその内に潜んでいるように僕には思われた。又或意味で徹底したヒユーマニストでもある。

 先生は今後も千秋一日のごとく“人間という物”をじつと見つめて歩まれることだろう(元)

野本秀雄先生 国語 戸山高校在職 1950〜65



連絡・お問い合わせは城北会事務局へどうぞ。e-mail:johoku@toyamaob.org