私がまだ戸山に入つて間もないある日曜日、新宿三越の前の歩道でお子さんをつれた先生にお会いした。まだその名も知らずただ、戸山の廊下で見たことがある先生だ、というだけだつたが一応おじぎをしておいたことを覚えている。
「わたしやー、生れは上州、育ちは神田でござんすよ」と語られる先生は御歳四十七歳、戸塚四丁目の都営アパートに一家をかまえていらつしやる。屋上からは米田先生のお宅を見下せる。先生に関する話で最も多く我々が先輩からきかされ、又興味を感ずるのはその高校時代である。 先生は一高の理科に入られた、なぜ理科を選んだかといえば、一に当時友人に工学博士の息子がいた関係で自然科学者に憧れを抱いたのと、又一には飯に困らないだろうという推測のためであった。がしかし大学へ入る時は英文科を選ばれた。“結局人間は行くところへ行く”といわれる所以であろう「だから諸君が将来の進むべき道を選ぶのに迷うのは無理ないし又立派な助言者が必要だと思う」といわれる。先生などはその適任者ではなかろうか?
一高へ入りたては、体が大きかったためかボート部へ入れられきびしい訓練を受けられたと身ぶりよろしく話される。又田崎先生(本校国語科教諭)とは同期で寮では隣同志として往来したり一緒に富士登山もされた。ともかくこの時代には他の先生方が及びもつかぬほど悪童?ぶりを発揮したと伝えられる。そしてそのためかどうかは確かではないが、俗に「都落ち」といつて東京から京都帝大に進まれた。大学生活についてはあまり伝わらないが卒業論文はミルトンの“サムソンとデリラ”を中心とした研究だつた。そして「近頃はこういう地味な研究をする人が少いようだ」といわれる。
昭和五年頃の不景気の中に卒業され一年にして信州松本に教師職をえられた。又今次大戦中に卒論執筆中には一日七十本も煙にしたたばこも、ボート選手時代仕込まれた酒も止めてしまわれたそうだ。そして二十一年春本校英語科教諭としてまねかれて現在に至っているのである。
「古川先生久し振りですね!」と修学旅行へ行つたとき、先生はこうことばを浴びせられた。これは松本で先生を始める数日前、当校へ数日前来た古川ロツパに似ているというわけで“古川先生”と生徒や父兄たちに決められた為らしい。その先生の戸山における生徒の評判は非常によく「モモタロウ」の綽名が示す如くその童顔をもって親しまれている。しかしその眼光は時には冷い程の強さ、何か数多き経験の上に立つ鋭さ、つまり一筋縄では行かないような感じを示す。「君達は僕の話だけで僕という人間を判断しようとしても駄目だよ」といわれるのも尤もな事である。先生の授業は大変楽しく話術の巧みさは定評あるところであるが、三年生の中には「一、二年の時はよかつたが、三年になつたらもう少しきびしく程度が高くてもいいのじやないか」という声もある。H・Rの担任としてはいうまでもない。
家庭では学校と同じように中学二年のお嬢さんと小学校、幼稚園の二人の坊やのよきパパであり、「結婚された年は?」と遠慮なくきくと「さあー女房に怒られるかも知らないが忘れちまつたねー」と逃げられた。「本校生について何か?」「修学旅行でもわかるように非常に立派な生徒だが、皆小さな紳士になりすぎているんじやないかな。もうすこし学生としての気ハクと無邪気さが欲しいね」と答えられる。尤もなことだがやはり先生の脳裏には昔の学生生活が浮ぶのだろう。(間空)
島田健太郎先生 英語 戸山高校在職 1946〜68