先生列伝(38)中島先生  戸山高校新聞 第48号 1955年10月28日
「我等の兄貴に 良いお嫁さんを」


1960年発行先生列伝小冊子

1956年卒業アルバム


 先生の魅力はなんといつてもまだ若いところにある。大学を出て三年まだまだ学生気質のぬけきるものではない。この頃ではオートバイを買いこんでさもうれしげにニヤリニヤリと笑いながら学校に乗つてきて人を乗せては喜んでいる、その童心誠に愛すべきものがある。ご自分でも「いやー、大人のおもちやだね」と言つておられた。それを自認しているところ亦善いかな!である。そのオートバイたるやまた曰くつきで学校には乗つていきませんというお母様との約束で買つたのだが、買つてしまえばこつちのもの・・・。柴田先生に聞えたらおこられること必定である。それはさておき先生の生い立ちの歴史をひもといてみると、簡略にいえば“生れは良いが育ちがなんとやら”これはちと筆のすべらしすぎであるが考えてみればまあ無理はない。一番感じ易い時期を終戦のどさくさに過ごされ(今でも思春期だというウワサもありますが)また大学四年間を親元から離れての寮生活ではその言当らずといえど遠からずであると。しかし先生はきつとこう言われるだろう「何分生れという奴は争えないものでね、エヘヘ・・・」

 さて先生の生れ故郷は九州久留米在の片田舎、とはいえれつきとした九州男児で葉隠れ精神を伝えているとかいないとか、各自先生の顔を見て御推量あられたい。幼い頃は木登りが大好きで或る日家の高い松の木にのぼつたところ、こわくておりられなくなり声も出ず木にしがみついていた。ところが夕方になつても帰らぬので家の者が心配して村中で山や大きな川を捜したところが木のてつぺんでふるえていたというマンガのような珍談もある。幼い頃のわんぱくぶりは誰も想像のつくところであるが、先生は存外可愛い顔をしていて愛嬌があつて皆に可愛がられたと自称される。事の真偽はともかくそれをきいてつくづくと先生のお顔を見直したが、なるほど往時の片鱗がうかがわれぬでもなかつた。それでは引く手多数でさぞロマンスも多かろうと早速聞いてみたが案に相違して全然ダメ、御年二十六歳はトウーヤング、トウーラヴということらしい。いわんや結婚なぞまだ先の話。「チヨンガーは気楽でよいからもつとのんびりしていたい」といわれるが、一朝結婚した暁には「僕は愛妻家になるよ」と自信のほどを一言もらされた。

 そのわんぱく坊主も年とともに大きくなり当時県下随一の運動校を誇つた明善高校に入り、体操で国体の選手になつたのが運の尽きとうとう今の道に進まれることとは相成つた。しかし当初の志望の理科系は今でも趣味としていて映画やパチンコ(?)より時計やラジオの解剖の方が面白いそうだ。他に趣味といえばスキー、御自分では「下手の横好きさ」といわれるが教育大の学生時代転倒記録保持者とあつては「御ケンソンを」とも言いにくい。もつともその後うまくなつたかもしれない。

 大学時代といえば先生はだいぶ苦悩の生活体験をもつておられる。経済的に困つてついに街頭で新聞売りをやつた話には思わず目頭が熱くなるのを抑えることは出来なかつた。そんなどたんばの生活までも経験しておられる先生は時にまた僕達の良い相談相手となつてくれるにちがいない。第一先生は教師といういかめしい衣をまとつていないので気楽に話しに行けるのが何よりうれしい。いわば良き兄貴といつた先生なのである。
 また先生には食いすぎの失敗談等もあるのだが結婚前の先生であるからその話は控えてそして先生に早く良いお嫁さんが見つかることを祈って筆をおくことにしよう。(丘)

中島光廣先生 保健体育 戸山高校在職 1953〜68



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