先生列伝(41)石井先生 戸山高校新聞 第51号 1956年4月9日
 「デリケートな神経の持主」


1957年卒業アルバム

1956年卒業アルバム


 
良い先生だと思います。しかし授業中は最も恐ろしい先生です。温厚にして繊細なる神経の御持主、ありきたりの道徳主義者(もつともこれはその御職業の関係上不可欠のことかも知れませんが)しかし学者くさい所は毛頭なく話しかけ易い。高校の先生としては親しみやすい方です。先生を色で表わせば強緑色です。

                       ──ある雑誌の人物評──
 「何しろ朝鮮は好きだつたね。広々としてね、朝鮮の山は裾野がなくてみんな釣鐘を伏せたようなんだ。そういう山脈を頂上から頂上へ飛び越えてトラは一夜の内に釜山から鴨緑江迄来るんだなんてきいたがねえ。もつともトラにはそうお目にかかる事はなかつたがクマ、キジなんかは沢山いたね」朝鮮のずつと北鴨緑江のそばの小さな町でお生れになつた先生は幼い頃の想い出を淡々として語られる。冬には零下20度にもなる朝鮮では子供はうまく育たないと云う。先生をノラクロに似てるなんて云う人があるが、あるいは零下20度がノラクロを作つたのかも知れない。「朝鮮の人間は陰険だね、昔から虐げられてきている為だろう。僕が朝鮮にいた当時も日本は朝鮮の子供達に朝鮮語を習わせない。内地との差別待遇はひどいものだつたからね。だから戦争が終つた直後は朝鮮人は日本人を虐待したんだ。何しろ戦争はいけないよ」

 「僕の高校は山口。高校時代はやはり楽しかつた。水泳部に入つちやつてね。桜の花が咲く頃には紫色の唇をして上級生にドナラレながらしおしおとプールに入つたもんだよ」でもそういわれる先生は真夏の暑い時でも戸山のプールには飛びこまない。それにはこんな事情があるからだ。「いやね、いくらやつても上達しなかつたんだ。ヒラオヨギさ、下手じやないんだ、ただ上達しなかつただけなんだよ」でもおかげで心臓の方は強くなり軍隊に入つてから役に立つたと云う。「上達はしなくつたつてスポーツは何でも好きですよ。戸山の生徒はもつともつと運動をしなくちやいけないね、全くおとなし過ぎるんだね」この点を強調される。

 秀才石井清先生も矢張りハナトチツタ経験はある。高校から東大法学部へ、ここの所である。「始めは官吏になりたかつたんだ。だけどおちちやつたんだから仕方がない。好きだつた英語でもやろうかというわけで文学部に入つたんですよ」。

 終戦後のドサクサで三年遅れて昭和24年卒業、それと同時に戸山校教諭を開業、26年結婚、現在一男一女の父、ざつとこんなぐあいである。

 この間の修学旅行はどうでした?「何といつても広隆寺の彌勒菩さつは圧巻だね。あの崇高な顔は他にはないね。僕は昭和15年に朝鮮から修学旅行できたことがあるが、京都は落ついていて何回いつてもいい所だね」

 話してみればこういういい先生なのだ。
 “石井先生とかけて何と解く、ナフタリンと解く。心は虫が好かない”こんな事をいうのは先生を何も知らない生徒なのだ。

石井清先生 英語 戸山高校在職 1949〜84



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