先日のこと、二年のある組で授業の始めに黒板に姓名を大書して「フーン」と感心している生徒達をぐるりと見わたしてから「アダナばつかり覚えるんじやないよ。」とのたもうた如く我がイカポンの本名を伊原公男先生と存知あげている者はあまり多くない。
子供の日の翌日の日曜日、タツチフツトボール班決勝進出の決まつた後、顧問(先生は現在日本タツチフツト協会副理事、関東高校フツトボール連盟理事長)として観戦された先生を訪ねた。「とうとう来たな、まあ何でも話すよ」と云われて先ず戸籍調べから始つた。産声をあげたのは富山県の滑川市、裏日本の雪深い地方で今を去ること××年前(諸氏の御想像に任せる)の一月二日、即ち太閤秀吉の誕生日の翌日である。もつともこれは戸籍上の話で本当はその前年の十二月二十九日だつたとか。同地に少年時代を過されたが十六の時からは海軍で活躍された(?)、軍国主義華やかなりし当時のことゆえ、この血気盛んなる小国民の海軍入りは、てつきり海軍大将志望と思つたがさにあらずもつと深い理由があつたのだ。曰く「学校へ行つてもイダヅラばつかりしてるんで先生には睨まれるし、先輩からは毎日お説教されるんだな。それでどつかいい処があつたら逃げだそうと思つてたんだナ。」と云う訳で飛び込んだ海軍では特攻隊を編成され第一線基地へ向つたが残念(?)一回も実戦をせぬうちに終戦を迎えた。
その後、昭和二十三年成城高校就任を第一頁として、教師としての歴史が始まる。本校就任は二五年、以後現在に到る、と云うわけだ。
これでおわかりのことと思うが小さい時からお勉強が大好きでその好きな道を進んで戸山の教師になつた、と云われる他の先生方とは大分趣を異にしている。このせいばかりでもないだろうが、自ら秀才を以つて任じている本校の生徒諸君にはあまり人気がないように見える。
「イカポンかい。なんだかつきあいにくいな、どうしてかつて、きつとすぐ大声をはりあげるからだよ、何でも怒鳴り付けりやあかたがつくと思つてるんじゃないのかな」「そうだなあ、あいつの授業は自分でやつてみせるつてことが少ないんだな。水泳の時間に泳いでみせてくれたのは二回位だぜ」と生徒の評判はあまり良くない。しかし僕はこう云いたい「つきあいにくいつて、そりやあ一寸そんなところもあるけどね、もう少しお話をしてみろよ、きつといい先生だなと思うことがあるよ。」
バラの木のパイプ―これは終戦当時一ケ月分の月給を全部払つて買つたものだそうだ―をいつも持つている先生は御家庭では当年満二才の奈緒子ちやんの良き父親である。去年の秋タツチフツトの試合の日、時間に遅れて来た先生は「出かけようとしたら子供に泣かれてね、どうしても出られなかつたんだ。」と云つて皆を唖然とさせたものだつた。それ以来フツトボールの試合の日には奥様とお嬢ちやんを連れて観戦して居られる先生のお姿をよく見受ける。
さてここで先生からの戸山の生徒諸君への御注意を記して筆を措こう。
「皆に云いたいことは、学校にいる間だけでも、心がけて身体をきたえておくようにということです」 蒼
伊原公男先生 保健体育 戸山高校在職 1950〜88