先生列伝(44)梅田先生 戸山高校新聞 第54号 1956年9月21日
 「七対三の歴史観」


1954年卒業アルバム

1957年卒業アルバム


◇教室を見て頂こう。黒板には

十○ l 十章
一条,,, l 一,条約改正
○への努力 l 条約改正への努力
○の成功 l 条約改正の成功
             (答は下段)

とある。「○と,を埋めよ」なんてクイズが出来そうである。眠つている御仁にはとけない、至つて不親切な黒板だ。その代り話は親切だ。速記してみた。

 当時の人は富強という言葉が非常に好きだつた。ほんとにそうだつた。それでもいいでしよう。そうなんだから。
こんな具合である。これが「フニヤフニヤしてるから眠くなり」(B君談)ノートがとれず「表情豊かに話す」(M君談)から顔にみとれて、鉛筆をかじる―だから困るのである。よつてクイズはとけなくなる次第である。そして鐘がなると「シヤナリシヤナリと、公家上りみたいに」(K君談)行つてしまうのだ。

◇先生は西武線中井駅の近くに住み、小学校の男の子をおもちのお父様。そんな先生を去る十六日訪ねていろいろ話を聞いた。

◇「戸山はいいな。戦後の改革で、新らしさグンと入つた。職員室の中もそうだ。僕が昭和十五年に教えた時居られたのは藤村、柴田、北野、小川、平久保の先生方だけだ。その古い先生を新らしい先生が、経験をつんだ人、として認めている。新と旧が七と三ぐらいで調和しているのだねえ」

◇先生が歴史に興味をもたれたのは小学生の時の先生が殊更に熱心だつたからだという。近世史を専攻。今興味を持つているのは大正時代で「今迄は明治から昭和への過渡期としか考えられなかつたが、もう少しメスを入れてもいいのだはないか。僕の幼かつた時代、のどかな時代の中に第二次大戦へのカギがある」そうだ。

◇その時代に小学校を送られ、昭和十五年に四中で教えたとすると…今年四十余才という事になる。ウワサはピタリだ。まだ三十そこそこだと思われているが。

◇若かりし頃については「僕の行つた中学は武蔵というイギリス風の新しい学校だつた。そこで自由な教育をうけた。だから今の君達を見ても、殊更そう変つたとは思わない。ただデイスカツシヨンが盛んになつたね。僕等は“自分で調べ、考えて書く”方だつたから、自分の意見はしつかり固まつたが、融通性、広さがない。だから討論は下手クソだ。今の君達は自分では余り考えずに討論をさかんにやる。討論と思考が一緒になれば理想的なのだが」。

◇そこで次のような問答を試みた──戦時中今から見て間違つた歴史を習い、教えて不思議ではなかつたか。
 当時は身のまわりが神秘的、神がかつたもので占められていた。天皇や家族主義などだ。まわりがキリにつつまれていたから、不思議なんて考えなかつた。それに絶対的に正しい歴史なんてないものね。
 近代での天皇の歴史的価値は明治天皇だけだね。もし天皇という伝統的権威がなかつたら内乱─分裂─植民地化のコースをたどつただろう。

──第二次大戦の責任は
一般に日本だけが全部悪かつたと云われているが、それは間違いだ。日本が七悪ければ向うも三悪いということを反省させなければウソだ。そう認めあう事に歴史の進歩がある。

◇先生の頭の中には歴史が、AとBの対立する両派があり七対三の比で妥協する時に進歩する様に見られた。そしてこれでは、私の様に十対〇を望む若い者には、たよりなく、不安にも思えた。(虎)

梅田嵩先生 日本史 戸山高校在職 1952〜63



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