先生列伝(50)石平校長先生 戸山高校新聞 第61号 1957年10月30日
 「燃やす教育への情熱 もつとほしい接触を」


1956年卒業アルバム

1958年卒業アルバム


 
いよいよ列伝の最後として、今回は校長先生に御登場願うことになつた。

 先生が戸山の校長先生になられてもう二年、おいでになつた当時は、遠慮していらつしやつたせいか、朝礼のお話が短くて随分好評(?)だつたのだが、最近は、その時々の問題などを扱つて、「人工衛星がギリギリと地球の周りを廻つている世の中では・・・。」、と雨さえ降らなければ水曜日の朝話をなさる。その話が実に巧い。というのは、話の終りは、いつも何かしら僕等への激励の形で終るからだ。

 「体育館が立てば雨の日でも出来るし、立つていては気の毒で余り長い話が出来ないが体育館で皆が座つて聴けるようになつたら、月に一度ぐらいロングタイムを来年あたりからやりたい」とおつしやる。

 一、二年の諸君覚悟したまえ!先生は東大の教育学部という一寸変つたところの御卒業である。どうしてこんなところへ進まれたか伺つて見ると、「僕の中学は広島なのだが、その時の修身の先生に、人間を育てることの偉大さを教えられて、世間じや『落ちぶれても教師にはねえ』なんていう人もいるけれども、そんな気持ちはなかつた。卒業した時は就職難でね、一番最初に勤めたのが今の富士高校で女学校だつた。英語と教育学を教えたけれども、教えたクラスは高校を卒業した今の短大みたいなもので、二十才位のお嬢さんの前で教えるのは随分照れくさかつたなあ」とおつしやる。

 もう少し先生の学生時代についてうかがつて見よう。「僕の学校の裏に林があつてね、月見を兼ねて徳利を持つてその林の中に入つていつて読んだ本などを批評しあつたものだつた。だから、人より本の読み方が浅いと恥ずかしいから随分一生懸命に読んだなあ、こんな事は余りよい事じやないけれどねえ。」となつかしそうな顔をされた。

 「戸山の生徒会が年々不活発になつていくというような事を聞くけど、僕は必ずしもそうは思わない。大体何かを作つているときはとても活発に見えるものだけれどそれが一応完成して維持して行く段になると、目に見えて進んで行くような事がないからかえつて難しいね、生徒会もそうだと思う。

 だから、ぢみちに前から来たものを受け継いで行くことは、必ずしも退歩とはいえないと思う。ただクラブ活動へ参加するものが減つたりエゴイストが増えたりすることは確に問題だけれどもね。」ともつと長い目で見たいというようにおつしやる。

 また試験ということを戸山の校長先生としてどんな風に考えていらつしやるか伺うと、「そりや試験のない世の中は理想だけれども現実の問題として一年二年でそういう問題が解決されない以上、それに勇敢に立ち向かつて行くように激励するだけだね」とおつしやつた。又、「もう人工衛星の廻る世の中となつた以上、世界国家とまではいかなくとも、もつと世界的視野でものを見るようにならなければならないね、もう余り国家というものに執着しない方がいいね。」と言われた。

 とにかく、七十周年に当つて僕等は非常に良い校長先生を持つたと思う。しかし残念なことは、先生と僕等が余りにも顔を会わす機会が少いことだ。先生もそのことを心配しておられた。記念行事が終るまでは先生は非常にお忙しいので仕方がないとしても、それが終つて少し落ちついたら、もつと僕等に身近な校長先生となつていただきたい。たまには生徒委員会などを見にいらつしやることもいいのではないだろうか、またいつも演説口調でなくて、普通に僕等と話し会える機会が出来たらもつと良いのだが・・・(寅)

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 さて前にも書いたように「先生列伝」は、創刊号の藤村先生以来、愛読していただいたが、今回を持つて、一応終了することにして、今後は時に応じて続編を出すようにしたい。また今迄の列伝を全部集めて活版新書版の「列伝集」が七十周年を記念して発行される予定である。御期待を願いたい。

石平 俊徳 先生 校長 戸山高校在職 1955〜62



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