先生列伝(51)田中先生 戸山高校新聞 第74号 1959年9月30日
 「中学時代は飛行士志願」


新聞74号

1963年卒業アルバム

 一年生や二年生のなかで『田中先生』と聞いて、ピーンとくる者は少ないと思う。むりもない。今年の四月都立目黒高校から戸山に来て、まだ六ケ月しかたっていないから。こんな人達のためにも先生にいろいろとお聞きしてみた。

 先生が英語の担当だということはみな知っていると思うが、先生は最初から英語を専攻した訳ではない。歴史の教師になろうと語学を勉強中、英語がおもしろくなって、英語を専攻したという。

 しかし先生になろうと思ったのも、戦後大学に入ってからで、中学(旧制)を卒業して、軍人になり飛行機に乗ることを夢みて、長崎の海軍師範学校へ進んだ(生まれは東京という)このため中学時代は、たいへんグライダーにこったという。しかし一年にして敗戦となり、大空を飛ぶという大きな夢も破れて、大学に入った。大学は青山学院でキリスト教に興味をもって入学し、一時、宗教音楽唱歌隊に入ったという。このため、英語の発音がきれいなのかもしれない。また先生の板書もたいへんきれいだ。

 このままずっと先生でおられますか??と聞くと、『私はずっと先生のつもり、だけど、今は教えるとともに自分も勉強しなければなりません』と話しておられた。

 先生は『戸山生は紳士的で、そだちがよく、破格的なところがない。またスポーツが盛んで大変健康的でよいと思った。目黒高にいた時、戸山と聞くといわゆるナンバー?スクールだから、予備校的なところがあり、コチコチにカタイと思っていた。けれど戸山にきてみてそんな感じは全然しない』という。

 補習?卒講生について先生に聞いてみよう
『補習は生徒の負担が大変じゃないのかな。だけどあれだけの期間があると、何かまとまったものが一つできますよ。卒講生については、進学指導が熱心である現われでしょう。なにか一つの意味をもっていますね』

 教室の電燈がないのには少々おどろかれたようだ。また『戸山は男子系なのであっさりしているが家庭的なところがなく先生と生徒の交流が少ないようだ。放課後など、テニスコートで練習をしているのを見ると生徒と一緒にしたいと思うけれど、他の先生はしていないので気がひけてやめてしまう。また目黒高の時はよく生徒と囲碁などをやったが、今はまだ学校になれていないのでできないけれど私は生徒と一緒にクラブでスポーツなどをしたい』という。
先生はまた、戸山に来てからあまり出席していないが青山学院の大学院聴講生でもあるそうで、本もたくさん読みたいといい、できたら将来英語か英文学を何かものにしたいそうだ。先生は、『若い時はいろんなことをしておくんだ』と大いにハリキッテいる。まったくハリキリ?ボーイといった感じ。

 先生はテニス、山登り、映画などが好きだが、戸山に来てからはいそがしくて行くひまがないそうだ。

 先生はまた、家に帰ると一才八ケ月になる可愛い坊やの良きパパ。奥さんは聖心女子大学を出たという。また先生も奥さんも自動車を運転する。僕達が先生のお宅を訪問した時、帰りに自動車で送ってもらった。

 戸山には若い先生が少なく生徒と一緒になって運動をしたり話し合ったりする先生がたいへんすくない。先生、もう少しなれたら、僕達の中にどんどん入ってきて、一緒に楽しく遊んでください。そして戸山の古ぼけた(古い先生の多い)職員室に新しい風をふき込んで、もっと明るい先生と生徒の交流に役だってください。
                            (嵐)
【写真は先生御夫妻と坊や】

田中一郎先生 英語 戸山高校在職  1959〜67



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