先生列伝(52) 田代先生 戸山高校新聞 第75号 1959年11月17日
 「“戸山一家”の三代目」


1962年卒業アルバム

1965年卒業アルバム

 ある土曜日の昼下り、閑散とした教室に記者四人が先生をかこんで坐っていた。灰皿から吸いはじめたばかりの煙草のけむりがゆらゆらと立ちのぼり、奇妙な紫の模様をつくっていた。煙草のお好きな先生は、知らないうちに、一箱も二箱も吸ってしまわれるという。

 今回は、この四月に、前号に掲載した田中先生とご一緒にこの学校に来られた田代先生を訪問することにした。

 四月からすぐに国語科の教師として僕達にお目にかかれるわけだったのが、病気のため、七月末からの登場となった。そういった関係で、教室でお会いしている者以外は、接触もまだほとんどなく、お顔を想像するのも困難かもしれないが、ホラ目ガネをかけて、背は高い方ではないけど、歩くときにアゴをちょっと前に出して歩く、そうあの先生ですよ。

 一高から東大といえば昔流の秀才だが、先生もそのお一人。茨城の水戸中学から東京の一高に進まれ、東大では国文学を専攻、ところが先生のご卒業の年の十二月八日に太平洋戦争が勃発し、有無をいわせられず戦線へ。陸軍兵として、ジャワ、ビルマで服役され、終戦と共に二十二年に帰国された。国語科の教師になる決心は、翌年に北園高校の教師になるまでの一年間になされ、以後今日まで高校の先生をなさっている。八人という半ダースよりも二人多い兄弟の下から二番目。男四人、女四人と、ちゃんと遺伝の法則にかなっている。

 世の中などはせまいもので、水戸中学で先生が、教わった国語科の先生がなんと本校の守屋先生だったというから、まさにオドロキのいたり。ところがまだある。守屋先生が教わった英語の先生が藤村先生だったそうだ。だから守屋先生は田代先生のお父さんで、藤村先生は守屋先生のお父さんで、そして田代先生が僕たちのお父さん。だから僕たちは、藤村先生のヒコマゴというわけ。さしずめ「戸山一家」といったところ。ところで先生ほど趣味の少ない方も少ないだろう。いや全くないといってよいかも知れない。スポーツだめ音楽だめ、カメラも犬もだめ、テレビ、ラジオはもってのほかそれに、本もあまりお読みにならない。カメラは持っていると自分のことばかりもとっていられないし、他人をとるのもやっかいだと言われるから相当の倹約家でお金も相当たまっているのかな?いやこれは冗談。

 先生が高校時代にクラブ活動をやられなかったということに関して次のようなエピソードもある。高校入学当初、上級生が先生に、三日三晩にわたって、入部勧誘をしたが、先生も断平として三日三晩ことわり続けたそうだ。しかし一度だけ、ボートレースに出て、そのときは、見事銅メダルを獲得なさったそうだから、先生もやりさえすればけっこうなんでもできるのかもしれない。

 本年とって四十一才、いまだにチョンガー。ただなんとなく……だそうだ。先生の奥様には興味のあった者も多かろうから少々期待外れ。「ゴマ化さないで考える」それが先生のモットーで、僕達戸山生は目的意識が足りないように思われるそうだ。でもまだ会ってから間もないし生徒との接触をたいへんしたがっていらっしゃるようだった。終戦直後、日本には真の青空が顔を出した。ところが現在はそのときに発見された真実の道がとられずに、かえって昔の物や人が自信や権威までをもって出てきているのは残念なことだとおっしゃる。   (巌)

田代三良先生 国語 戸山高校在職 1959〜79



連絡・お問い合わせは城北会事務局へどうぞ。e-mail:johoku@toyamaob.org