先生列伝(55)武田先生 戸山高校新聞 第79号 1960年5月17日
「若者よ産土の精神を持て!!」


新聞79号

 「一難去ってまた一難」、とぼやくのは二年甲乙丙丁組の生徒。なぜって藤村先生から解放されて一安心と思ったとたん、柴田先生よりこわいというので“(ガンマ)プラスアルファ”というアダ名を卒講生からいただいたという先生が、今度英作?英文法の講師としてお目見えになったからだ。そのオッカナイ(?)先生が武田先生だ。なにしろ先生は今から約十八年ほど前に藤村先生から「君、死んだ方がましだよ」と言われた一人で、担任の先生が北野先生だった。昭和二十一年四中卒業後、慶応にちよっと在学してのち上智大学にはいられ大学院を経て修士課程修了、そして二十三年杉並区立大宮中学、二十六年千歳高校、三十一年八潮高校、玉川高校の先生生活を経て三十二年十月に本校の講師となられた。現在は本校の他に武蔵工大、東洋大、数えきれないほどの予備校の講師をなさっている。

 先生の四中時代のころはちょうど戦争でゴタゴタの最中だったので入学当時は二百五十人だった同学年生徒数が卒業の時はたったの二十三人(ただし中学四年で卒業した人数)だった。しかも紙不足で卒業証書も「おって取りに来い」とのことでそれぎりになってしまった。またそのころの思い出として語られるには忘れもしない八月十七日(戦時中で夏休みはなかった)金曜日の五時間目、柴田先生の時間で珍らしく当らなかったのでほっとしてうとうとしてしまい見つかって立たされたがあやまらずに夜学の生徒が来るころまでずっと立っておられたそうだ。

 先生の今のアダ名は“デコ”これは先生が授業中に百メートル四方に聞こえるぐらいの大きな声で連発される言葉からきたもの。千歳高校では「デベソ」とどなっていたのだが女子に対してそれではあんまりかわいそうだと思い「デコ」に変えられたということ。

 おんとし三十歳。おすまいは日吉の静かな山の中。先生の四中時代には試験のあるごとに呼び出しをくって学校にしばしば足を運ばれたという母上と一っしょ。趣味は純日本調で和歌を詠むこと、日本舞踊を見ること、自然の風景を見る程度の小旅行など。

 「日本人は外国のものだと何でもすぐとびつきたがるが、もっと日本的なものの誇りを研究してからでなくては。それに今の若い人は赤旗をふっても何をしてもよいから、郷土を愛するという産土(うぶすな)の精神を持つべきだね」とおっしゃる。先生は、浅草に行って隅田川をポンポン蒸気で渡って行くのが一番好きとのこと。そして、世の中で何がきらいといって一番きらいなものは政治だね、と言われる。

 先生が中学のころは戦時中のこととてクラスには英語廃止論者が多かったが先生は唯一人「日本がアメリカを占領した時に日本人が英語をしゃべれなかったらどうするんだ。僕は日本がアメリカを占領したらアメリカ人を指導してやるんだ」と有用論をいきまかれたのだが結局ミイラとりがミイラになってしまったのだそうだ。「しかし戸山の生徒には“少年よ大志をいだけ”といいたいですね」とおっしゃる。

 最後に左記の和歌を即興にお詠みになり短冊にサラサラと書いて下さった。

  れいろうとなりわたる鐘
        このよいの
   訣れを告ぐる 端午の節句
                            (淡)

武田勝彦先生 英語講師 戸山高校在職 1960〜61

 この文章は先生ご本人のご希望により一部修正及び削除の上掲載致しました。



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