先生列伝(56)林 先生  戸山高校新聞 第80号 1960年7月2日
「二流の芸術家は存在価値がない」


新聞80号

 浦和市でうぶ声を上げられた先生は、京都、神戸、山形、青森でやっと小学校、その後、東京の麹(こうじ)町、岡山、東京の芝、水戸と全国をかけ回り水戸中学に半年。最後に落ちついたのが東京、そこで四中に転入したというわけだ。お父上が官吏のためだったと言われ、このため、性質は人づきあいはよくなったものの、おちつきが足りなくなったと言われる。

 巨樹と書いてオオキと読むのが先生のお名前だがこれは先生のおじいさまが初孫のために取っておかれたものとか。特徴ある講義をもってならす先生は現在二DとEとで国甲を、二GとHで国乙を教えられている。現在、ほかに青山学院大の専任講師と、立正大学で講師をされている。

 四中時代の先生のうち現在九先生が戸山に残っておられる。「戦争のまっ最中でねえ。楽しからざる青春だったよ」と語られ、教練や富士のすそ野での連合演習にも参加したが、のみにくわれたりして、さんざんだったそうだ。十九年に卒業後、成城高校、東大(旧制)へと進まれ大学院で研究のあい間に横浜市立港高校と小石川高校の定時制の講師の後、小石川の全日制の講師をされていた。

 美術が比較的得意で、四中の馬場先生に美術学校への入学を勧められたが「二流の芸術家は存在価値がない」ことを自覚してはいらなかった由、野球も軟式ぐらいならというから話せるがオタマジャクシの教育は受けなかったそうだ。ただし音楽を聞くのは好きとのこと。現在四才の男の子のパパである。あいにく、雨の中を荻窪のお宅へうかがったときは、いなかった。

 最近の高等学校教育について「十五才以上の生徒なので、一応できあがった人間をあずかることになる。そのため、お菓子にたとえれば食べ方はおしえるが、むりに食えと言えない状態だ。その点、四中のように、あずかった以上は生徒を必ず一人前に仕立てて返すことができたむかしの方が教育としてはよかった。現在のやり方では、十分にみのらない人間ができはしまいか」とのこと。

 学生の請願デモについては、「全学連は、戦争の結果の社会のゆがみにより、秩序、均衡の感覚がくずれてしまっているのではないか。また高校生も校長が行くなと言ったら行くべきではないし、行きたかったら退学してでもというくらいの信念と気力がほしい。また、校長は絶対であるべきで、この点から深井先生の教育法はまちがっていない。ここから学校の特色と誇りと伝統が生れるものだ」といわれた。

 最後に戸山について、女生徒の進出と、先生方の愛称の減少を指摘された。 (申)

林 巨樹 先生 国語講師 戸山高校在職 1960〜61



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