先生列伝(60)細田 先生  戸山高校新聞 第93号 1962年9月28日
 「皆と心を通わせていきたい」

    
1964年卒業アルバム


1965年卒業アルバム

 校長先生はこんなに身近な方だったのかと、あらためて感心してしまった。先生は記者に私たちの相談をいつでも受けとめてくださるような印象を与えたからだ。実際、先生も「皆と顔を合わせる機会が少なくてね。折あるごとに顔を合わせ、心を通わせていきたいと思っているんですが」とおっしゃる。今回も貴重な時間をなんどもさいて、温好なまなざしで静かに語ってくださった。

 先生のお生まれは島根県松江市。幼少時代の先生は非常に陽気で活発な少年で、元気ありあまって四回も大ケガをなさったそうな。

「父は県庁の役人で五人兄妹の長男の私には役人の道に進むことを望み、私もそのつもりでいました」そのままなら役人になっていられたかもしれない先生が迎えた一つの転期、それは先生が中学四年の時にお父さまをなくされたことだった。「非常にショックでしたね。悲しみ、迷い、責任の大きさにおしつぶされ、一時は進学を断念して、中卒後、親類の者が創立した米子の銀行に勤めました。しかし半年を経て心が落ち着いてくると再び学問への意欲が湧いてきて銀行をやめ、残る半年は受験勉強に没頭しましたね。そして松江高校に皆より一年遅れて進学したんです」今でこそ淡々と語られる先生だが当時のご苦労はどんなだったであろう。

 先生の半生には、お父様の死とともに文学が大きな意味を成してきていられるようだ。「父の死後、多少内向的になったようです。文学に興味を持ち始めました。高校では同人雑誌を出し、創作や随筆や評論めいたものなども書いて新聞にも発表したりなどしていました。国文学のほかに英文学など特に好きで多少は読みましたね」のち、東大国文科へ進まれてからも雑誌“山繭”の同人として時に作品を発表なさっていたそうだ。「同人には堀辰雄、永井龍雄や、本校出身の神西清なんかがいました」なるほど、お話になる先生からは文学青年のおもかげもちらりとうかがわれる。「教育界に入った動機も、これが学問や文芸活動を続けていかれる仕事と思ったからです。それと、のち日比谷高校の校長になられた中学時代の恩師の影響もありましたが」

 文学については先生の一生を決める一大原因にまでなったのだからいかに先生が熱意を抱いておられたかが想像される。教育界に進まれてからは「苦しいこともあったが今思えば随分愉快にやってきました。千葉一高でちょうど私が野球関係に携わっていた頃、甲子園に連続出場しましてね」となつかしそうにニッコリされた。

 現在先生は、上は大学卒業の方から中学の方まで五人のお子様のお父様でもある。「私は本来多趣味でしてね。いろいろな収集をしたもんだが、どうもそれが子供にも移っているようでね」とちょっぴりよきお父様ぶりを覗かせられた。

 今度は向きを変えて戸山の各面に対するご意見をお尋ねしてみるとまず生徒の印象としては「なにか少し堅い感じもしますね。自由の中にもきびしい秩序がなければならぬ。が、整った秩序の中にも自由がある----といったそんなゆったりした大らかなものが少し欲しいですね」

 高校生と政治については「関心を持つことは必要ですが、軽率に言葉に移したり活動に走ったりすることはいましめてほしいと思いますね。もっと身近な学校秩序の点などから発していって深い意味で政治を考えるべきじゃないかな」
学園祭については「どういう学園祭がどのように行われるか期待しています。批判はそれからすることにして。ただ私は、いかにも戸山らしい聡明な行き方がどこまで浸透しているようなものにしてほしいと思いますね。サァ、どんな学園祭ができるかな」と笑顔になられた。

 記者は三回にもわたって校長室を訪れ、様々な話をうかがった。全部を伝えられないのが残念だが力説したいのは、校長室のドアは決して重いトビラではないことだ。教育者として経験の深い校長先生と語り合い、アドバイスしていただけたらどんなによいことであろう。                               (慧)

細田 菊雄 先生 校長 戸山高校在職 1962〜65



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