先生列伝(67)井尾 武雄 先生 戸山高校新聞 第124号 1967年9月30日
 能力に応じた教育を強調


1967年卒業アルバム

1969年卒業アルバム

 「私が入学したころの府立五中(現小石川高校)は自由な教育と定評があって、スパルタ式教育で有名だった四中とはよく比較されました。どちらが良いとは決められないが」「金沢(五高)での三年間は弓道部の生活が中心でした。それと、下宿の経験が私の人間形成上、非常に役立ちましたね」

 ある休日の午後、世田ケ谷上馬のお宅で、校長先生は中学高校時代のお思い出をこうふりかえられる。ベージュのカーディガンを着こなされた先生は、まさしく紳士である。

 明治四十二年、東京のお生まれ。東大国文科出身で、卒論は日本上代の記紀歌謡に関してとか。昭和九年、ご結婚、終戦間近まで満州で教鞭をとられた。戦後は、江戸川高教頭を初めとして広尾、富士高校の校長をへられたのち同四十年、本校の校長に就任された。

 「漱石や倉田百三のものを愛読した時期もあったが、今は特に好きな作家はいません。音楽も好きだが、ステレオにもレコードにもこるわけではないし、碁や麻雀などにも興味は湧きませんね。酒も飲めない方で。夢中になる趣味はまあ、ありませんね」

 淡々と、こう語られる。このことばからも、慎重で落ちついた性格が想像される。が話題が教育に関してくると、「私は教育者であって学者ではない」まずこう、ご自分を評されて熱っぽく話される。

 「学校群は受験地獄をなくすためらしいが、その原因は中学によるところが大きいのに高校側だけを変えるのはどうかと思いますね。また、民主主義とか自由主義とかの反面、あのように自分の意思で学校を選べないのは統制とも考えられるのでは」「第一、授業内容の程度を均一化するのは考えものですね。いわゆる校風はうすれてゆくし、それに、後期中等教育を改編するための中教審や、『期待される人間像』でも答申されたような「能力にあった教育(コース制など)が一番大切ではないかね。なにしろ、学校内の差別は逆効果でできないから。しかし、残念だがもう何年かたったら本校の教育方針を再考する必要も生じるかもしれない」

 「本校の男女共学はどうですか。地方の県立のように都立でも、男子校、女子校、共学校などを自由に選べるバラエテイがあってもよいと思う。昔の男子校に女子を入れるのは、家庭科の施設の面からも気の毒でね」

 終始「能力に応じて自由に選べる教育」を強調なさる。有名校と一般高、普通課と職業課、共学と別学、などの存在の必要性を「能力・・・」「バラエテイ」などのことばで理由づけていらっしゃる。つまるところ、高校の“総合制”“男女共学”には大部否定的というところか。

 一方、私たちの校長先生に対する意識「雲の上の存在」に関しては、一応認められる。「確かに生徒との接触は少ない。式や昼礼で話す機会が中心ですからね」と。しかし、「でも人数は多く、三年間は短い。それに事務的な仕事が山ほどあって忙しい。現状ではこの程度が精一杯というところですね」と割り切っていられる。そして先生は、次のように話を結ばれた。

 「クラブは重要だろうが、目前の難関は突破せねばならない。そして君たちには、日本の発展のために大いに尽してもらいたい。それらのために、一生懸命勉強して下さい」
                                    (樹)

井尾 武雄 先生 校長 戸山高校在職 1965〜70



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